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第1話:午前0時のリセット

枕元のデジタル時計が「05:30」を表示すると同時に、無機質なアラームが鳴った。

瀬戸ハルは、意識の混濁したまま手を伸ばし、アラームを止める。窓の外はまだ薄暗い群青色に沈んでおり、冬の気配を含んだ冷気がカーテンの隙間から忍び込んでいた。


彼はまず、起き上がらない。

天井の木目をじっと見つめ、自分の名前、職業、そして今日の予定を頭の中で点呼する。

「瀬戸ハル。27歳。フリーランスのカメラマン。今日は10時からスタジオで商品撮影……」

ここまではいい。ここまでは「普通」の人間と同じだ。


しかし、彼は次に、震える指先で枕元にある一冊の重厚な革表紙のノートを開く。

表紙には、黒いマジックで大きくこう書かれている。


『目覚めたら、まずこれを読め。昨日の自分を信じるな』


ページをめくると、そこには彼自身の筆跡で、びっしりと昨日の出来事が書き連ねられていた。誰と会い、何を話し、どんな感情を抱いたか。そして、ページの最後には必ず、赤ペンで強調された一文がある。


『浅見アキという女性に会った。彼女を忘れるな。彼女は、お前の全てだ』


ハルは、その名前を唇の端でなぞってみる。「アサミ、アキ」。

……何も思い出せない。

脳の特定の部分が、鋭利な刃物で綺麗に削り取られたかのように、その名前に関連する色彩も、声のトーンも、胸の鼓動も、一切が消え失せていた。


これがハルの日常だ。

3年前の交通事故。脳挫傷による高次脳機能障害の一種。

彼に下された診断は「選択的逆行性健忘」の変異種という稀なものだった。眠りにつくと、その日に出会った「特定の重要人物」に関する記憶だけが、脳の海馬から消去される。まるで、神様が消しゴムを持って、彼の人生から一番大切な色だけを毎日消していくような、静かな地獄。


