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第5話:図書室の亡霊

指先が震えていた。

植物図鑑の『菊』のページの右側に隠されていたのは、少し黄ばんだ封筒だった。

ハルはその封筒から、一枚のポラロイド写真と、折り畳まれた便箋を取り出した。


写真には、今よりも少し幼く、けれど今と同じ真っ直ぐな瞳をしたアキと、そして――カメラを向けて照れくさそうに笑う、高校時代の自分が写っていた。背景は、埃の舞う放課後の図書室。

二人の距離は、今の「初対面」のそれとは明らかに違っていた。


ハルは便箋を開いた。


『ハルへ。

この手紙を読んでいるということは、あなたはまた私のことを忘れてしまったんだね。

冬馬くんはきっと、あなたに嘘をつく。私の父があなたを傷つけたと。

それは事実。でも、彼は大切なことを言わないはず。

あの日、あなたが歩道にいたのは、私を助けようとしたからだってこと。

私はあなたに命を救われ、あなたは私に関する記憶を失った。

これって、すごく不公平な契約だと思わない?

だから私は、作家になることに決めた。

あなたが忘れてしまった私たちの物語を、一文字もこぼさず書き留めて、いつかあなたに届けるために。

追伸:図書室の三番目の棚、一番下の奥を見て。私たちの「亡霊」がそこにいるわ』


「……俺が、彼女を助けた?」


冬馬の言った「加害者の娘」という言葉が、音を立てて崩れていく。

ハルは居ても立ってもいられず、夜の街へ飛び出した。

向かう先は、母校の高校ではない。アキがいつもいる、あの古本屋『木漏れ日堂』だ。


閉店時間を過ぎた『木漏れ日堂』の窓には、まだ微かな明かりが灯っていた。

ハルは鍵の掛かっていないドアを押し開ける。


「……アキさん!」


店の奥、資料室で一人、原稿用紙に向かっていたアキが驚いて顔を上げた。

彼女の目は赤く腫れていた。


「ハルさん? どうして……」

「これを見つけた。……『キクウヨミ』。過去の俺が、俺に教えてくれた」


ハルは手紙を机に置いた。

アキはそれを見た瞬間、力なく椅子に座り込んだ。

「……見つかっちゃったんだ。もっと後に、あなたが自分の力で思い出すまで、隠しておきたかったのに」


「どうして冬馬の嘘を否定しなかった? 僕が君を助けたなんて……そんな大事なこと」


アキは少しだけ笑った。その笑顔は、悲しいくらいに慈しみに満ちていた。

「それを言ったら、ハルさんは『義務感』で私と一緒にいるでしょう? 恩返しとか、罪悪感とか、そんな重いものじゃなくて……私はただ、今のあなたに、今の私を好きになってほしかったの」


アキは立ち上がり、資料室の三番目の棚、一番下の奥にある古い箱を取り出した。

中には、びっしりと書き込まれたノートの山。

「これは、事故からの3年間、私が毎日書き続けた『私たちの記録』。ハルさんが眠るたびに失う一日の断片を、私が全部拾い集めてきた」


ハルはそのノートの一冊を手に取った。

そこには、今日の出来事、昨日話した冗談、明日のハルへの伝言。

彼女の人生のすべてが、ハルの「忘却」を埋めるために捧げられていた。


「冬馬くんはね、あなたのことを守りたいだけなの。彼にとって、私はあなたの脳に負担をかける『毒』でしかない。彼が管理しているのは、あなたの資産だけじゃない。あなたの『平穏』もなのよ。……でもね、ハルさん。平穏なだけの人生に、私はいたくない」


ハルはノートをめくる手が止まらなかった。

文字の端々に、彼女の祈りが見える。

忘れないでほしい、という叫びと、忘れてもいいよ、という許し。


「アキさん。君の小説のタイトル……『私が殺した男』っていうのは」

「……そうよ。あの事故の時、私のために飛び出してくれた瞬間に、カメラマンとしての未来も、輝かしい記憶も、全部私が奪ってしまった。古い『瀬戸ハル』はあの日、死んだの。だから今ここにいるあなたは、私が再生させなきゃいけないの」


アキの告白に、ハルは胸が締め付けられるような痛みを感じた。

記憶はない。けれど、魂の深い場所で、激しい共鳴が起きている。

彼女を救いたかった。あの日の自分も、そして今の自分も。


「……再生なんて、しなくていい」


ハルはアキの手を強く握った。

「あの日死んだのが誰だろうと、今、君の手の温かさを感じているのは俺だ。記憶がなくても、朝起きて真っ白でも……俺は、この痛みを知っている。この愛しさを、知っている気がするんだ」


アキの目から、大粒の涙が溢れ出した。

「ハルさん……」


「明日も、また『初めまして』って言うよ。何度でも、君を見つける。……だから、もう自分を責めないでくれ」


窓の外では、雨が雪に変わっていた。

今シーズン初めての初雪。

二人は狭い資料室で、重なり合う過去と現在の断片に囲まれながら、寄り添った。


だが、ハルはまだ気づいていなかった。

アキのノートの最後の一冊に、自分さえもまだ知らない「さらなる空白」があることに。

そして、冬馬がなぜそこまで執拗にアキを遠ざけようとするのか、その「真の理由」に。

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