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第7話:24時間の恋人

目覚めた世界は、驚くほどクリアだった。

視界を覆っていた霧は晴れ、色彩は鮮明になり、音の一つ一つが正確に脳へと届く。ハルは病室のベッドの上でゆっくりと身を起こした。


「……おはよう、ハル」

傍らに座っていた冬馬が、安堵の色を隠さずに声をかけた。

「気分はどうだ。自分の名前は言えるか?」

「瀬戸ハル。27歳。……頭も、驚くほど軽いよ」


ハルは自分の声が、まるで他人のもののように落ち着いていることに気づいた。かつて胸を掻きむしっていた焦燥感も、誰かを求めて泣き出したくなるような切なさも、今の彼には一滴も残っていない。

感情の蛇口が、根元から締められたような感覚。


その時、病室のドアが静かに開いた。

アキが入ってきた。

彼女の手には、ハルが好きだった沈丁花の小さな花束と、一冊のノート。

アキの瞳は期待と不安で揺れ、唇は微かに震えている。


「ハル……さん」


ハルはゆっくりと彼女の方を向いた。

視神経はその姿を正確に捉える。茶色の柔らかな髪、薄い唇、そして自分を凝視する大きな瞳。

しかし、脳の深部で火花が散ることはなかった。胸の鼓動は一回も乱れない。

彼は、ただの「知らない通行人」を見るような、完璧にフラットな眼差しで彼女を見つめた。


「……どなたですか?」


その一言が、鋭い氷の刃となってアキの胸を貫いた。

アキは立ち尽くし、手に持っていた花束が床に落ちた。沈丁花の香りが、無機質な病室に場違いに漂う。


「冬馬、彼女は? 病院の関係者?」

ハルの問いに、冬馬は満足げに頷いた。

「いや、知り合いだ。だが、もう気にしなくていい。お前の治療は終わったんだ」


「……そう。それならいいんだけど」

ハルは興味を失ったように視線を窓の外へ戻した。

術後のハルにとって、アキは「記憶」から消去されただけでなく、彼女を認識した時に「感情」を生成する回路そのものが物理的に焼き切られていた。


アキは、泣かなかった。

彼女は震える膝を叱咤し、床に落ちた花束を拾い上げると、無理に笑顔を作った。

「……初めまして、瀬戸ハルさん。私は、浅見アキ。あなたの……古い友人です」


ハルは、その笑顔にさえ何も感じなかった。

「そうですか。浅見さん。わざわざお見舞いにありがとうございます」


退院後、ハルの生活は劇的に「効率化」された。

記憶が定着するようになった彼は、仕事の依頼を完璧にこなし、スケジュールを乱すことなく、淡々と日々を消化していった。

日記を書く必要もなくなった。あの革表紙のノートは、今や机の引き出しの奥で埃を被っている。


しかし、アキは諦めなかった。

彼女は毎日、ハルの前に現れた。

「ハルさん、今日はあの跨線橋に行きませんか?」

「ハルさん、この本、好きだって言ってたから」


ハルは拒絶しなかった。ただ、感情のない機械のように彼女に応対した。

「いいですよ。仕事まで一時間ありますし」

「ありがとうございます。読みますね」


二人の関係は、以前の「24時間でリセットされる恋人」から、「24時間一緒にいても何も始まらない知人」へと変質していた。

かつてのハルは、記憶がなくても魂で恋をしていた。

今のハルは、記憶はあっても、魂が彼女を認識することを拒んでいた。


ある日の夕暮れ、二人は再びあの跨線橋にいた。

「ねえ、ハルさん。今の夕陽を見て、何を感じる?」

アキが切なそうに尋ねる。


ハルは、冷静に空の色を観察した。

「波長が長い赤色光が散乱して、網膜を刺激している。……綺麗だとは思うけれど、それ以上の感慨はないな」


アキは、その言葉に崩れ落ちそうになった。

「……私のことも、そうなの? 網膜に映る、ただの光の塊?」

「失礼な言い方かもしれないけれど、そうだ。君が誰なのかは知っている。何があったかも聞いた。でも、それに対して心が動かないんだ。……申し訳ないと思っているよ、浅見さん」


「……謝らないで。謝られるのが、一番きついよ」

アキは柵を握りしめた。

「私のせいなのに。私が、あなたの心まで奪ってしまったのに」


ハルは、その場を去ろうとした。

しかし、一歩踏み出した瞬間、ポケットの中で何かが硬い音を立てた。

取り出したのは、ライカのレンジファインダー。

術後、一度もシャッターを切っていないカメラだった。


ハルは何気なく、ファインダーを覗いた。

中央にアキの姿を置く。二重合致式のピントを合わせる。

その瞬間、指先が微かに痺れた。


(……なんだ、これは)


脳が「感情」を拒絶しても、筋肉が、細胞が、その指の動きを「愛」として記憶している。

ピントリングを回す感覚。シャッターボタンの重み。

ハルは、無意識にシャッターを切った。


乾いた金属音。

アキが驚いて顔を上げる。

「ハルさん……?」


ハルは、自分の指を見つめた。

「……分からない。なぜ今、シャッターを切ったのか。……君を撮らなきゃいけないような、そんな義務感のようなものが、指に残っているんだ」


アキの瞳に、再び光が灯った。

「……ハルさん。それ、義務感じゃないよ」


彼女は、ハルの懐に入り込み、動かない彼の胸に耳を当てた。

「聞こえるよ。あなたの心臓、少しだけ速くなってる。……冬馬くんや先生がどれだけ回路を切っても、この体は、私を覚えているんだよ」


ハルは、彼女を抱き締め返すことはできなかった。

けれど、彼女を突き放すこともしなかった。

ただ、夕闇の中で、カメラを握る指先だけが、熱を持っていた。


その夜。

ハルは久しぶりに机の引き出しを開け、あの革表紙のノートを取り出した。

最後のページ。自分の筆跡で書かれた、たった一言。

『ありがとう』


ハルはその文字をなぞった。

意味はまだ分からない。けれど、今の自分はこの「ありがとう」に嘘を吐きたくないと感じた。

彼はペンの蓋を開け、真っ白な次のページに、今の自分に向けた最初の言葉を刻んだ。


『浅見アキを、もう一度、好きになってみようと思う』


それは、24時間で消える記憶よりも、ずっと長く、困難な旅の始まりだった。

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