龍の望み
夕暮れ時の赤い雲に紛れ、アジ・ダハーカは公園の森に降り立った。
数日前まで咲き誇っていた桜は葉桜になっていた。閉園時間は過ぎており、人の気配はない。人払いをする必要もなかった。
黒い皮膜を折りたたむ。背丈の何倍もの大きさを持つ翼が、背中に隠れるくらいになると、身体の中に消え失せた。
固く抱き寄せていた腕を解くと、アナーヒターは顔を伏せたまま離れた。無言でいるのは、彼の行為を非難しているためだろう。
距離を置かれるのは当然だ。彼女の意思を無視して、強引に連れ去ったのだから。
人間の姿に戻った龍之介は、ひとときの感情で彼女を抱きしめてしまったことを後悔した。
手を伸ばせば、すぐ届く位置に彼女はいた。背を向けて逃げ出されたわけではない。拒絶されたわけでもない。
引き戻すことは可能なはずだ。
だが、動けなかった。
「私を殺すの?」
いつまでも口を開かない龍之介に、アナーヒターはかすれた声で問うた。
「そんなことはしない」
殺す理由がない。できるわけがない。
何故、心惹かれる女性を手にかけなければならないのか。
「敵なのに?」
違う。
龍之介はアナーヒターの視線と出会い、目を逸らした。
違わない。
「僕は、あなたを傷つけない。敵だとしても」
「私は、あなたを傷つけられない。……力がないから」
龍之介は唇を噛んだ。
力があったら、傷つけることも厭わないということか。
彼女は、龍之介を敵として認識している。打ち倒すべき存在として見ている。
善神と悪神は、結局のところ、相容れない関係ということだ。
過去から続いている因縁は、善と悪の闘争を繰り返させる。善なるアフラはダエーワを滅ぼし、悪なるダエーワはアフラに抗戦する。
時代が移ろうとも、変わらない。
「傷は、ついたよ」
「ごめんなさい」
アナーヒターは、自分の言葉が彼の心を傷つけたことに気づいた。そのつもりはなかったが、傷を負わせてしまった。
自分は無力である、と考えていたことを恥じた。
戦神であるウルスラグナのような武の力があったら、とは思っていたが、それとは別に、言葉にも力があることを知った。
言葉を発することができれば、誰もが持っている力である。その力は、使い方次第で人を傷つける。剣を振るうよりも、簡単に。
「いいんだ」
龍之介は大きく息を吐いた。
「もう」
胸の奥に痛みを感じた。
彼女との間に壁があった。簡単には乗り越えられないほど、高い壁だ。人種の壁でも、性別の壁でもない。善と悪の、もっと根元的な違いによるものだ。
彼女は、拒んだ。悪の側にいる自分を拒絶した。
「龍之介」
アナーヒターは、手のひらが湿っていることに気づいた。
この焦燥感はなんだろう。
「アジ・ダハーカだろ」
胸の痛みは、ひびが入ったからだ。
そこから何かが染み出てきた。本来持っていたものだとわかる。アナーヒターと出会ってから覆い隠していたものが、再び、滲み出てきた。
龍之介は、自分が悪神であることに抗えなかった。
欲するものを奪え。
教えられるまでもなく、身に備わった理念だ。それが、今まで抑えられていた。アナーヒターの清浄の力が、彼の心を抑制していたのかもしれない。
善神の力は強い。悪の化身でさえも、影響を受けるほどに。
アナーヒターには力がある。武の力と種類が違うだけで、十分に強力な影響力を持っている。彼女が気づいていないだけだ。
アジ・ダハーカは、アナーヒターの腕をつかんだ。伸びた爪が彼女の皮膚を食い破った。後じさろうとする彼女を力ずくで抱き寄せた。
「痛い」
肉体への痛みだ。
「痛いだろうな」
腕から流れる血を口に含んだ。
清らかな生命の水だった。濃厚な脳の味わいとは別だったが、食前酒にしては、十分に濃いものだった。
「やめて欲しいなら、僕に従うと誓約しろ」
血は、すでに止まろうとしていた。
アジ・ダハーカは別の部分を撫で、皮膚を開いた。さきほどよりも、深く、傷つけた。
痛みは大きくなった。
アナーヒターは目元を潤ませた。
「いやなら、僕を殺せばいい」
彼女の腕力では、拘束を解くことも無理だ。
だから、わざわざ口にした。
「できない」
思った通りの答えだった。
「諦めて、僕の……僕のものになれ」
アジ・ダハーカは、心の中の悪意を吐き出した。
ひどい痛みが伴った。
「無理を、しないで」
細い手が頬に触れた。
彼女の指先は濡れていた。