天下無双の大将軍、最後の出陣
その異名を、この世界で知らぬ者などいない。
――天下無双。
グスタフ・レイガン。
アルディア王国が誇る大将軍にして、半世紀近くを戦場に生きた男である。
二十七の年、西方ガルダ平原。王国軍三千に対し、敵軍一万二千。諸将が撤退を進言する中、グスタフは八百騎のみを率いて敵軍側面へ迂回し、夜明けとともに陣を貫いた。
敵将二名を討ち、本陣を崩す。
日が中天へ昇る頃には、四倍の兵を擁した敵軍が敗走を始めていたという。
三十六の年、北境エルグ砦。
二万の敵兵に包囲され、援軍の到着まで三日。二日目の夜には城門を破られ、守備兵もすでに半数を失っていた。
グスタフは残る兵を城内へ退かせ、自らは門前に立った。
翌朝、ようやく辿り着いた王国軍の援軍が目にしたものは、城門前に折り重なった敵兵と、その中央で黒鉄の槍を支えに立つ一人の男だった。
城内へ踏み入った敵兵、一兵としてなし。
四十八の年には、後に黒河の大敗と呼ばれる戦において五万の敗走兵を救った。
中央軍は崩壊し、右翼は潰え、もはや王国軍は軍としての形を失っていた。それでも、一つだけ退かぬ軍旗があった。
レイガン家の獅子旗。
グスタフは追撃する敵軍と敗走する友軍の間へ自らの部隊を差し込み、最後の一兵が黒河を渡り終えるまで、その場を退かなかった。
この戦で彼が何人を討ったのかを記した記録は残されていない。
ただ、敵将が後年残した手記に、一文だけ記されている。
――あの日、我らが相対したものを、人と呼んでよいのか分からぬ。
幾度となく戦場を駆け、幾度となく死地を越え、それでもなお戦旗の下に在り続けた。寡兵をもって大軍を退け、敗軍あればこれを立て直し、名だたる将をその槍の下へ沈める。味方が退く時には最後尾に残り、敵が迫る時には誰より先に前へ出た。
その武勇、常人の域にあらず。
人の身を持ちながら、その働きは人のものとは思えぬ。
――まさに、怪物。
敵は獅子旗を認めれば陣を改め、味方はその背を見れば折れかけた剣を握り直したという。
若き日は猛将。
壮年には名将。
そして老いてなお、大将軍。
誰かが授けた名ではない。王より賜った称号でもない。
幾十年もの戦場が、グスタフ・レイガンという男に刻んだ名。
それが――天下無双であった。
◇
朝靄の残る庭に、乾いた音が鳴った。
グスタフは片手を腰へ添えたまま、しばらく動かなかった。
「……参ったな」
ここ数年、朝になると決まって腰に鈍い痛みが残るようになった。肩には古傷が疼き、右膝も寒い日には思うように曲がらない。
かつては馬上で三日を過ごそうと、翌朝には平然と槍を握ったものだった。
老いた。
ただ、それだけのことである。
縁側に立て掛けてあった黒鉄の槍へ手を伸ばす。
名工の銘もなければ、華美な装飾もない。特別な力が宿っているわけでもなく、ただ頑丈で、ただ重い。若き日のグスタフが手にして以来、幾十年と戦場を共にしてきた一本だった。
柄を握り、持ち上げると、肩の奥が僅かに軋んだ。
昔は重いと思ったことなど一度もなかった。
「じいちゃん」
声に振り返ると、縁側にルカが座っていた。まだ十にもならぬ孫である。寝癖の残った髪のまま、温かなミルクの入った杯を両手で抱えていた。
「今日も訓練?」
「ああ」
グスタフが槍を肩へ担ぐと、ルカはしばらくそれを眺めてから祖父を見上げた。
「重い?」
「……少しな」
「じいちゃんでも?」
「ああ」
天下無双。怪物。生ける伝説。
この国でグスタフ・レイガンを語る言葉はいくらでもあったが、この少年にとって、そのどれも大した意味を持たない。
目の前にいるのは、ただの祖父だった。
「じいちゃんも歳取るんだね」
「当たり前だ」
「ずっと強いのかと思ってた」
グスタフは僅かに笑った。
「強いことと、老いぬことは別だ」
