表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アヴェスタ  作者: あると
10/13

妖の弁者

茂樹は、痛ましい姿の遺体から目を離した。


アエーシュマが彼に気づいた。悪神に理性は見受けられなかった。紅潮した顔が酩酊を示している。薄い陽射しの中で、その姿はただただ異様だった。


茂樹は剣を上段に構えて、ゆっくりと摺り足で近づいた。


もう少し剣道を熱心にやっていればよかったと思う。

警察に入ってはじめて習った武道で、基本しか身に付いていなかった。だが、どうすればうまく斬れるか、ということは、数回の戦闘を経験して理解していた。学んだのではなく、思い出してだ。


切っ先を上段から落とした。アエーシュマの目が剣先を追った。即座に踏み込んで、斬りあげた。


幻惑。


斬られたことに気づかないまま、アエーシュマの肩から血が吹いた。しばし遅れて、悪神は傷口を押さえた。怒りも、遅れてやってきた。耳を震わせる叫びは、地鳴りだった。


茂樹は再び距離を取って、ひと呼吸入れた。


慎重にやらなくてはならない。アエーシュマと戦えるのは、自分しかいなかった。

今までの戦いには、アナーヒターがいた。負けると判断されたら、彼女の力で水入りとなった。

彼女のいない今、逃げ道はない。


肝が据わった。

覚悟を決めると、心が落ち着いた。神経が研ぎ澄まされ、心地良い緊張が、指先から足先まで走る。


アエーシュマの呼吸が聞こえる。横隔膜の上下動も透視できるようだ。筋肉の動きが目に頼らずともわかった。


集中力が高まっていた。余人のいない環境で、茂樹はアエーシュマだけに意識を向けられた。

不幸中の幸いである。

アナーヒターの身を案じる必要がないことで、気持ちが楽になっていた。警察官である自分は、どこかで彼女の安全を優先していたかもしれない。そのかせがなくなり、十分に力を発揮できる気がする。


