第3話:二度目の初対面
資料室に落ちた沈黙は、外の雨音よりも重くハルの鼓動を圧迫した。
アキの手にある二つのカップから、白い湯気がゆらゆらと立ち上っている。彼女の表情は、逆光でよく見えない。
「……見ちゃったんだね」
アキの声は、温度を失っていた。
ハルは反射的に原稿を鞄に押し戻そうとしたが、指が震えてうまくいかない。
「……すみません。昨日の日記に『読むな』とあったから、逆に、気になってしまって」
アキはゆっくりと歩み寄り、机にカップを置いた。カチリ、と陶器が触れ合う音が、静かな室内で銃声のように響く。
「昨日のハルさんは、約束を守ってくれたのに。今日のハルさんは、少しだけ……悪い子だ」
彼女は眼鏡を外し、机の上に置いた。剥き出しになったその瞳には、深い哀しみと、それを覆い隠すような鋭い光が宿っている。
「『殺した』って……どういう意味ですか。君が、誰を?」
ハルは問いかけた。自分の声が、上擦っているのが分かった。
アキは自嘲気味に口角を上げた。
「比喩だよ。作家の常套句。……私が書いた言葉で、誰かの心を殺してしまった。あるいは、誰かの人生を狂わせてしまった。そういう意味。ハルさんが深読みするような、物騒な事件じゃないわ」
「本当……ですか?」
「信じるか信じないかは、ハルさん次第。だって、明日のあなたは、今のこの会話さえ覚えていないんだから」
その言葉は、ハルにとって最も残酷な正論だった。
どれだけ彼女を問い詰めても、どれだけ真実に近づいても、眠りにつけば全てはリセットされる。砂浜に書いた文字を波がさらうように、彼の抱いた疑惑も、恐怖も、そして彼女への微かなときめきも、すべては均されてしまう。
「……ずるいな。君だけが、全部持っていくんだ」
ハルは力なく椅子に座り込んだ。
アキは、そんな彼の隣にそっと腰を下ろした。
「ずるいのは、私じゃないわ。忘れて逃げられるハルさんの方よ」
彼女の言葉に、ハルは顔を上げた。
アキは窓の外、雨に濡れる街路樹を見つめていた。
「私はね、毎日、ハルさんに『初めまして』を言うのが怖いの。昨日、あんなに心を通じ合わせたはずなのに、朝になれば、あなたの瞳の中の私は『ただの知らない女』に戻っている。その度に、私は何度も何度も、あなたに振られている気分になるんだよ」
彼女の横顔から、一筋の雫が零れ落ちた。
それが雨漏りなのか、涙なのか、ハルには判別がつかなかった。
ただ、彼女の肩が微かに震えているのを見て、ハルは自分が犯した「好奇心」という罪を激しく後悔した。
「……ごめんなさい。アキさん」
ハルは、彼女の細い肩に手を置こうとして、躊躇い、結局自分の膝の上で拳を握った。
「僕は、君のことを何も知らない。昨日、何を話したのかも、どうして君が僕の隣にいてくれるのかも。……でも、一つだけ確かなことがある」
アキが、濡れた瞳でハルを見た。
「今の僕は、君を悲しませたくないと思ってる。昨日の僕が何を言ったかは知らないけれど、今の僕にとって、君は『知らない人』じゃない。……『失いたくない人』だ」
アキは目を見開いた。
そして、堪えきれなくなったように、小さく噴き出した。
「……ふふ、あははっ。……ハルさんって、本当にずるい」
彼女は涙を拭い、ハルの顔をまじまじと見つめた。
「今のセリフ、昨日も一昨日も言ったよ。一言一句、同じ言葉で。……ねえ、記憶なんてなくても、魂が覚えてるって、信じる?」
ハルは言葉に詰まった。
同じことを繰り返している。自分は、壊れたレコードのように、毎日同じ場所で、同じ彼女に、同じ恋をしているのか。
「今日はもう、蔵書整理はやめよう」
アキは立ち上がり、ハルのカメラバッグを手に取った。
「雨も止んできたし、外に行こう? 昨日のハルさんが教えてくれた、とっておきの場所があるの」
二人が向かったのは、街の外れにある、古い跨線橋だった。
雨上がりの夕暮れ。雲の切れ間から差し込むオレンジ色の光が、濡れたアスファルトを鏡のように輝かせている。
「ここ……」
ハルは立ち尽くした。
見覚えはない。記憶にはない。
だが、胸の奥が締め付けられるような、強烈な懐かしさがこみ上げてきた。
「高校時代、ここでよく二人で夕日を見たんだよ」
アキは柵に寄りかかり、遠くを走る電車を眺めた。
「ハルさんはカメラを構えて、私は隣で教科書を開いて。……あの頃は、明日が来るのが当たり前だと思ってた」
ハルはカメラを取り出し、ファインダーを覗いた。
ファインダー越しに見えるアキの横顔。オレンジ色の光に溶けそうな、儚いシルエット。
「アキさん。僕たちは、昔……付き合っていたんですか?」
アキは答えなかった。
ただ、静かに微笑んで、ハルの方を向いた。
「それは、第12話くらいで教えるね」
「え?」
「冗談。……でも、今はまだ、言わない。だって、今のハルさんには、今の私と新しく恋をしてほしいから」
アキはハルに歩み寄り、彼のカメラのレンズキャップをそっと外した。
「撮って。今の、私を。明日のハルさんが、これを見て『この人に会いたい』って思えるような、最高のやつを」
ハルは息を呑み、シャッターを切った。
黄金色の光の中、アキが笑っている。
その笑顔は、昨日の日記に書かれていた「宝石」そのものだった。
その夜。
アパートに戻ったハルは、ノートを開いた。
今日の出来事を書き記す。アキの涙、資料室の不穏な言葉、そして跨線橋での笑顔。
書き終えたあと、ハルはふと思い立ち、ノートの数ページ前を遡ってみた。
すると、あることに気づく。
毎日、アキと会った後の日記には、共通して「ある一文字」が、ページの隅に小さく書かれていた。
『キ』
『ク』
『ウ』
それは、単なる落書きのようにも見えるが、意図的に残された暗号のようでもあった。
ハルは、今日の日記の隅に、迷わず次の一文字を書き込んだ。
『ヨ』
繋げると、何になるのか。
昨日の自分が「読むな」と言った小説。
アキが「殺した」と言った誰か。
そして、このノートに隠された、自分自身への伝言。
ハルは眠りに落ちる直前、自分の左手首に、マジックで大きくこう書いた。
『アキを信じるな。だが、アキを愛せ』
矛盾したその言葉が、明日目覚める自分への、精一杯の警告であり、願いだった。




