妖の弁者
茂樹は、痛ましい姿の遺体から目を離した。
アエーシュマが彼に気づいた。悪神に理性は見受けられなかった。紅潮した顔が酩酊を示している。薄い陽射しの中で、その姿はただただ異様だった。
茂樹は剣を上段に構えて、ゆっくりと摺り足で近づいた。
もう少し剣道を熱心にやっていればよかったと思う。
警察に入ってはじめて習った武道で、基本しか身に付いていなかった。だが、どうすればうまく斬れるか、ということは、数回の戦闘を経験して理解していた。学んだのではなく、思い出してだ。
切っ先を上段から落とした。アエーシュマの目が剣先を追った。即座に踏み込んで、斬りあげた。
幻惑。
斬られたことに気づかないまま、アエーシュマの肩から血が吹いた。しばし遅れて、悪神は傷口を押さえた。怒りも、遅れてやってきた。耳を震わせる叫びは、地鳴りだった。
茂樹は再び距離を取って、ひと呼吸入れた。
慎重にやらなくてはならない。アエーシュマと戦えるのは、自分しかいなかった。
今までの戦いには、アナーヒターがいた。負けると判断されたら、彼女の力で水入りとなった。
彼女のいない今、逃げ道はない。
肝が据わった。
覚悟を決めると、心が落ち着いた。神経が研ぎ澄まされ、心地良い緊張が、指先から足先まで走る。
アエーシュマの呼吸が聞こえる。横隔膜の上下動も透視できるようだ。筋肉の動きが目に頼らずともわかった。
集中力が高まっていた。余人のいない環境で、茂樹はアエーシュマだけに意識を向けられた。
不幸中の幸いである。
アナーヒターの身を案じる必要がないことで、気持ちが楽になっていた。警察官である自分は、どこかで彼女の安全を優先していたかもしれない。その枷がなくなり、十分に力を発揮できる気がする。
陽光が、剣に反射した。
それを契機と見たのか、アエーシュマが突進してきた。
茂樹も腰を落として突っ込んだ。斜めに駆け込み、腕の振りを間一髪で避けて、刃を立てる。
大男が膝をついた。肉が裂けていた。
飛び起きて、剣を構える。
何かが飛んできた。
咄嗟に斬り捨てた。
「てめえ!」
千切れたスーツが目の隅にあった。防刃衣の切れ間から内臓がこぼれていた。人間が作った防御は、神の力の前で儚かった。
アエーシュマは躍りかかった。悪神は、自分の武具を現出させていた。頭部も獣のそれに変じている。
太い鉄の棒が空気を震わせた。
茂樹は上体を反らしてかわした。風圧で髪と額が薄く切られる。
汗が噴き出た。血の滴りが混ざり、皮膚を伝い下りてきた。目蓋にかかる前に、茂樹は横に飛んだ。それで、血と汗は吹き飛んだ。
鉄の棒が迫った。狙いをつけた突きだった。
茂樹は身体を捻り、跳躍した。
高く飛び上がるのは危険だ。落下点が推測されやすいからだ。弧を描くようには飛ばず、まっすぐにアエーシュマに向かった。
引き戻される棒よりも早く、剣を突き立てる。
アエーシュマの眉間に花が開いた。
伸びきった太い腕が戻り、茂樹を弾き飛ばした。
獣の絶叫がとどろいた。
車の上に落下した茂樹は、衝撃で失いかけた意識を取り戻した。そのままアスファルトの上に転げ落ちた。
アエーシュマは鉄棒をめちゃくちゃに振り回していた。痛みに悶え、狂っている。
仕留めてはいない。
戦いは始まったばかりだ。
沸々と湧き出てくる闘争心に、茂樹は高ぶった。
必ず、倒す。
消えていた黄金の剣を右手に呼び戻すと、茂樹は猛然と駆け出した。
「そこまでにしておいてくれぬか」
突然、茂樹の足下が消失していた。
アスファルトの崖に胸を打ちつけ、漆黒の穴に転げ落ちた。
「なんだ」
飛び起きると、土でも、砂利でもない真っ黒の物質の中にいた。上を見上げれば、空。
「ジジイ、お前の仕業か」
穴の縁に着物姿の老人がいた。
「公僕が使う言葉ではないぞ」
とぼけた返事に、茂樹は面食らった。
「説教している場合でもないか。ウルスラグナ殿、ここは引いてくださらぬか」