陽光が、剣に反射した。

それを契機と見たのか、アエーシュマが突進してきた。


茂樹も腰を落として突っ込んだ。斜めに駆け込み、腕の振りを間一髪で避けて、刃を立てる。

大男が膝をついた。肉が裂けていた。


飛び起きて、剣を構える。

何かが飛んできた。

咄嗟に斬り捨てた。


「てめえ!」


千切れたスーツが目の隅にあった。防刃衣の切れ間から内臓がこぼれていた。人間が作った防御は、神の力の前で儚かった。


アエーシュマは躍りかかった。悪神は、自分の武具を現出させていた。頭部も獣のそれに変じている。

太い鉄の棒が空気を震わせた。


茂樹は上体を反らしてかわした。風圧で髪と額が薄く切られる。

汗が噴き出た。血の滴りが混ざり、皮膚を伝い下りてきた。目蓋にかかる前に、茂樹は横に飛んだ。それで、血と汗は吹き飛んだ。


鉄の棒が迫った。狙いをつけた突きだった。


茂樹は身体を捻り、跳躍した。

高く飛び上がるのは危険だ。落下点が推測されやすいからだ。弧を描くようには飛ばず、まっすぐにアエーシュマに向かった。


引き戻される棒よりも早く、剣を突き立てる。

アエーシュマの眉間に花が開いた。

伸びきった太い腕が戻り、茂樹を弾き飛ばした。

獣の絶叫がとどろいた。


車の上に落下した茂樹は、衝撃で失いかけた意識を取り戻した。そのままアスファルトの上に転げ落ちた。


アエーシュマは鉄棒をめちゃくちゃに振り回していた。痛みに悶え、狂っている。


仕留めてはいない。

戦いは始まったばかりだ。

沸々と湧き出てくる闘争心に、茂樹は高ぶった。


必ず、倒す。


消えていた黄金の剣を右手に呼び戻すと、茂樹は猛然と駆け出した。


「そこまでにしておいてくれぬか」


突然、茂樹の足下が消失していた。

アスファルトの崖に胸を打ちつけ、漆黒の穴に転げ落ちた。


「なんだ」


飛び起きると、土でも、砂利でもない真っ黒の物質の中にいた。上を見上げれば、空。


「ジジイ、お前の仕業か」


穴の縁に着物姿の老人がいた。


「公僕が使う言葉ではないぞ」


とぼけた返事に、茂樹は面食らった。


「説教している場合でもないか。ウルスラグナ殿、ここは引いてくださらぬか」


茂樹は老人を睨んだ。

疑念が、確信に変わった。

人払いの領域に踏み入り、神の名を呼ぶ老人は、ただの人間ではない。


「何者だ」


数メートルの深さも、戦神ウルスラグナとしての茂樹には無意味だった。老人がいる縁と反対側の地面に着地し、周囲を探った。

もうひとつ、地面に穴を見つけた。そこからアエーシュマの雄叫びが聞こえた。悪神の仲間というわけではないようだった。


「わしは、ヤートという者だ。妖術師と名乗っても意味がわからないかな」


奇怪な自己紹介に、茂樹は眉を寄せた。占い師や霊能力者なら、職務質問で名乗る輩はたくさんいた。妖術師というのは、警察人生の中で初めての経験だった。


「免許証を見せろ」

「あいにく、専属の運転手がいるのでな」


よどみのない切り返しだった。


「邪魔をするつもりなら、容赦できない」


茂樹は剣を握った。戦いをやめるわけにはいかなかった。このまま、アエーシュマを野放しにはできないのだ。


「提案だ。あの酔っ払いの神を引き取ろう。そのかわり、戦いをやめてもらいたい」

「あいつは、お前の仲間なのか?」

「神様が仲間だったら、心強いのだがな」


ヤートは、アジ・ダハーカのことを棚に上げて肩をすくめた。


「あいつを、どうするつもりだ?」


老人の提案は、実現可能ならば、悪いものではなかった。アエーシュマとの戦いに絶対勝てる保証はなく、人払いはいつまでも続くわけではない。

だが、燃え上がる戦いへの渇望は潤しがたいのも事実だった。


「酔い冷ましだよ」


ヤートがマンスラを唱えると、アエーシュマの穴に霧が出現した。濃密な水の粒子が渦を巻き、回転しはじめた。引き延ばされた粒が、白いヴェールのように広がっていた。

しばらくして悪神の叫びが掻き消えた。


茂樹は用心して穴に近づいた。

霧が晴れると、アスファルトの上に、人間の大男が倒れていた。穴もない。


人の姿に戻ったアエーシュマに、茂樹は心の炎をくすぶらせた。化け物ならば、剣を突き立てることもできただろう。だが、無抵抗の人間を斬ることはできなかった。


「逮捕だ」


警察官としての茂樹が、戦神の闘争心を抑え込む。


「待ちなさい」


老人の目が、茂樹を非難した。


「わしが引き取る、と言っただろうが」

「了解していない」

「約束を破る気か。善なる神が?」

「ミスラみたいなこと、言いやがって」


茂樹ははっとした。自分の口から出た名前は記憶にあった。頭の中に、厳しい顔をした青年の顔が浮かんだ。


「契約神と重ねられるとは、恐れ多い」

「いけすかないな」


茂樹は肩を落として、座り込んだ。

このまま解放して良いのだろうか。アエーシュマが暴れたら死人が出ることは確実だ。だからといって、戦い続けるのは困難だった。

狂ったアエーシュマを大人しくさせることができる術を、この老人は持っている。妖術師と名乗る男に任せるのが、この場合、適切なのではないか。


「連絡先を教えろ」


茂樹は、すべてを呑む腹づもりが定まった。


「アドレス交換かな?」


ヤートは懐から携帯電話を出した。茂樹も携帯電話を取り出したが、あまり得意ではない。


「ほれ、こうやるのだよ」


茂樹の手から携帯電話をむしり取り、ヤートは両手でそれぞれのボタン操作し始めた。


「器用なジジイ」

「こんなものは慣れだぞ、若いの」


お互いのアドレスを交換し終えると、ヤートは携帯電話を投げて返した。


「それではな」


いつの間にか、道路にシルバーのクーペが停まっていた。

ヤートはマンスラを唱え、意識のないアエーシュマを歩かせた。車に乗りこませると、自身もその後に続いた。


茂樹は、大の字なって空を眺めた。太陽が少し昇っていた。

先程までは静かな朝だったが、スズメの鳴き声が聞こえ始めていた。茂樹のマンスラの効力が消失したのだろう。危ういところであった。


黒い羽ばたきがして、茂樹は飛び起きた。

死体をついばもうとしていた鴉を追い払った。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