第6話:崩れる境界線
目覚めは、底知れない「無」だった。
アラームの音が、どこか遠い銀河の向こう側で鳴っているように聞こえる。ハルは目を開けたが、自分の視界に映る白い天井が何を意味するのか、一瞬理解できなかった。
名前。名前は何だったか。
「……せ、と……」
喉が、錆びついた鉄のように軋む。いつもならすぐに手に取るはずの枕元のノート。しかし、今のハルには、そのノートが「自分を助けるもの」であるという認識さえ、霧に包まれていた。
手が震える。ようやく革の表紙に指が触れたとき、激しい頭痛がハルを襲った。
「あ、が……っ!」
脳の奥を直接、熱い針で抉られるような激痛。彼は這いつくばるようにして床に倒れ込み、ノートを開いた。
そこには、昨夜の自分が泣きながら書いたであろう、乱れた文字があった。
『アキは加害者じゃない。俺の命の恩人だ。冬馬に騙されるな。アキを、絶対に離すな』
だが、ハルの思考はそれを拒絶する。
「アキ」という名前を読み下すたびに、脳が「これ以上は危険だ」と防衛本能を働かせ、シャッターを下ろしていく。
症状が悪化している。今までは「特定の誰か」だけを消していた消しゴムが、今やキャンバスそのものを真っ黒に塗り潰そうとしていた。
ピンポーン、と無機質なインターホンの音が鳴った。
現れたのは、冬馬だった。
倒れ込んでいるハルを見ても、彼は驚かなかった。ただ、憐れみを含んだ冷徹な瞳で、ハルを見下ろした。
「限界だな、ハル。昨夜、彼女に会いに行っただろう」
冬馬は部屋に入ると、ハルが落としたノートを拾い上げ、無造作に机に置いた。
「お前の脳は、浅見アキを処理できないんだ。彼女に関する感情の出力が強すぎて、海馬が焼き切れる寸前だ。このままじゃ、一週間後には言葉さえ忘れるぞ」
「……う、嘘だ……」
「嘘じゃない。これが診断結果だ」
冬馬がテーブルに置いたのは、最新の脳スキャン画像だった。特定の領域が異常な活動を示し、周囲の組織を圧迫している。
「手術をしよう。前頭葉の一部の神経接続をバイパスする。命は助かるし、日常の記憶も定着するようになる」
「……代償は?」
ハルは、掠れた声で聞いた。冬馬は一瞬だけ言い淀み、それから残酷な事実を告げた。
「浅見アキに関するすべての記憶、そして、彼女に対して抱く『感情の回路』そのものを切除する。術後、お前は彼女を見ても何も感じなくなる。ただの『風景』になるんだ。それが、お前が人間として生き残る唯一の道だ」
午後。
ハルは、いつもの古本屋ではなく、初めてアキを「呼び出した」。
場所は、二人の思い出の跨線橋。
雪は止んでいたが、空は重く、今にも泣き出しそうな色をしていた。
アキは、ハルの姿を見つけると駆け寄ってきた。
「ハルさん! 急にどうしたの? 具合が悪いんじゃ……」
アキの手がハルの頬に触れようとする。ハルはその手を、優しく、けれど拒絶するように掴んで止めた。
「アキさん。……僕と、最後の『一日』を過ごしてくれないか」
アキの動きが止まった。
彼女は、ハルの瞳を見ただけで全てを悟ったようだった。
冬馬から連絡が行ったのか、あるいは彼女自身がハルの異変に気づいていたのか。
「……手術を、受けるのね」
「このままだと、僕は僕じゃなくなる。君のことだけじゃなく、写真の撮り方も、自分の名前も、すべて消えてしまう」
ハルは、柵に背を向けた。
「君を忘れたくない。でも、君を忘れないままでいたら、僕は壊れてしまうんだ。……情けないだろ」
アキは、首を横に振った。
彼女はハルの隣に並び、遠くの街並みを見つめた。
「情けなくなんてないよ。……ハルさんは、よく頑張った。3年間、毎日毎日、私を『初めまして』って受け入れてくれた。それだけで、私はもう十分すぎるくらい救われたんだから」
彼女の声は、震えていなかった。
だが、ハルが彼女の横顔を見ると、その瞳からは絶え間なく涙が零れていた。
「今日、やりたいことがあるんだ」
ハルはカメラを構えた。
「君との写真を、一万枚撮る。脳が忘れても、このフィルムが覚えているように」
二人は歩いた。
公園のベンチ、商店街の角、かつての図書室の窓の下。
ハルは夢中でシャッターを切り続けた。
アキは、時折泣き笑いのような顔をしながら、ハルの要求に応えてポーズをとった。
「ハルさん、変な顔!」
「いいんだ、これが『今の君』なんだから」
夕暮れが迫る。
影が長く伸び、街の灯りが一つ、また一つと灯り始める。
「……ハルさん。最後に、私の小説を読んでくれる?」
アキは、鞄から厚い原稿束を取り出した。
それは、第2話でハルが盗み見た、あの小説だった。
「読むなと言った昨日の俺は、きっと怖かったんだと思う。真実を知って、君を嫌いになるのが。……でも、今の僕は違う。君のすべてを受け入れて、忘れたい」
ハルは跨線橋の街灯の下で、原稿をめくった。
そこには、加害者としての告白ではなく、「救われた側」の少女が、光をくれた少年を愛し抜くための、壮絶な決意が綴られていた。
そして、最終章の最後の一行には、こう書かれていた。
『愛の反対は憎しみではない。忘却だ。けれど、もし世界中のすべてを忘れても、あなたの指先が私の髪に触れたとき、一瞬だけ世界が色づくのなら、それを奇跡と呼びたい』
ハルは原稿を閉じ、アキを引き寄せた。
二人の影が、跨線橋の上で一つに重なる。
「……愛してる、アキ。明日、僕の心から君が消えても、僕の指が君を覚えているはずだ」
アキはハルの胸に顔を埋め、声を上げて泣いた。
「私も、私も愛してる……。忘れないでなんて言わない。……ハッピーエンドにして。私たちの物語を、あなたが生きることで、ハッピーエンドにして」
午後11時59分。
ハルの意識が、深い眠りへと誘われる。
彼はアキの手を握ったまま、最後の力を振り絞ってノートの最後のページにペンを走らせた。
そこには、これまでの暗号でも警告でもない、たった一言だけが記された。
『ありがとう』
午前0時。
境界線は、静かに崩れ去った。