茂樹は老人を睨んだ。
疑念が、確信に変わった。
人払いの領域に踏み入り、神の名を呼ぶ老人は、ただの人間ではない。
「何者だ」
数メートルの深さも、戦神ウルスラグナとしての茂樹には無意味だった。老人がいる縁と反対側の地面に着地し、周囲を探った。
もうひとつ、地面に穴を見つけた。そこからアエーシュマの雄叫びが聞こえた。悪神の仲間というわけではないようだった。
「わしは、ヤートという者だ。妖術師と名乗っても意味がわからないかな」
奇怪な自己紹介に、茂樹は眉を寄せた。占い師や霊能力者なら、職務質問で名乗る輩はたくさんいた。妖術師というのは、警察人生の中で初めての経験だった。
「免許証を見せろ」
「あいにく、専属の運転手がいるのでな」
よどみのない切り返しだった。
「邪魔をするつもりなら、容赦できない」
茂樹は剣を握った。戦いをやめるわけにはいかなかった。このまま、アエーシュマを野放しにはできないのだ。
「提案だ。あの酔っ払いの神を引き取ろう。そのかわり、戦いをやめてもらいたい」
「あいつは、お前の仲間なのか?」
「神様が仲間だったら、心強いのだがな」
ヤートは、アジ・ダハーカのことを棚に上げて肩をすくめた。
「あいつを、どうするつもりだ?」
老人の提案は、実現可能ならば、悪いものではなかった。アエーシュマとの戦いに絶対勝てる保証はなく、人払いはいつまでも続くわけではない。
だが、燃え上がる戦いへの渇望は潤しがたいのも事実だった。
「酔い冷ましだよ」
ヤートがマンスラを唱えると、アエーシュマの穴に霧が出現した。濃密な水の粒子が渦を巻き、回転しはじめた。引き延ばされた粒が、白いヴェールのように広がっていた。
しばらくして悪神の叫びが掻き消えた。
茂樹は用心して穴に近づいた。
霧が晴れると、アスファルトの上に、人間の大男が倒れていた。穴もない。
人の姿に戻ったアエーシュマに、茂樹は心の炎をくすぶらせた。化け物ならば、剣を突き立てることもできただろう。だが、無抵抗の人間を斬ることはできなかった。
「逮捕だ」
警察官としての茂樹が、戦神の闘争心を抑え込む。
「待ちなさい」
老人の目が、茂樹を非難した。
「わしが引き取る、と言っただろうが」
「了解していない」
「約束を破る気か。善なる神が?」
「ミスラみたいなこと、言いやがって」
茂樹ははっとした。自分の口から出た名前は記憶にあった。頭の中に、厳しい顔をした青年の顔が浮かんだ。
「契約神と重ねられるとは、恐れ多い」
「いけすかないな」
茂樹は肩を落として、座り込んだ。
このまま解放して良いのだろうか。アエーシュマが暴れたら死人が出ることは確実だ。だからといって、戦い続けるのは困難だった。
狂ったアエーシュマを大人しくさせることができる術を、この老人は持っている。妖術師と名乗る男に任せるのが、この場合、適切なのではないか。
「連絡先を教えろ」
茂樹は、すべてを呑む腹づもりが定まった。
「アドレス交換かな?」
ヤートは懐から携帯電話を出した。茂樹も携帯電話を取り出したが、あまり得意ではない。
「ほれ、こうやるのだよ」
茂樹の手から携帯電話をむしり取り、ヤートは両手でそれぞれのボタン操作し始めた。
「器用なジジイ」
「こんなものは慣れだぞ、若いの」
お互いのアドレスを交換し終えると、ヤートは携帯電話を投げて返した。
「それではな」
いつの間にか、道路にシルバーのクーペが停まっていた。
ヤートはマンスラを唱え、意識のないアエーシュマを歩かせた。車に乗りこませると、自身もその後に続いた。
茂樹は、大の字なって空を眺めた。太陽が少し昇っていた。
先程までは静かな朝だったが、スズメの鳴き声が聞こえ始めていた。茂樹のマンスラの効力が消失したのだろう。危ういところであった。
黒い羽ばたきがして、茂樹は飛び起きた。
死体をついばもうとしていた鴉を追い払った。