朝靄の向こうには、アルディア王都の城壁が見える。そのさらに先に、彼が幾十年と守り続けてきた国が広がっていた。
しばらくそれを眺め、やがて槍を担ぎ直す。
「行ってくる」
「うん」
背を向け、庭を出る。
歩みは若い頃より遅くなり、肩は軋み、膝にも鈍い痛みが残っている。
それでも、その背はなお大きかった。
半世紀ものあいだ、数え切れぬ兵たちが見上げてきた背中であった。
◇
王都北端の練兵場では、朝から土煙が上がっていた。
木剣の打ち合う音、教官の叱声、鎧を纏った兵たちが地を踏む重い響き。その中へグスタフが姿を現すと、誰かが号令をかけたわけでもないのに、場の空気が僅かに引き締まった。
若い兵にとって、グスタフ・レイガンは同じ軍服を纏う者でありながら、どこか現実から離れた存在だった。
幼い頃、父や祖父から聞かされた戦の話にも、軍学校で学んだ戦史にも、その名は当たり前のようにあった。今こうして目の前を歩く老人と、書物の中に記された天下無双の大将軍が同じ人間であることを、未だ実感できぬ者さえいた。
グスタフは向けられる視線を意に介さず、練兵場の中央で足を止めた。
そこでは三人の若者が模擬戦を行っていた。
カイル・ローデンは、正面から相手を打ち崩すことを好んだ。大柄な体躯から繰り出される一撃は重く、それでいて踏み込みも鋭い。純粋な武だけを見れば、同年代でも頭一つ抜けている。
その相手を務めるユリウス・エインは対照的だった。力で競うことを避け、間合いを測り、相手の癖を読み、僅かな綻びを待つ。派手さこそないが、無駄がない。
少し離れた場所では、セドリック・アルノーが二人の動きを見ていた。
彼は剣より先に人を見る。どちらが疲れているか、どちらが焦っているか、次に何をしようとしているのか。まだ若いながら、人を率いる者に必要な目を持っていた。
「そこまで」
低い声に、二本の木剣が止まった。
カイルが荒い息を整え、姿勢を正す。
「大将軍」
グスタフは返事をせず、地面に残された足跡へ目を落とした。特にカイルのものは、必要以上に深く敵陣へ踏み込んでいる。
「カイル。今ので何人死んだ」
「……模擬戦ですが」
「戦場だったとして、だ」
少し考え、カイルは答えた。
「俺一人です」
「違う」
グスタフは近くに落ちていた木剣を拾い、その切っ先でカイルの背後を示した。
「そこまで前へ出れば左が空く。隊列なら隣の五人が巻き込まれ、その穴を塞ぐために後ろが動けば、さらに陣が崩れる。敵を一人斬るために、十人を危険へ晒した」
木剣をカイルへ返す。
「それを強いとは言わん」
カイルは何も返さなかった。
代わりにユリウスが口を開く。
「では、大将軍にとって強さとは何です」
グスタフはすぐには答えず、練兵場を見渡した。
若い顔が並んでいる。
鎧の下にあるのは兵ではない。誰かの息子であり、夫であり、父であり、帰りを待つ者を持つ一人の人間だった。
それが分かるようになったのは、随分と後になってからである。
「昔の俺はな。多く斬れる奴ほど強いと思っていた」
三人が黙って聞く。
「初めて兵を預かった時も、そうだった」
レイガン家の嫡男として生まれ、幼い頃から剣を学び、軍学校では常に上位。家柄もあり、卒業からほどなく一隊を任された。
若かった。
そして、己の才を疑ったことがなかった。
「敵の中央が薄く見えた。好機だと思った俺は、隊を率いてそのまま突っ込んだ」
木剣を握る指が僅かに締まる。
「罠だった」
その一言だけで十分だった。
あの日、初めて預かった兵の半数以上が帰らなかった。前の晩まで酒を酌み交わしていた者も、結婚したばかりだと笑っていた者も、故郷に妹を残してきたと話していた者もいた。
皆、グスタフの命令で前へ出て、そのまま戻らなかった。
「俺だけが生き残った」
声に悔恨を滲ませることはなかった。
