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第2話:書き置きの空白

午前5時30分。

アラームの電子音が、ハルの意識を強制的に現実へと引き戻した。

窓を叩く雨の音がしきりに響いている。低気圧のせいか、頭の芯が鉛のように重い。


ハルは、儀式のように枕元の革表紙のノートを手に取った。

昨日、自分が書いたはずの文字。

『彼女の瞳を見てほしい。そこには、お前が失くした全ての時間が、宝石のように閉じ込められているから』


「……ポエマーだな、昨日の俺は」


乾いた声で独りごちる。記憶のない自分にとって、昨日の自分の熱量は、まるで他人が書いた安っぽい恋愛小説のモノローグを読まされているような、気恥ずかしさと疎外感を感じさせるものだった。

「浅見アキ」という名前を脳内で転がしてみる。

昨日と同じだ。響きさえ馴染みのない、ただの記号。


しかし、ページをめくろうとした指が止まった。

昨日の日記の末尾、自分の筆跡が乱れている箇所がある。

そこには、一滴の赤いシミが、乾いて茶褐色に変色して残っていた。


「……血?」


指で触れてみるが、もちろんもう乾いている。昨日の自分は、鼻血でも出したのだろうか。あるいは、何かを急いで書き留めようとして、ペン先で指を切ったのか。

ノートを読み返しても、そのシミについての言及はない。ただ、最後の一行だけが、執拗に濃い筆圧で書かれていた。


『彼女が書いている小説を、絶対に読ませてもらうな』


昨日、自分は彼女のことを「宝石のようだ」と称賛していたはずだ。それなのに、最後の一文は、まるで警告のように冷たく響いている。

昨日の自分と、一昨日の自分。その間に、何があったのか。


午前10時。

ハルは雨の中、商店街へと向かった。

今日の仕事は午後からだ。それなのに、足は自然と『木漏れ日堂』へと向いてしまう。

昨日の自分が「会いに行け」と命じているからか、あるいは、あの赤いシミの正体を知りたいという、野次馬的な好奇心か。


店に入ると、昨日と同じ、古書の匂いがハルを包んだ。

だが、客席に彼女の姿はなかった。


「……瀬戸さん、おはようございます」

カウンターで文庫本のカバーをかけていた店主が、顔を上げた。その表情には、昨日よりも少しだけ深い陰りがあるように見えた。


「彼女は、来ていませんか」

「浅見さんなら、今日は奥の資料室にいますよ。彼女、この店の蔵書整理を手伝ってくれているんです」


店主は、店の奥にある重厚なカーテンを指差した。

「入っても、いいんでしょうか」

「ええ。彼女も、あなたが来るのを待っていましたから」


ハルはカーテンを潜り、資料室へと足を踏み入れた。

そこは、表の店舗よりもさらに埃っぽく、天井まで届く書棚が迷路のように入り組んでいた。薄暗い電球の下で、アキは脚立に登り、古い背表紙を指でなぞっていた。


「……あ、ハルさん」

彼女が振り返る。

今日の彼女は、昨日とは違う。髪を後ろで一つに結び、大きな眼鏡をかけていた。

「おはよう。雨、すごいね」


「……おはようございます。今日も、初めまして……ですよね」

ハルがぎこちなく言うと、アキは脚立からひらりと飛び降りた。その身軽な動作に、ハルは一瞬、心臓が跳ねるのを感じた。


「今日は、眼鏡なんだね」

アキがハルの顔を覗き込む。

「……ええ。コンタクトにするのが面倒で」

「そっか。昨日のハルさんは『眼鏡だと、君のことがよく見えすぎて照れる』なんて言ってたけど」


アキはクスクスと笑い、ハルの上着についた雨の雫を、自分のハンカチでそっと拭った。

その自然な動作に、ハルは身を強張らせる。

「……あの、アキさん」

「なあに?」

「昨日の日記に、血の跡があったんです。僕、何か失礼なことをしましたか? あるいは、君に怪我を……」


アキの手が、一瞬だけ止まった。

彼女はハンカチをポケットに仕舞うと、視線を逸らして棚の整理に戻った。

「……ううん。ハルさんは何もしてないよ。私が、ちょっと紙で指を切っちゃっただけ。それをハルさんが心配して、手当てしてくれたの」


「そうですか。……それなら、いいんですけど」

ハルは安堵した。だが、ノートの最後にあった警告が、頭の隅でチリチリと音を立てる。


『彼女が書いている小説を、絶対に読ませてもらうな』


アキは棚から一冊の古びた手帖を取り出し、机の上に置いた。

「ねえ、ハルさん。今日は仕事まで時間ある? もしよかったら、この資料室の整理、手伝ってほしいな。お礼に、とっておきのコーヒーを淹れるから」


「……いいですよ。どうせ、暇ですから」

二人は並んで、古い蔵書のリスト化を始めた。

沈黙が流れるが、それは決して気まずいものではなかった。

アキが時折、本の内容について楽しそうに話し、ハルがそれに相槌を打つ。

記憶はないはずなのに、彼女の笑うタイミングや、言葉の選び方が、驚くほどしっくりと自分の中に染み込んでくる。


(……不思議だ)


脳は彼女を拒絶しているのに、心の一部が、彼女を「待っていた」と叫んでいるような感覚。

ハルは作業をしながら、彼女の手元を盗み見た。

彼女は、一冊の原稿用紙の束を、大切そうに鞄の奥に隠し持っている。

それが、昨日の自分が「読むな」と言った小説なのだろうか。


「……アキさんは、どんな小説を書いてるんですか?」

ハルは、あえて確信犯的に尋ねた。


アキの手が、今度ははっきりと止まった。

彼女はゆっくりと顔を上げ、ハルをじっと見つめた。その瞳は、深海のように静かで、底知れない悲しみを湛えているように見えた。


「……ハルさんは、読みたい?」

「気になります。僕の記憶が消えるのと関係がある……とか?」


アキは少しだけ自嘲気味に笑い、首を振った。

「関係ないよ。ただの、作り話。……でも、もしハルさんがそれを読んだら、きっと私のことを『嫌い』になっちゃうかもしれない」


「そんなはずは」

「わからないよ。記憶がない今のハルさんには、私の『正体』なんて、想像もつかないだろうから」


アキはそう言うと、話題を逸らすように立ち上がった。

「コーヒー、淹れてくるね」


彼女が資料室を出ていく。

ハルは一人、残された。

机の上には、彼女の鞄が置かれている。

チャックは少しだけ開いていて、中から原稿用紙の端が覗いていた。


(見るな。昨日の俺はそう言った)


だが、今の俺は、昨日の俺じゃない。

ハルは誘惑に負け、手を伸ばした。

アキが戻ってくるまでの数分間。彼はその原稿を、抜き取った。


タイトルは、まだ付けられていない。

ただ、第一ページの冒頭には、震えるような文字でこう書かれていた。


『この物語は、私が殺した男の、再生の記録である』


その瞬間、外で大きな雷鳴が轟いた。

ハルの指先が、冷たく凍りつく。

原稿を元に戻そうとしたその時、背後でカーテンが開く音がした。


「……ハルさん?」


そこには、二つのカップを持ったアキが立っていた。

彼女の眼鏡の奥の瞳は、笑っていなかった。

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