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第11話:最後の約束

アキが書き上げた小説『昨日の君が、明日の僕を忘れても』は、静かな熱狂をもって世間に受け入れられた。それは単なる悲恋の物語ではなく、「記憶とは何か」「自分とは何か」を問う、哲学的な深みを持った文芸作品として評価された。


アキは今、ペンネームではなく本名で、一人の作家として生きていた。

彼女の元には読者から多くの手紙が届く。そのほとんどが「大切な人を、もっと大切にしようと思った」という感謝の言葉だった。しかし、アキ自身は、あの日海辺の公園に置いてきたハルの「その後」を知る勇気を持てずにいた。


そんなある日、アキの元に一通の招待状が届く。

差出人は、地方にある小さな療養施設。そこには、一つのタイトルが記されていた。


『無題:ある入所者による、光の記録展』


アキは吸い寄せられるように、その施設へと向かった。


施設は、緑豊かな山あいにあった。

静かな廊下を抜けた先にある多目的ホールが、展示会場になっていた。

壁に並べられた写真を見て、アキは息が止まった。


そこにあるのは、ピントが合っているのかも怪しい、ブレた写真ばかりだった。

足元の影、窓際の埃、コップに反射する光、誰かの指先。

被写体はどれも「日常」の欠片に過ぎない。しかし、その一枚一枚から、凄まじいまでの「肯定」が溢れていた。

世界はこんなにも光に満ちている。自分は今、ここに生きている。

言葉を失い、記憶を失った人間が、指先だけで紡ぎ出した、切実な生命の賛歌。


「……これ、彼が撮ったんですか?」

アキは、傍らにいた看護師に尋ねた。


「ええ。彼は自分の名前も、昨日何を食べたかも覚えていません。でも、朝起きてカメラを持つと、赤子のように喜んで光を追いかけるんです。まるで、光を撮ることだけが、彼をこの世界に繋ぎ止める唯一の錨であるかのように」


看護師は、展示の最後にある一枚の写真を指差した。

「この写真だけ、彼はどうしてもタイトルを付けたいと言ったんです。……言葉を忘れたはずの彼が、絞り出すようにして言った言葉でした」


アキはその写真の前に立った。

そこには、何も写っていなかった。

ただ、夕暮れ時の黄金色の光が、画面全体を真っ白に焼き飛ばしているだけの、失敗作のような一枚。


しかし、その下に添えられたキャプションには、震えるような文字でこう記されていた。


『おかえり』


アキの視界が、一瞬で涙に滲んだ。

それは、彼女の小説の結末に対する、彼からの数年越しの返信のように思えた。

小説の中で、アキは物語をこう結んだのだ。

『もしあなたが私を忘れても、光の降る場所で、私はあなたを待っている。……ただいま、と言えるその日まで』


「……ハルさん。どこに、いるんですか?」


「中庭ですよ。今は、夕陽が綺麗な時間ですから」


アキは走り出した。

中庭のベンチに、一人の男が座っていた。

少し白髪が混じり、以前よりも痩せたその背中。彼は、手元にある古いライカ――アキがかつて細工をした、音だけが鳴るあのカメラ――を大切そうに抱えて、沈みゆく太陽を見つめていた。


アキは、彼の数メートル手前で足を止めた。

声をかければ、彼は再び「どなたですか?」と尋ねるだろう。

その痛みは、もう何度も味わってきた。

けれど、今の彼女には、その「初めまして」さえも愛おしく思えた。


「……こんにちは」


アキの声に、ハルがゆっくりと振り返った。

その瞳は、驚くほど澄んでいた。

彼はアキをじっと見つめた。一秒、二秒。

記憶の深淵から、何かが浮上しようとしては消え、また浮上する。


ハルは、ゆっくりとカメラを構えた。

ファインダー越しに、アキを捉える。

ピントは合っていない。けれど、彼は最高の笑顔で、シャッターを切った。


カチッ。


「……きれいな、ひかり」


ハルはそう言って、子供のような笑みを浮かべた。

「あなたは……僕の、ひかりですか?」


アキは泣きながら、けれど最高の笑顔で頷いた。

「そうだよ、ハルさん。……あなたの、ひかりだよ」


ハルは不思議そうに、けれど安心したように、アキの差し出した手を握った。

かつてのように「愛している」という言葉は交わされない。

「昨日」を共有することも、もう叶わない。

けれど、握り合った手の温もりだけは、今、この瞬間の真実として二人の間に存在していた。


「ハルさん、約束だよ」

アキは、彼の耳元で囁いた。

「明日も、明後日も、私、あなたに会いにくるね。……何度忘れられても、私があなたを見つけるから」


ハルは、その意味を完全に理解したわけではなかった。

ただ、この温かな手が自分を裏切らないことだけを、指先の細胞が確信していた。

「……はい。また、あした」


夕陽が沈み、世界が深い青に染まっていく。

二人の影は、重なり合ったまま、動くことはなかった。

それは、忘却という残酷な時の流れの中で、二人が交わした「最後にして永遠の約束」だった。

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