半世紀近い歳月を経ても忘れられぬ記憶というものは、時に涙より静かになる。
「帰還した夜、戦死者の名簿を読んだ。一人ずつ、最後までな」
風が練兵場を抜け、王国旗を揺らした。
「そこでようやく分かった。将の強さとは、敵をどれほど殺したかではない」
グスタフは三人を見る。
「預かった兵を、どれほど故郷へ返せるかだ」
周囲で訓練していた者たちも、いつしか手を止めていた。
「勝っても兵が残らなければ、次の戦はない。次の戦がなければ、いずれ国が消える。己一人だけ生きて帰り、その屍の上で英雄を名乗るような者に、軍を預かる資格などない」
しばしの沈黙の後、カイルが顔を上げた。
「なら……なぜ大将軍は、いつも一番前に立つんです」
グスタフは青年を見て、ほんの僅かに笑った。
「簡単なことだ」
手にしていた木剣を放り、カイルが胸の前で受け止める。
「人に死ねと命じるなら、自分が死ねる場所に立ってから言え」
誰も言葉を発しなかった。
グスタフはそれ以上語らず、三人に背を向ける。
「もう一度だ」
カイルとユリウスが構え直す。
今度のカイルはすぐには踏み込まず、一度だけ背後を確かめた。そこに仲間がいることを想定し、自分の立つ場所を測る。
グスタフは何も言わなかった。
ただその姿を見ながら、僅かに目を細めた。
頭上では、アルディア王国旗が低く鳴っていた。
◇
その報せが王都へ届いたのは、三日後の夜半だった。
北門をくぐった伝令の馬は白い息を吐きながら石畳を打ち、王城の正門前へ辿り着くと、その場に崩れるように膝を折った。騎手も泥と血にまみれ、片腕を吊ったまま衛兵の肩を借りて城内へ入った。
その夜、王城の大広間から灯が消えることはなかった。
卓上には北部一帯を描いた地図が広げられ、その上には黒い駒が幾つも置かれている。
ヴァルガード帝国。
国境を越えた兵、およそ十二万。
率いるはオルド・バルゼイン。帝国東征軍総司令にして、幾多の戦場を制しながら、ただの一度も自軍を大きく崩したことがないとされる名将であった。
奇策を弄せず、焦らず、敵の綻びが現れるまで待ち、そこへ確実に刃を入れる。
派手さはない。
だからこそ、恐ろしい。
「北方第三砦、陥落。第二防衛線も、明朝までは持たぬものと」
伝令の声が広間に落ちた。
王エドガルド三世は玉座には座らず、地図の前に立っていた。
「こちらの兵は」
「王都守備隊を含め、直ちに動かせるのは四万が限度にございます」
三倍。
しかも敵将はオルド・バルゼイン。
「王都まで引きつけ、籠城を」
一人の将が口を開いた。
「北部を捨てるおつもりか」
「国そのものを失うよりはましだ」
「民の避難は済んでいない」
言葉が止まる。
北部には町がある。村がある。暮らしがある。
そこにいる者たちを切り捨てるという意味を、誰もが理解していた。
やがて、大広間の扉が静かに開いた。
グスタフ・レイガンだった。
鎧は纏っていない。濃紺の軍服の上に外套を掛けただけの姿で、それでも彼が入った瞬間、諸将は自然と道を空けた。
グスタフは王の前まで進み、片膝をつく。
「遅参いたしました」
「よい。立て、グスタフ」
「は」
立ち上がると、そのまま地図へ目を向けた。
落ちた砦。敵の進路。避難の遅れている町。
やがて、敵将の名が記された札の前で指が止まる。
「……オルド・バルゼイン」
「知っているのか」
「幾度か、同じ戦場に立っております」
「どういう男だ」
グスタフはすぐには答えなかった。
「名将にございます」
それだけで、広間がさらに静かになった。
「そなたがそこまで言うか」
「侮れば、確実に喰われます」
グスタフは地図へ視線を戻す。
「北部の民の避難は」
「三割ほどにございます」
「……間に合いませんな」
指が王都北方の細長い平原で止まった。
「レダル平原」
王が低く言う。
「ここで止めます」