「……またか」


ハルは力なく呟き、ノートを閉じた。

鏡の中の自分は、ひどく疲れ果てた顔をしている。27歳という若さにしては、その瞳には光が乏しかった。

彼は機械的にシャワーを浴び、コーヒーを淹れる。豆を挽く音だけが、静まり返った部屋に響く。

ノートによれば、昨日の自分はアキという女性と、駅前の古本屋『木漏れ日堂』で会ったらしい。そこで彼女と長い時間話し、明日――つまり今日、再び会う約束をしたという。


ハルは迷った。

自分にとって彼女がどれほど重要だったのか、今の自分には分からない。ノートの熱量と、今の自分の空虚な心が乖離している。

だが、ノートの最後には、殴り書きのような文字でこう付け加えられていた。


『逃げるな。忘却に負けるな。彼女の瞳を見れば、お前は思い出すはずだ』


「……勝手なことを」


昨日の自分は、今の自分にとって見知らぬ他人だ。

それでも、ハルはカメラバッグを手に取った。ライカの古いレンジファインダー。これが、彼にとって唯一「嘘をつかない」世界の切り取り方だった。


午前10時からの商品撮影は、滞りなく終わった。

ハルはプロだ。技術は指が覚えている。光の加減、影の落ち方、被写体が最も美しく見える角度。それらは記憶の障害とは無関係に、筋肉の記憶として刻み込まれていた。

クライアントとの打ち合わせを終え、機材を片付けると、時計の針は午後3時を回っていた。


冬の太陽は短い。西日に照らされた街を歩きながら、ハルの足は自然と『木漏れ日堂』へと向かっていた。

商店街の端、古い街灯の下に佇むその店は、時代から取り残されたような静謐な空気を纏っていた。

自動ドアではなく、重い木製のドアを押して中に入る。古書の独特な、紙が朽ちていく甘く埃っぽい香りが鼻腔をくすぐった。


「いらっしゃい」


奥のカウンターから、低く落ち着いた声がした。

店主の老人が眼鏡をずらしてハルを見る。

「ああ、瀬戸さん。今日も……彼女を待ちますか?」


「……彼女、来てるんですか?」

ハルの問いに、店主は少しだけ悲しそうな目を向け、店の奥にある小さな喫茶スペースを指差した。


そこには、一人の女性が座っていた。

窓から差し込む斜光を背に受け、彼女は真剣な表情でノートにペンを走らせている。

肩にかかる程度の柔らかな茶髪。白いニットの袖から覗く、細い手首。

彼女が顔を上げた。


ハルの心臓が、ドクリと大きく跳ねた。

記憶はない。彼女との会話も、笑い声も、何も思い出せない。

なのに、彼女と目が合った瞬間、視界の端が熱くなるような、暴力的なまでの切なさが押し寄せてきた。


「……こんにちは、ハルさん」


彼女は、少しだけ照れくさそうに、けれど慈しむような微笑みを浮かべて立ち上がった。

「今日も、初めまして……かな?」


ハルは言葉を失い、立ち尽くした。

彼女の声は、まるで遠い昔に聞いた子守唄のように、彼の心の奥底にある固い殻を優しく叩く。

「……浅見、アキさん、ですか」


「正解。ノート、ちゃんと読んでくれたんだね」

アキは歩み寄り、ハルの目の前で止まった。彼女から、微かに沈丁花の香りがした。

「昨日のハルさんは、すごく一生懸命だったよ。明日の自分に、私のことをどう伝えればいいか、一晩中考えてた」


「……昨日の僕は、君になんて言ったんですか」

「内緒。それは、今日のハルさんが自分で見つけることだから」


彼女は悪戯っぽく笑うと、ハルの向かいの席を指差した。

「さあ、座って。私たちの『二度目の一日』を始めよう?」


ハルは促されるまま椅子に腰を下ろした。

机の上には、彼女が書いていた原稿用紙が散らばっている。

「アキさんは、作家なんですね」

「まだ卵だけどね。今は、ある『忘れん坊の王子様』の話を書いてるの」


彼女はハルのカメラに視線を落とした。

「ねえ、ハルさん。そのカメラで、私を撮ってくれない? 記憶には残らなくても、記録には残るでしょ」


ハルは戸惑いながらも、ライカを構えた。

ファインダー越しに見る彼女は、あまりにも透明で、今にも消えてしまいそうだった。

ピントを合わせる。彼女の瞳に、小さな光の点が宿る。

シャッターを切る。

乾いた金属音が店内に響いた。


「綺麗だ」

無意識に言葉が漏れた。

「写真が?」

「……君が」


アキは一瞬、驚いたように目を見開き、それから今までで一番綺麗な、けれど泣き出しそうな笑顔を見せた。

「……ありがとう。今の言葉、明日も聞けたらいいな」


外は、いつの間にか夜の帳が下り始めていた。

あと数時間もすれば、日付が変わる。

ハルは眠りにつき、そして彼女のことを再び忘れるだろう。

どれほど強く願っても、どれほど克明にノートに記しても、目覚めた時の彼は「アキ」という存在を愛したことさえ覚えていない。


「アキさん。僕は……」

ハルが何かを言いかけた時、アキがそっと彼の手に自分の手を重ねた。

その温もりは、驚くほど確かだった。


「言わなくていいよ、ハルさん。忘れることは、罪じゃない。私が全部、覚えているから。ハルさんが忘れた分も、私が二倍、大切にするから」


その言葉は、救いのようでもあり、呪いのようでもあった。

ハルは彼女の手を握り返した。

この温もりを、指の感触を、魂に刻み込もうと必死に力を込める。

だが、無情にも店の時計は午後6時を告げる鐘を鳴らした。


ハルの「今日」が終わろうとしていた。

明日、また彼は真っ白なキャンバスのような心で目覚める。

そして枕元のノートを読み、疑いながら、戸惑いながら、再びこの場所へやってくる。

アキはそれを知っていて、毎日ここで彼を待つのだ。


「また明日、ハルさん」

別れ際、アキは駅の改札前で手を振った。

「ああ。また明日。……絶対に、会いに行く」


ハルは強く答えた。

それが叶わぬ約束だと、心のどこかで分かっていても。


アパートに帰り、ハルは震える手で机に向かった。

今日という一日の全てを、1文字も漏らさずに書き留めるために。

彼女の笑顔、沈丁花の香り、手の温もり。

「僕は彼女を愛している」

そう書こうとして、ペンが止まった。

記憶のない自分に、この感情を「愛」と呼ぶ資格があるのだろうか。


結局、彼はこう記した。

『明日、目覚めた僕へ。

お前は彼女を忘れているだろう。だが、彼女の瞳を見てほしい。

そこには、お前が失くした全ての時間が、宝石のように閉じ込められているから』


時計の針が、午前0時を指そうとしていた。

ハルは激しい睡魔に抗いながら、ベッドに潜り込む。

意識が遠のく中、最後に脳裏をよぎったのは、ファインダー越しに見たアキの、あの泣き出しそうな笑顔だった。


(……忘れたくない)


その願いは、深い闇の底へと吸い込まれていった。

そして、世界は一度、完璧な静寂に包まれる。


翌朝、午前05:30。

無機質なアラームが鳴り響いた。

瀬戸ハルは、真っ白な頭で目を覚ます。

ここはどこだ。自分は誰だ。

彼は、隣で冷たくなっている一冊のノートに、救いを求めるように手を伸ばした。

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