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アヴェスタ  作者: あると
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二重世界

二つの世界を行き来していると、自分が本来どちらにいるべきかわからなくなる。

時には、重なり合った空間で、別々の存在を見てしまうこともある。今がまさにそれだった。


メーノーグ世界では、ふくよかな女が周囲に目を配っていた。目元のやわらかい顔が優しい印象を与える。視線に気づいて、彼女はにっこりと微笑んだ。


「あら、マーフ。お目覚め?」


アールマティの問いかけに、マーフは答えられなかった。中途半端な位置に存在していたからだ。見て、聞くことはできても、身体は動かない。


ゲーティーグ世界では、細身の少女が遠慮がちに覗き込んできた。金色の長い髪が額にかかっていた。


「沙月さん、ただいま」


アナーヒターが毛布を肩まで引き上げてくれた。何時間か前、背中とベッドの間にクッションを入れたとき、落ちたままになっていた。すでに窓の外は暗い。寒さが忍び寄ってきていた。


「向こうにいるのですか」


アナーヒターの問いには、望郷の念があった。

メーノーグが恋しいのだ。まだ、こちらの世界に慣れておらず、知人も少ない環境で、心細い思いを抱いているのだろう。

沙月は、この年若い娘の頭を撫でてやりたいと思ったが、指先さえも、動かすことができなかった。


反応がないことを知ると、アナーヒターはリビングのカーテンを閉めた。部屋の隅に置いてあるスタンドの明かりをつける。淡い光が、沙月の長いまつげをほのかに照らした。


「戻ったら――」


アナーヒターの声が小さくなった。何かためらっている様子だった。


「相談があるんです」


彼女から何か要求してくることは珍しかった。いつも大人しく、言われたことを素直に聞くだけの娘だった。

何か、あったのだ。さっき、少しだけ視界に入った顔が、普段より青白い気がした。

早く戻ろう。そう思っても、簡単にはいかなかった。自分が望んだところに定まれるほど、彼女は安定していない。


大震災を契機にして、不安定さが顕著になった。以前は、ほとんどゲーティーグの沙月として暮らしていたが、今ではメーノーグのマーフの幅も大きくなっていた。

両者の境界が曖昧になりつつある。どちらともつかなかったり、どちらでもあったりした。


「ねえ、あの娘は元気にしてる?」


アールマティが地面にあぐらをかいて座った。警戒を解いていた。安全と判断したのだ。


「寂しがったりしてない? こっちから送り出したはいいけど、急だったからね。あなたがいるから、大丈夫かな」


彼女は腰から革の水筒を外し、中身をあおった。


「マーフも飲む?」


アールマティはハオマと呼ばれる酒を飲んでいた。神々が口にする酒は、このハオマのみだ。それ以外のものは、悪い酔いをもたらすとして、忌避されている。暴虐の悪神アエーシュマに力を与えてしまうからだ。


「こっちの戦いが落ち着いたらさ……」


独り言のように呟くアールマティの声が遠くなった。マーフの意識がメーノーグ世界から去ろうとしていた。


沙月の嗅覚を、焼いた魚の匂いが刺激した。薄暗がりの中で目を開いた。肩から腕にかけての肌が空気に触れ、すぐに冷え始めた。沙月はのろのろと薄手の毛布を引き寄せた。


「沙月さん」


ベッドのきしみに気づいて、アナーヒターが顔を上げた。沙月のベッドは、彼女の寝室から陽当たりの良いリビングに動かしていた。キッチンから一望できる位置だ。


「おはよ」

「ご飯、食べますか」

「いらない」


せっかくの好意だが遠慮した。魚は嫌いだったし、食べる必要もなかった。

何週間も、食べ物を口にしていない。水を少し飲むだけで、食物を摂取することが不要になっていた。心が彷徨い出すようになってからだ。一日のほとんどを、横になって過ごしていた。


「アナはちゃんと食べな」


アナーヒターを促して、テーブルに向かわせた。

沙月は、寝起きの重い身体を引きずって、冷蔵庫からボルヴィックのペットボトルを取りだした。一人きりの食事は寂しいと思い、キャミソールのまま、食卓に着いた。

アナーヒターの目が嬉しそうだった。笑うまではいかない。安堵感めいたものが伝わってきただけだった。彼女は、感情を表現するのが得手ではない、ということがここ二ヶ月でわかった。


「大人しいよね」


アナーヒターは、焼いた魚の骨を器用に取り除き、小さく切り取って口に運んでいた。ご飯と合わせてゆっくりと噛んで飲み込む。その間は何も喋らない。沙月の感想にも意見を差し挟むことなく、黙って聞いていた。


思い起こせば、彼女を預かることになったのは、大震災の日だった。混乱の続く夜に、メーノーグからアールマティの声を受け取って、彼女を迎えに行った。アスファルトの上で伏せったアナーヒターは、か細く震えていた。