「四万で、十二万をか」
「はい」
若い将の一人が問う。
「勝てるとお考えですか」
「いいえ」
短い答えだった。
「ですが、止めることはできます。民が逃げるまで。王都が備えるまで。次の軍を整えるまで。その時間さえ買えれば、十分にございます」
王エドガルドだけが、その静けさの意味を知っていた。
若き日のグスタフを知っている。
初めて軍を預かり、多くの部下を死なせた夜も。その後、誰よりも多くの兵を生きて帰そうとしたことも。
その男が今、何を差し出そうとしているのか。
「グスタフ」
「はい」
「そなたは……」
言葉が止まった。
王は揺らいではならない。
たとえ今から、半生を共にした男を死地へ送るとしても。
「明朝、全軍を編成する。総指揮はそなたに任せる」
グスタフは深く頭を垂れた。
「謹んで、お受けいたします」
王の手が、ほんの僅かに震えた。
やがてその手を背で組む。
「グスタフ・レイガン」
「は」
「お前ほどの男が、老衰の果てに命を終えるものと思うな」
王の声は、低く、揺るがなかった。
「されど――華々しく散れるものとも思うな」
エドガルドは玉座の前に立ち、一人の臣下ではなく、王国そのものへ命を下すように告げる。
「その身、その血、その命のすべてをもって、我が国の明日を繋げ」
一拍。
「アルディアのために――散れ」
大広間から音が消えた。
グスタフは長く王を見ていた。
この男がどれほどの覚悟で、その言葉を口にしたのか。
聞くまでもない。
ただ片膝をつき、深く頭を垂れる。
「……御意」
それだけだった。
踵を返し、大広間を出ていく。
王はその背を最後まで見送った。
呼び止めることはなかった。
呼び止めれば、自分は王ではなくなってしまう気がした。
◇
王城を出た頃には、夜は深く沈んでいた。
グスタフは供をつけず、一人で屋敷へ戻った。
自室には、一領の鎧が置かれている。
若い頃から使い続けてきたものだった。幾度も修復され、打ち直され、それでも消えぬ傷が残っている。
どれも、どの戦でついたものか覚えていた。
グスタフは外套を脱ぎ、一つずつ鎧を身につけていく。
昔なら何でもなかった動作が、今では身体へ重い。
それでも手は止まらなかった。
最後に胸当てを締めた時、背後で床板が鳴った。
「じいちゃん」
ルカが立っていた。
「戦に行くの?」
「ああ」
「いつ?」
「朝だ」
「また帰ってくる?」
グスタフの手が止まった。
――国のために、散ってこい。
その言葉が蘇る。
それからルカの前まで歩き、ゆっくり膝を折った。
「次、帰ってきたらな」
「うん」
「この鎧を脱ぐよ」
少年の目が少しだけ大きくなる。
「もう戦に行かない?」
短い沈黙のあと、グスタフは答えた。
「そうするつもりだ」
「じゃあ約束」
差し出された小指を、しばらく見つめる。
やがて、自分の太い指を絡ませた。
「……約束だ」
ルカが部屋を出たあと、グスタフは机へ向かった。
白紙が一枚。
筆を取り、たった一行だけ記す。
――ルカへ。
そこから先は続かなかった。
続きは、帰ってきてから書けばいい。
そう思った。
いや。
そう思うことにした。
翌朝。
王都北門の前には、四万の兵が並んでいた。
先頭にはレイガン家の獅子旗。その下に、黒鉄の槍を携えた一人の老人がいる。
グスタフ・レイガン。
その姿を認めると、兵たちのざわめきが消えていく。
グスタフは四万の兵を見渡した。その中には、カイル、ユリウス、セドリックの姿もある。
若い。
これから先、幾つもの季節を見るはずの顔だった。
グスタフは北へ向き直り、槍を掲げる。
「出るぞ」
その一言で、四万の軍が動いた。
◇
レダル平原に着いたのは、出陣から二日目の夕刻だった。
両脇を丘陵に挟まれた細長い平原。ここを抜かれれば、王都までは遠くない。
「陣を敷け」
四万の兵が動く。
