第4話:雨の日のデジャヴ
「いつまでそんな遊びを続けてるんだ、ハル」
低い、聞き覚えのない男の声がした。
ハルは跳ねるように飛び起きた。視界が白く霞む中、逆光を背に立っている人影が見える。
「……誰だ」
ハルは反射的に枕元のノートを掴んだ。これが唯一の武器であり、自分を守る防壁だ。
「誰、か。……そうか、今日の分はまだ読んでないんだな」
男は呆れたように息を吐き、壁のスイッチを入れて室内を明るくした。
現れたのは、仕立てのいいネイビーのスーツを着た男だった。年齢はハルと同じくらいだが、その眼差しには冷徹なまでの理性と、親しげな軽蔑が混在している。
「俺は冬馬。お前の親友で、お前の資産管理を任されている人間だ」
冬馬は勝手知ったる様子でキッチンへ向かい、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。
「親友……?」
「信じられないならノートを読み返せ。3日前のページに俺の連絡先と写真が貼ってあるはずだ」
ハルは狼狽しながらノートを遡った。確かにあった。
『冬馬。唯一信頼できる友人。金の管理と事務手続きは彼に任せている。ただし、奴の言うことを全て鵜呑みにするな』
……昨日の自分も、一昨日の自分も、周囲の人間を誰も信用していなかったらしい。
「それで、その……遊び、というのは?」
ハルが尋ねると、冬馬は水を一口飲み、鋭い視線を向けた。
「あの女だ。浅見アキ。彼女といつまで『初めましての恋人ごっこ』を続けるつもりだ? お前が彼女と会うたびに、お前の脳の回復は遅れている。主治医も言っているはずだ。過去の執着を捨てろと」
ハルの指がノートの端を強く握りしめた。
「彼女は、僕の過去を知っている人なんだ。僕たちは、高校時代に……」
「ああ、あの跨線橋に行ったのか。昨日も、その前も。彼女はいつもお前をあそこに連れて行く」
冬馬は嘲笑するように鼻で笑った。
「ハル、目を覚ませ。彼女は加害者だぞ。3年前の事故、お前が車に跳ねられた時、その車を運転していたのは、浅見アキの父親だ」
心臓が、嫌な音を立てて脈打った。
「……何だって?」
「彼女の父親は居眠り運転で、歩道にいたお前を撥ねた。父親は服役中に病死したが、彼女はその罪悪感でお前に取り入っているだけだ。お前の記憶が消えるのをいいことに、自分に都合のいい『美しい初恋』を捏造して、お前の中に居座り続けている」
冬馬は一歩、ハルに歩み寄った。
「彼女の書いている小説を読んだか? あれは贖罪の記録だ。彼女はお前を愛しているんじゃない。お前を使って、自分の罪を浄化しようとしているだけなんだよ」
第2話で見た、あの原稿。
『この物語は、私が殺した男の、再生の記録である』
あの言葉が、呪いのように蘇る。殺した、というのは比喩ではなく、ハルの「過去」と「記憶」を奪ったことへの直接的な謝罪だったのか。
「……嘘だ。彼女は、僕が忘れた分まで大切にするって、そう言った」
「それが彼女の戦略だ。ハル、今日こそ彼女との連絡を断て。それがお前のためだ」
冬馬が去った後、ハルは静まり返った部屋で、自分の左手首を見た。
昨夜書いたマジックの跡。
『アキを信じるな。だが、アキを愛せ』
「……どちらの僕が、正しいんだ」
昨夜の自分は、冬馬の言う「真実」を知った上で、それでも彼女を愛せと書いたのか。それとも、冬馬さえも知らない何かを、昨夜の自分だけが掴んでいたのか。
午後。
ハルは約束もしていないのに、『木漏れ日堂』の前に立っていた。
雨は止んでいたが、空は厚い雲に覆われ、街全体が灰色のフィルターを通したようにくすんで見える。
店に入ると、アキはいつもの席に座っていた。
ハルの顔を見た瞬間、彼女はパッと表情を明るくした。
「ハルさん! 今日も、初めまして……」
「……君の父親が、僕を撥ねたんですか」
挨拶を遮るように、ハルは冷たく言い放った。
アキの笑顔が、凍りついた。
持っていたペンが、カランと床に転がる。
「……冬馬くんに、会ったんだね」
彼女は隠そうともしなかった。その潔さが、逆にハルの心を逆撫でした。
「どうして黙っていたんですか。被害者と加害者の娘。そんなの、恋人ごっこなんてできるわけがない」
「……ごめんなさい。でも、ハルさん。私は、あなたに嘘はついていないわ」
アキは震える声で言った。
「私たちの初恋も、あの跨線橋の思い出も、全部本当のことなの。事故のずっと前から、私たちは……」
「思い出せない僕にとって、それは『設定』でしかないんだ!」
ハルの怒声が、静かな店内に響いた。
店主が奥から心配そうに顔を出したが、アキが制した。
「……そうよね。今のハルさんにとっては、そう。私の存在そのものが、あなたを苦しめるノイズなんだわ」
アキは静かに荷物をまとめた。
「わかった。今日は、もう帰るね。……でも、これだけは信じて。私はあなたから何かを奪うためにここにいるんじゃない。私は、あなたがいつか『自分自身』を取り戻すための、道標になりたいだけ」
彼女は店を出て行った。
ハルはその後姿を追わなかった。
机に残されたコーヒーは、一口もつけられないまま冷え切っていた。
その夜。
ハルはノートを開かなかった。
何も書きたくなかった。こんな最低な一日は、忘れてしまったほうがいい。
眠れば消える。彼女の悲しそうな顔も、冬馬の冷たい言葉も、自分の汚い叫びも。
しかし、眠りに落ちる寸前、ハルの脳裏に、第1話で撮った彼女の写真が浮かんだ。
黄金色の光の中、泣き出しそうな笑顔で笑っていた彼女。
あの瞬間、ハルの指先が覚えた「震え」は、単なる同情や罪悪感への反応だったのだろうか。
ハルは朦朧とする意識の中で、ノートを手に取った。
そして、昨日の自分が書いた暗号の続きを、ただ機械的に書き足した。
『キ』『ク』『ウ』『ヨ』……『ミ』。
繋げると、『キクウヨミ(菊、右、読み)』。
ハルはハッとして、本棚の隅にある古い植物図鑑を見た。
そこには、昨日の自分ではなく、「事故に遭う前の自分」が隠したと思われる、古い一通の手紙が挟まっていた。




