第10話:消えた足跡
冬馬は去った。自分の執着が親友を完全に「破壊」してしまったという事実に耐えきれず、彼は自ら消えるように表舞台から姿を消した。しかし、残されたハルの世界は、もはや一晩どころか、一時間と持たずに崩落する砂の城と化していた。
「……こんにちは。どなた、ですか?」
一時間前、共に食事をし、笑い合ったはずのハルが、澄んだ瞳でアキに問いかける。
今のハルの記憶は、バケツの底に開いた大きな穴のようだった。注いでも注いでも、現在の断片はそこから零れ落ちていく。
アキは、かつてハルが使っていたあの革表紙のノートを再び広げた。
しかし、今のハルには日記を書く集中力さえ残っていない。彼が書けるのは、時折思い出したように記す「ひかり」「きれい」「あき」という、断片的な言葉だけだった。
「私はアキ。あなたの、一番のファンだよ」
アキはそう答え、毎日「初めまして」を繰り返した。
かつての「24時間のリセット」が天国に思えるほどの、過酷な一分一秒の積み重ね。アキは、ハルの生活を支え、食事をさせ、散歩に連れて行った。しかし、ハルの瞳に自分が映るたび、そこにあるのは「慈しみ」ではなく、見知らぬ介護者に向けられる「謙虚な疎外感」だった。
(……私は、彼を縛り付けているだけなんじゃないかな)
アキの心に、暗い影が差し始める。
かつてのハルは、自分が忘れることを苦しみ、抗おうとした。しかし今のハルは、忘れていることさえ忘れている。彼は、過去も未来もない、永遠の「今」という一瞬に閉じ込められている。
その「今」において、自分の存在は彼にとって「覚えなければならないというプレッシャー」でしかないのではないか。
ある日、アキはハルを連れて、かつて彼が愛した海辺の公園へ行った。
ハルは車椅子に座り、穏やかに海を見つめている。その手には、修理不能と言われながらも、アキが細工をしてシャッター音だけが鳴るようにしたライカが握られていた。
「ハルさん。……私、もう行くね」
アキは、ハルの耳元で静かに囁いた。
ハルはゆっくりと首を傾げ、アキを見た。
「行く? ……どこへ?」
「あなたの記憶が届かない、ずっと遠い場所。……そこに、私たちの物語を書きにいくの。あなたがいつか、どこかでその本を開いたとき、あなたの魂が『ああ、これは僕のことだ』って思えるような、そんな本を」
ハルは、理解しているのかいないのか、ただ穏やかに微笑んだ。
「……それは、素敵な本になりそうですね」
アキは、堪えきれそうになる涙を飲み込み、ハルの手に一通の封筒と、一冊の新しいノートを握らせた。
そこには、冬馬の手から取り戻したハルの資産と、彼がこれから「瀬戸ハル」として生きていくための、最低限のガイドが記されている。そして、アキの連絡先はどこにも書いていなかった。
「さようなら、私の光。……大好きだったよ、ハルさん」
アキは、振り返らずにその場を去った。
足跡は砂浜に刻まれ、すぐに波にかき消されていく。
一時間後。
ハルは公園のベンチで、一人で海を見ていた。
彼は、自分がなぜここにいるのか、手に持っているこの重い鉄の塊が何なのか、分からなかった。
ふと、手元にあるノートに気づく。
一ページ目を開くと、そこには美しい文字でこう書かれていた。
『あなたは瀬戸ハル。世界を撮るカメラマンです。
あなたの指先は、世界中の美しいものを覚えています。
このノートをめくる必要はありません。
ただ、目の前にある光を、信じてください』
ハルは、その言葉をゆっくりと読み下した。
なぜか、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「……きれいだ」
彼は、使い方も分からないカメラを構え、海に反射する午後の陽光に向けてシャッターを切った。
カチッ、という空虚な音が響く。
フィルムは入っていない。記録もされない。
けれど、その音を聞いた瞬間、ハルの脳裏に、茶色の髪をした女性が笑っている残像が、一瞬だけ、火花のように散った。
「……あ、き……?」
その名前が誰のものか、彼は思い出せなかった。
けれど、その響きを口にしたとき、彼の目から一筋の涙が溢れ、乾いた砂の上に落ちた。
アキは、街を離れる列車の中で、ペンを走らせていた。
タイトルはもう決まっている。
彼女が一生をかけて書き上げる、最後の、そして最初の一冊。
『昨日の君が、明日の僕を忘れても』
彼女の物語が、現実の彼を救うことはもうないかもしれない。
けれど、彼女は信じていた。
いつか彼が、言葉も、名前も、愛した記憶さえもすべて失った果てに、ただ「世界は美しい」と感じるその瞬間、そこに自分の愛が溶け込んでいることを。