数では三倍。
ならば、その数を活かさせなければいい。
翌朝。
地平の向こうが黒く染まった。
十二万。
槍の穂先が朝日を弾き、幾千もの軍旗が揺れる。地を踏む足音は遠雷のように響いた。
ヴァルガード帝国軍。
その中央に、オルド・バルゼインはいた。
「敵、およそ四万」
副官の報告にも答えず、オルドは遠くの獅子旗を見ていた。
「……まだ出てくるか」
「グスタフ・レイガンです」
「知っている。この世界で、あの名を知らぬ者の方が珍しかろう」
「しかし、もはや老将です。数はこちらが三倍――」
「その考えは捨てろ」
オルドは獅子旗から目を離さない。
「若い頃の奴を見た。壮年の奴とも戦った。だが今が一番厄介だ。若い頃のあの男は、自分一人が強かった。今は違う」
整然と並ぶアルディア軍を見据える。
「今のあいつは、軍そのものを強くする」
「四万相手に、そこまで警戒を?」
オルドは初めて副官を見た。
「四万ではない」
再び、老人へ視線を戻す。
「グスタフ・レイガンを相手にするのだ」
◇
アルディア軍の前列には、重い沈黙が降りていた。
敵軍は平原の向こうを埋め尽くしている。
三倍。
数字で聞くのとは違う。
どこまで見ても敵兵だった。
その時、獅子旗の下からグスタフが一騎で進み出た。
「敵は、我らの三倍だ。率いるはオルド・バルゼイン。兵も精鋭、地力も向こうが上だろう」
誤魔化さない。
「だが、俺たちがここを退けば、その先には王都がある。村がある。家族がいる。まだ逃げきれていない者もいる」
風が吹き、獅子旗が大きく鳴る。
「俺たちがここに立つ理由は、それだけで十分だ」
槍を掲げる。
「勝てとは言わん。死ねとも言わん」
静かな声だった。
「生きろ」
兵たちの視線が上がる。
「生きるために前へ出ろ。仲間を生かすために踏み止まれ。一人で英雄になる必要はない。ただ――この国を守った兵だったと、胸を張って帰れ!」
恐怖は消えていない。
だが、その奥に別のものが灯った。
「前には敵がいる。背には国がある。そして、お前たちの先には――この俺がいる」
一拍。
「ならば、何を恐れる」
武器が次々と掲げられ、やがて四万の雄叫びが平原を震わせた。
グスタフは敵軍へ向き直る。
「行くぞ」
四万の軍が、一つになって動いた。
◇
その日。
ヴァルガード軍は、半日を費やしてなお一歩も南へ進めなかった。
理由は一つ。
獅子旗の下に、グスタフ・レイガンがいた。
中央が揺らげばそこへ赴き、左翼が押されれば馬首を返す。その姿を認めただけで、崩れかけた戦列がもう一度前を向いた。
帝国騎兵八千が中央へ迫った時、グスタフは三千余りの騎兵を率いて自ら先頭へ立った。
激突。
獅子旗が敵騎兵のただ中へ深く食い込む。
若き日の荒々しさも、かつての速さもない。
代わりに、半世紀の戦場が削り上げた無駄のなさがあった。
日が傾く頃、帝国騎兵は退いた。
中央は割れていない。
王都へ続く道も、まだ渡していない。
馬を降りた瞬間だけ、グスタフの右膝が沈んだ。
槍を地面へつき、身体を支える。
肩は焼けるように痛み、指先には痺れが残っていた。
「大将軍」
「飯を食わせろ。寝られる者は寝かせろ」
「は」
グスタフは遠くの帝国陣を見た。
無数の灯がある。
「明日は、今日よりきついぞ」
夕闇の中、獅子旗だけがなお風を受けていた。
◇
二日目の朝。
帝国軍は夜明けを待たずに動いた。
急がず、崩さず、ただ確実に押す。疲れた兵は下げ、新たな兵を前へ出す。
アルディア軍には、それができない。
昼を迎えるより早く左翼が崩れた。
中央も、右翼も削られていく。
それでも獅子旗だけは倒れなかった。
グスタフは戦場を駆け続けたが、槍を返すたび右肩が軋み、馬を締める膝には力が入りにくくなっていた。
午後。
「大将軍。左翼、これ以上はもちません」
