第8話:アキの嘘
ハルは、アキから預かった原稿の束を、もう一度読み返していた。
手術前の自分が「読むな」と警告し、術後の自分が「何も感じない」と断じた、あの小説。
以前読んだときとは違う違和感が、ハルの脳を刺した。
アキが書いたこの物語には、決定的な欠落がある。事故の瞬間の描写だ。
『父の車が、彼を撥ねた。私はそれを見ていた。』
記述はあまりに簡潔で、客観的すぎる。作家としての彼女の筆致を考えれば、もっと生々しい感情が溢れるはずの場面だ。
「……何かを、隠しているのか」
ハルは、アキを問いただす前に、ある場所を訪れることにした。
冬馬が管理している、自分の個人事務所兼倉庫だ。そこには事故以前の撮影データが保管されている。今のハルには、自分の「過去の視点」を客観的に検証する能力があった。
埃っぽい倉庫の片隅で、ハルは3年前の、事故当日の日付が入ったメモリーカードを見つけ出した。
パソコンに繋ぎ、データを復元する。
そこには、あの日、ハルが死ぬ間際まで撮り続けていた「アキ」の姿があった。
「……っ」
モニターに映し出された写真を見て、ハルの指先が痙攣した。
アキが跨線橋の上で、誰かと激しく言い争っている。
相手は、若かりし日の冬馬だった。
冬馬の表情は、今のような冷静なものではない。執着と、激昂。
そして最後の一枚――。
歩道にいたハルが、車道へ飛び出すアキを突き飛ばし、代わりに迫りくる車に撥ねられる直前の、ブレた写真。
そこには、ハンドルを握るアキの父親の横顔と、その助手席で、狂ったように笑う冬馬の姿が映り込んでいた。
「冬馬が……そこにいたのか」
その夜、ハルはアキを呼び出した。場所は『木漏れ日堂』の奥にある、あの資料室だ。
アキは、ハルの冷徹な、けれどどこか熱を帯びた瞳を見て、悟ったように俯いた。
「アキさん。君の小説には、嘘がある。……いや、肝心なことが書かれていない」
ハルは、タブレットに表示した写真を彼女に見せた。
アキは息を呑み、顔を覆った。
「……見つけてほしくなかった。あなたが全部忘れて、冬馬くんの庇護の下で、安全に生きていけるなら……私は、悪女のままで良かったのに」
「話してくれ。あの日、何があったんだ」
アキは、重い口を開いた。
「冬馬くんはね……昔から、私とあなたの関係を壊したがっていた。彼はあなたを親友だと言いながら、同時に、あなたの才能も、自由も、そして私のことも、自分の手の中に閉じ込めておきたかったの」
あの日、冬馬はアキの父親に無理やり酒を飲ませ、車に乗せた。そしてアキを跨線橋に呼び出し、無理心中を装って脅したのだ。
「あなたが私を助けに飛び出してくることも、冬馬くんは計算していたのかもしれない。……事故の後、彼は自分の罪を隠すために、私の父を脅迫した。そして、記憶を失ったあなたに『献身的な親友』として近づいたのよ」
「君が僕を遠ざけなかったのは……」
「冬馬くんが、そう言ったから。『僕の言う通りに、彼に罪悪感を与える存在として振る舞え。さもなければ、君の父親の飲酒運転の事実を公表し、刑務所で死なせる』って」
ハルの背筋に、凍り付くような寒気が走った。
冬馬がハルの手術を急がせたのも、感情の回路を切除させたのも、アキへの愛を消すためだけではない。ハルが真実に辿り着く可能性を、根絶やしにするためだったのだ。
「……最低だ」
「ごめんなさい、ハルさん。私は怖かったの。あなたを守るために、私は冬馬くんの書いた筋書き通りに踊るしかなかった」
アキはハルの足元に崩れ落ち、泣きじゃくった。
その時、資料室の扉が静かに開いた。
「……そこまで気づいたなら、もう『親友』の振りをする必要はないな」
入り口に立っていたのは、冬馬だった。
彼の手に握られているのは、ハルの脳に埋め込まれたデバイスを制御するための、外部端末。
「ハル、残念だよ。せっかく穏やかな『人形』として完成したと思ったのに」
冬馬の指が、端末のボタンに掛かる。
「その回路を、一度完全にオーバーロードさせてやろう。今度は名前どころか、呼吸の仕方も忘れることになるぞ」
「冬馬、やめて!」
アキが叫び、冬馬に飛びかかろうとする。
しかし、冬馬は冷酷に彼女を振り払い、スイッチを押した。
ハルの脳内に、凄まじい電気信号が駆け巡る。
「あ、あああぁぁぁ……っ!」
視界が真っ白になり、全身の神経が焼き切れるような苦痛が襲う。
記憶が、色彩が、アキの声が、光の速さで遠ざかっていく。
(……忘れるな。忘れるな、僕……!)
ハルは朦朧とする意識の中で、自分の指先に全神経を集中させた。
感情の回路は壊れても、この指が覚えている「愛」がある。
彼はポケットの中のライカを探り、レンズを冬馬に向けた。
シャッターを切る音。
その音と共に、ハルの意識は深い深い闇へと堕ちていった。