今の彼女はどうだろうか。大人しいだけの女の子のように見えるが、沙月の目が届かないところで、震えてはいないだろうか。


「シャワー浴びてくる。相談はあとで聞くわ」

「あ、はい」


アナーヒターは箸を置いて頭を下げた。相談を持ちかけたことが、うまく伝わっていないようなら、また日を改めようと考えていた。声が届いていたことで、ほっとした。


「少し、伸びたね」


風呂から戻った沙月は、アナーヒターを椅子に座らせ、金色の毛先にはさみを入れた。綺麗に切りそろえた後に、櫛を入れ、頭の後ろでひとつにまとめた。


「こういうのも似合うんじゃない」


ポニーテール姿を鏡に映して見せた。申し訳なさそうにしていたアナーヒターの顔が少し赤くなった。


「なんだか、恥ずかしいです」

「そんなことないって。明日はこれでいってみなよ」


躊躇いながら頷いたアナーヒターに満足し、沙月は腰を下ろした。


「相談って、男のこと?」


年頃の娘の相談は、十中八九が異性に関するものだ。たとえ神であっても変わらない。沙月もそうだったからよくわかる。

アナーヒターの髪をいじったのは、話しやすいような気持ちにするためだった。スタイルを変えることで、抑え込んでいる感情を解放する意図がある。あわよくば、目当ての男の気を引いて、恋愛を成就させることもできる。


「アジ・ダハーカをご存じですか」

「ちょ、ちょっと待って。なんであいつの名前が出てくるの?」


魔龍として名が通る悪神だった。彼女らにとって、倒すべき敵である。


「こっちの世界に現れている、のね」


アナーヒターの頷きで、沙月は難しい顔をした。

アジ・ダハーカは手強い存在だった。前の戦いでは、何柱もの神が殺されていた。武力を持たない彼女からすれば、恐怖の対象だ。


アナーヒターは、沙月の反応を見て口をつぐんだ。アジ・ダハーカに対して、よい感情を持たないとは思ったが、そのとおりだった。やはり悪神ということが問題なのだ。


彼女は取り戻したばかりの記憶を辿った。あの時、二人は共に戦っていた。同じ側に属していた。

沙月が忌避するのは、過去において、彼が改心して仲間となるまでに多くの障害があったことを意味する。アナーヒターには思い出せていないが、沙月であるマーフの近しい人が傷つけられた可能性もあった。


「あいつと、どこで会った?」


アナーヒターは、昨日、港に拉致されてしまったことを話した。ちんぴらから彼女を救ったのがアジ・ダハーカだった。その時の凄惨な殺戮については伏せた。後からわかったことであるが、学校のこと、同じマンションに住んでいることも口をつぐんだ。


聞いた話のすべてが沙月にとって初耳だった。ほとんどずっと、半覚醒のまま眠っていたせいだ。毎日、顔を合わせて会話をしていれば、もっと早くに知ることができた。アナーヒターを預かっている立場として、アールマティに顔向けできない。


しかし、アジ・ダハーカが偶然、アナーヒターを助けたとは考えにくかった。不自然なのである。何か目的があって、彼女に近づいたはずだ。


「茂樹はどうしてる? ウルスラグナが完全に覚醒すれば、アジ・ダハーカを倒せるかもしれない」


アナーヒターは首を振った。ウルスラグナは、まだ十分な力を見せていない。アジ・ダハーカと対等に戦えるのかも判断できない。


「もっと、戦力が欲しいところかな」


沙月やアナーヒターは戦いには向かない。ウルスラグナのような戦士が必要だった。

人間の中で眠っていた彼を見つけたのは沙月だ。メーノーグからの助言があってのことだった。彼ら以外にも、現世に眠っている者や、神であることを隠して生活している人間がいるかもしれない。


「ごめん、寝る」


身体に力が入らなくなってきた。眠気が目蓋を押し下げる。


「相談に乗れなかったね。アジ・ダハーカには気をつけて。見かけたら気づかれないように逃げるのよ」


アナーヒターに支えられて、ベッドに潜り込んだ。


「また、一人にさせてしまうわ」

「大丈夫です」


沙月はアナーヒターの手を握った。

大丈夫じゃない。大丈夫なら、そんなに目をしない。


「おやすみなさい」


アナーヒターは沙月の手を毛布の中にしまった。


眠りに落ちた彼女に、相談の中身を言わなくてよかったと思った。アジ・ダハーカであり、龍之介である彼とどう付き合えばよいのか聞いても、やめるように言われるのが目に見えた。

彼とのことについて、隠して正解だったかもしれない。全部を伝えなかったことで、少なからず罪悪感を感じていたが、余計な心配をさせるよりはよかった。


龍之介にも、ちゃんと話をして頼めば、無茶なことをしないはずだ。明日にでも、会いに行こうと思った。


アナーヒターは髪をまとめていた紐を解こうと手をかけた。思い直して、もう一度、鏡を見てみた。

この髪型を見たら、アジはなんと言うだろう。

そんなことを気にしている自分が不思議だった。


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