血に濡れたカイルが駆けてきた。
「残りは」
「二万を……下回りました」
昨日の朝には四万いた。
その半分が、もういない。
グスタフは一瞬だけ目を伏せる。
「ユリウスとセドリックを呼べ」
三人が揃った。
「南へ抜けろ」
「……撤退を?」
「ああ」
「大将軍は」
遠く、帝国の軍旗が左右へ広がっている。
包囲を閉じるつもりだった。
「俺が道を開ける」
カイルが一歩前へ出る。
「でしたら、俺も残ります」
「何のために」
「大将軍を一人にするわけには――」
「俺とここで死ねば、それで何が残る」
カイルが言葉を失う。
「勇ましく死ぬことが、将の仕事ではない。生きて、その後を背負う者がいるから、死ぬ者にも意味が生まれる」
グスタフは三人を見た。
「この国は、老いた者が最後までしがみつくためにあるのではない。これから先を生きる者が残ってこそ、国は国であり続ける」
若き日に己の判断で死なせた兵たち。
帰るはずだった家。
戦死者名簿。
「俺は昔、一度それを間違えた。自分が勝つことばかり考えて、部下を死なせた」
帝国軍の角笛が鳴る。
「だから今度は、間違えん」
三人を見据えた。
「お前たちは生きろ。生きて、この先を見ろ」
カイルへ。
「前だけを見るな」
ユリウスへ。
「考えることに溺れるな」
セドリックへ。
「人を見ろ。兵は駒ではない」
三人は深く頭を下げた。
やがて、何も言わず敬礼する。
言葉にすれば、足が止まる。
三つの若い背中が、兵たちの向こうへ消えていく。
グスタフはそれを長く見送った。
いつの間にか、獅子旗の下には、まだ戦える兵たちが集まっていた。
二千。
三千。
傷つき、疲れ、武器すら満足に揃わぬ者たち。
誰かが命じたわけではない。
「……そうか」
グスタフは黒鉄の槍を握った。
今までで一番、重く感じた。
それでも持ち上げる。
半世紀、この槍と共に戦ってきた。
ならば最後まで。
馬首を敵へ向ける。
その時、老人の背はもう少しも曲がってはいなかった。
◇
「よく残った」
グスタフは獅子旗の下へ集った兵たちを見渡した。
「ここまで来た者に、今さら怖がるなとは言わん。恐怖を知らぬ者など、戦場では長く生きられん」
破れた旗が風を受けて鳴る。
「だが――ここで膝をつくことだけは許さん!」
兵たちの目に火が戻る。
「我らが背負っているものを忘れるな! 王都がある! 家族がいる! まだこの国の明日を知らぬ子供たちがいる!」
槍を掲げる。
「奴らを生かすために、我らはここにいる!」
槍の石突きが次々と地を打つ。
「敵は多い! 我らは少ない! ならば何だ!!」
声が戦場を打った。
「数で劣るなら、ここに立つ覚悟で勝れ! 力で劣るなら、最後の一歩まで前へ出ろ!」
黒鉄の穂先が帝国軍へ向く。
「道が閉ざされたなら――この俺がこじ開ける!!」
雄叫びが上がる。
「恐れるなとは言わん! 恐れたまま進め! 震えたまま槍を持て! それでも足だけは止めるな!!」
獅子旗が大きく翻った。
「お前たちは、生きるために戦え!」
一拍。
「俺は――お前たちを生かすために戦う!!」
数千の声が爆ぜた。
「行くぞォ!!」
黒鉄の槍が天へ掲げられる。
「この死地に! 我らの道を! 力ずくで――こじ開けるぞォォォ!!」
獅子旗が前へ傾いた。
グスタフ・レイガンの、最後の進軍が始まった。
◇
数千に満たぬ兵が、なお数万を残す帝国軍の中央へ踏み込んだ。
常ならば無謀と呼ばれる進軍であった。
だが、その先頭にはグスタフ・レイガンがいた。
黒鉄の槍が振るわれるたびに、敵陣に僅かな綻びが生まれる。グスタフはそこへ馬を入れ、後続が通るための道を作っていった。
敵を何人倒したかなど、もはや意味を持たない。
必要なのは一本の道。
南へ。
生きる方へ。
やがて帝国軍中央に、細い裂け目が生まれた。
カイルも、ユリウスも、セドリックも、その道を抜けていく。
三人は一度だけ振り返った。
敵兵の海の中に、獅子旗が見えた。
その下で、グスタフはなお前を向いている。
帰る者の背ではなかった。
三人は何も言わず、南へ向き直った。
今は、生きることが命令だった。
その直後。
グスタフの馬が倒れた。
老将は地へ投げ出され、右脚に鋭い痛みが走る。
黒鉄を支えに立ち上がった。
一度、膝が落ちた。
それでも立つ。
周囲には帝国兵が幾重にも並んでいた。
グスタフは一度だけ南を見た。
若い三つの背中は、もう遠い。
それでよかった。
未熟なら、これから学べばいい。
間違えたなら、生きてやり直せばいい。
それができる者たちを残すために、自分はここにいる。
一瞬だけ、ルカの顔が浮かんだ。
――次、帰ってきたら、この鎧を脱ぐよ。
「……悪いな」
約束は守れない。
だが、あの子の生きる国は残る。
ならば、それでいい。
グスタフは敵へ向き直った。
もう、振り返らなかった。
右脚は震え、片肩は落ち、鎧は至るところで砕けている。それでも帝国兵は、容易には近づかなかった。
グスタフは黒鉄の槍を両手で握り直した。
半世紀。
初めて兵を預かった日も。
多くを失った夜も。
名将と呼ばれた頃も。
天下無双の名を背負ったあとも。
ずっと、この槍と共にあった。
ならば最後まで。
背筋を伸ばし、胸を張る。
そして、残された力のすべてを声へ変えた。
「聞けェェェ!!」
戦場が一瞬だけ静まった。
「我が名は、グスタフ・レイガン!! アルディア王国が名門、レイガン家嫡流! ガルヴァルド・レイガンが子にして、王国大将軍!」
黒鉄の石突きが大地を打つ。
「幼き日に槍を握り、若き日に兵を預かり、幾百の戦を越え、数え切れぬ死地を踏み、それでもなお今日まで、この国の旗の下に立ってきた!」
掠れた声は、一言ごとに力を取り戻していく。
「勝った戦もある! 負けた戦もある! 友を失い、部下を失い、己の愚かさを知り、それでもなお――俺はここまで歩いてきた!!」
グスタフは笑った。
「長い戦人生であった!」
黒鉄の穂先を、眼前の大軍へ向ける。
「されど――悪くなかった!!」
一歩、前へ出た。
「世の者は、この俺を天下無双と呼んだ!」
さらに一歩。
「ならば最後まで、その名に恥じぬ働きを見せようぞ!!」
黒鉄が持ち上がる。
「よく見ておけ!!」
声が戦場を裂いた。
「これが、グスタフ・レイガンという男の――生涯最後の一槍ぞ!!」
老将の目に、若き日の光が戻る。
「天下無双ォォォ!!」
「アルディア王国大将軍!!」
「グスタフ・レイガン――!!」
半世紀の戦場を。
失った者たちを。
守った者たちを。
王を。
孫を。
若者たちを。
そのすべてを背負い、一人の男は大地を蹴った。
「推して――」
黒鉄が唸る。
「参るぅぅぅぅぅぅぅぅぅッ!!!」
◇
その咆哮を最後に、グスタフ・レイガンは帝国軍のただ中へ消えた。
それから先、彼が何人を討ち、何度倒れ、何度立ち上がったのかを正確に伝える記録は残されていない。
ただ、後に生還した帝国兵たちは、皆同じことを語ったという。
老将は、最後まで退かなかった。
その姿が人の波に呑まれて見えなくなるまで、レイガン家の獅子旗が後ろへ下がることは一度もなかった、と。
やがて陽が傾き、二日にわたり平原を満たしていた剣戟も、怒号も、馬の嘶きも消えていった。
夕刻。
血と泥に染まったレダル平原に、一本の軍旗が立っていた。
レイガン家の獅子旗。
裂け、矢を受け、半ばまで血に染まりながら、それでもなお夕暮れの風を受けていた。
その下に、グスタフ・レイガンはいた。
折れた黒鉄を握ったまま、敵軍の方角へ身体を向け、立っていた。
すでに息はなかった。
鎧は原形を留めず、全身には数え切れぬ刀槍の傷が刻まれている。
およそ人の身に受けてなお立てるとは思えぬ傷であった。
されど。
その背に、傷はなかった。
若き日に戦場へ立ってより半世紀。
猛将と呼ばれた日も。
名将と称えられた日も。
天下無双の名を背負った後も。
そして、生涯最後のこの日も。
グスタフ・レイガンは、ついに敵へ背を向けなかった。
オルド・バルゼインは長くその亡骸を見つめ、やがて馬を降りた。
兜を取る。
グスタフの前まで歩み、深く頭を垂れた。
「……見事」
それだけだった。
それ以上の言葉は、必要なかった。
後世、『アルディア王国戦史』には、レダル平原の戦いについて次のように記されている。
――王国暦六百十二年。ヴァルガード帝国軍十二万、アルディア北境へ侵攻。これを迎えし王国軍四万。総大将、グスタフ・レイガン。
二日に及ぶ戦の末、王国軍は兵の過半を失い包囲を受く。グスタフは残兵を南方へ帰還せしめるため自ら敵中央へ突入し、その身をもって退路を開いた。
帝国軍は同日、レダル平原を越えること能わず。
この間に北部住民の避難は進み、王都は防備を整え、多数の王国将兵が生還した。
グスタフ・レイガン、齢六十八。
これ、生涯最後の戦なり。
戦後に発見された遺骸には、全身に数え切れぬ刀槍の傷あり。
さりとて、その誇り高き後ろ姿には、ただ一つとして逃げ傷なし。
或いはそれは、武人として生きた六十八年、その人生においても同じであった。
若き日より幾百の戦場を渡り、幾度の死地を越え、最後の一戦に至るまで、ついぞ敵に背を向けることはなかった。
満身創痍となりながら、それでもなお敵を薙ぎ倒し続けたその姿。
――まさに、怪物。
故に、その異名をこの世界で知らぬ者などいない。
――天下無双。
グスタフ・レイガン。
その名、王より授けられしものにあらず。
幾十年の戦場と、彼に命を預けた兵と、その背を恐れた敵が、一人の男へ刻んだ名である。
なお、この戦より生還した若き将校の中に、三名の名がある。
カイル・ローデン。
ユリウス・エイン。
セドリック・アルノー。
三名は後年、それぞれ王国軍の頂点へ至り、大将軍の号を得た。
豪勇をもって軍の先頭を駆けたカイル。
戦局を読み、幾度となく王国を窮地から救ったユリウス。
兵を見、兵を知り、誰よりも兵から慕われたセドリック。
後世の史家は、三人が並び立った時代を「三将の時代」と記している。
生まれも、戦い方も、残した功績も異なる三人であったが、その原点について尋ねられた時だけは、皆同じ男の名を挙げたという。
グスタフ・レイガン。
かつて練兵場で、彼は若者たちへこう語った。
将の強さとは、敵をどれほど殺したかではない。
預かった兵を、どれほど故郷へ返せるかである、と。
そして彼は、生涯最後の戦において、その言葉を己の命をもって貫いた。
自らは帰らず。
次の時代を、生きて帰した。
ゆえに後世、一人の史家はグスタフ・レイガンの生涯を、次の一文で結んでいる。
――彼が最後に守ったものは、城でも、領土でも、王都でもない。
その背の向こうに続く、次代そのものであった。
この物語は、『無名として現れ、伝説となって去った。』へと続く、まだ大陸が一つになる以前の時代の物語です。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
後日、本作の後日譚として、グスタフ・レイガンの孫――ルカ・レイガンを主人公とした物語、
『白獅子の乱 ―後世に残す法改革―』
を投稿予定です。
祖父が命を懸けて守った国で、ルカが何を見て、何を選ぶのか。
『天下無双の大将軍、最後の出陣』とはまた違った形で、その後の時代を描いていきます。
よければ、そちらも読んでいただけると嬉しいです。
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