次、止まります
私、桐谷紗季は通学路から見える、とあるトンネルが嫌いだった。
別に作る時に事故があったとか、心霊スポットの噂があるとか、そんな話は聞かない。
ただ、子どもの頃から——暗いトンネル内を見ると、恐ろしい怪物がぽっかりと口を開けて、獲物が飛び込んでくるのを待っているかのように感じていた。
きっかけは、何てことない出来事だった。
小さい頃、我が儘を言い手に負えないくらい泣き叫んでいた私へ、母が言った一言。
『あのトンネルは、実はこわ~い怪獣のおくちなんだよ~?』
信号待ちで停車している車内から、幼い私はトンネルを見た。
その時――私はとても嫌な感覚を覚えた。
何故かは知らないし、理由を聞かれても私にも分からない。
でも、高校生になった今でも、あそこを通るときだけ……心臓がひとつ余分に打つ。
「嫌な場所」って、理屈じゃなく体が勝手に覚えてしまうものだから。
――――――――――――――――――――
「はぁ……遅くなっちゃった」
今はもうすっかり寒くなった冬の夕方。
空気は刺すように冷たく、吐く息は白く濁る。
委員会の仕事が少し長引いて、校門を出たのは16時半近くだった。
「さむ……。最近暗くなるの早すぎ……」
マフラーを顎まで上げながら、スマホで予定表を開く。
明日が期限の課題。夕方からはバイトだ。
(帰ったら速攻でやるしかないな〜……)
完全に液晶画面へ意識を集中させたまま、いつものバス停へ向かう。
……委員会でのイライラをかき消す兼、暇つぶしで早々にイヤホンで耳に栓をした。
(男子ってホント、馬鹿ばっか……)
流れ始めた流行りのポップスの音量をぐんと上げ、思考に雑音が入らないようにする。
それでも乱れる思考に、動画再生アプリを開いてブックマークを付けておいた動画を再生した。
――その僅か数十秒後だった。
間がいいのか悪いのか、ヘッドライトの光が地面を大きく照らしながらバスが近付いてきた。
いつもより早い気もしたが、この寒い中待たされるよりは良いと紗季は顔を上げず、視線をスマホに向けたままバスへと乗り込んだ。
流れるようにICカード乗車券を端末へ『ピッ』とかざし、僅かに視線をスマホから車内へ走らせる。
夕方のこの時間にしては空いている。
適当に空いている席に座り、視線を画面の動画へと戻した。
(何だかんだ、今日はツイてるかも)
そう思った。
でも、それが間違いだった。
――――――――――――――――――――
バスはまもなく滑るように発車した。
ほどよい揺れと一定のエンジン音。
お尻に伝わる振動がどこか心地よい。
時々、画面の隙間から外を見る。
陽はもう落ち、街灯や立ち並ぶ店の温かな光が近付いては離れていく。
途中でバスは停留所で止まる事もなく、実にスムーズに走行を続けていた。
――だからだろうか。
バスが普段と違う所で左ハンドルを切った事に、紗季は遅れて気付いた。
「……え?」
バスは、まっすぐ進むはずの大通りから外れて、細い山道へと入っていく。
(違う。道……違うよね?)
思わず紗季は周囲を見渡す。が、誰も気に留めていない。
イヤホンをした学生。
買い物帰りの主婦。
作業着の男。
年配の女性。
みんな当たり前のように平然としている。
(どうしよう……ここ、いつもは真っ直ぐだよね?)
ぐんとバスが坂道に差し掛かり、慣性が紗季の身体を背もたれへと押し付けていく。
異変を覚え、紗季は慌てて立ち上がろうとするも、悪路の揺れで思うようにいかない。
街灯はところどころ点いておらず、道は狭く曲がりくねっている。
この道は……あのトンネルへ続いてる道だ――。
『次は、谺。縺ッ縲√@縺九?縺ュ縺九>縺ゥ縺』
車内の電子案内板が小さく点滅し、機械特有の乾いたノイズ音が鳴った。
文字が崩れ、見慣れた停留所名が化けて表示される。
そのすぐ下に現れた時刻表示が。
16:44
砂嵐のようなノイズ。
一瞬だけ光が暗くなり、再び点灯したとき。
4:44
「……は!?」
……おかしい。絶対におかしい!
胸の奥が、すっと冷たくなる。
(……降りなきゃ!)
そう思った瞬間、紗季は迷わず降車ボタンへと手を伸ばした。
指先があと数センチでボタンに触れる――その瞬間。
冷たいものが、手首を掴んだ。
骨のように細い指。
ゴム毬のような乾いた皮膚。
氷のような冷たい温度。
思わず息が詰まる。
いつの間にか紗季のすぐ横へ立っていた老婆が、無表情のまま紗季の手首を握りしめていた。
瞳孔の開いた焦点の合わぬ濁った目。
能面のように横一文字に結ばれた口元。
年齢差から簡単に振りほどけそうだと思えど、振り払おうとしても老婆は手首をしっかりと掴んで離さない。
「や、やめて……っ」
漏れる声は震えた。
老婆の手はさらに強く締めつける。
……冷たい。
皮膚の上から血の温度が吸われていくような感覚。
「離してッ!!」
紗季は力任せに腕を振り回し、手摺りへと老婆の腕をぶつけて振り払った。
重く鈍い音。
か細い老婆の腕の骨は、通常ならばへし折れ絹を裂くような悲鳴を上げるだろう。
しかし、老婆は何も言わず、ただ虚ろを眺めたままだ。
紗季はそのまま飛び上がるように立ち上がり、降車ボタンを拳で叩くように押し込んだ。
ピンポーン
甲高い、いつもの音が車内に響く。
『次、止まります』
自動アナウンスは、ほんの数秒遅れて流れた。
――間に合わなかった。
そう理解したのは、フロントガラスの向こう側。
漆黒のアーチが目前に迫った時だった。
出口が見えないぐらい、はるかに長くて、暗い。
そして入口の上に、古びた長針だけの時計が掲げられていた。
――針は「4」だけを指し続けていた。
トンネルの入口。深い闇が口を開けている。
バスはそのまま闇へ吸い込まれていく。
周囲を見渡すと、いつの間にか全ての席が埋まっている。
中へ入った瞬間、空気が変わった。
暖房が入っていたはずの車内では、息を吐くたびに白い輪郭を残す。
ライトはついているのに、光が弱い。
――寒い。
寒さのせいなのか、恐怖のせいなのか、紗季の背筋がぞくりとし、小刻みに震えていた。
次第に、音が消えた。
エンジン音も、タイヤが地面を転がる音も、身体に伝わる振動も全部。
代わりに、自分の呼吸だけが、妙に大きく響く。
怖い。怖い怖い怖い怖い怖い怖い……!!
本能が警鐘を鳴らす。
悲鳴を上げたくても、喉が詰まり、肺が痙攣し声が出ない。
声の代わりに涙だけが溢れてくる。
そんな紗季へ、乗客全員が同時に顔を向けた。
ゆっくりと。
ぎこちなく。
前の席も。
後ろの席も。
通路側も。
窓側も。
理屈じゃない恐怖が、彼女の背骨を駆け上がった。
「いや……いやぁぁっ!?やだ、やだぁ!!!」
ようやく喉を震わせた悲鳴。
それを聞いても、彼等は笑みを深めるだけであった。
唇を裂くように。
歯茎が見えるほど。
不自然で、引き攣った笑み。
——―白い歯。
——―白い歯。
——―白い歯。
誰一人、まばたきをしない。
ただただ歯を見せて、紗季を見つめて嗤っている
紗季は恐怖で呼吸が詰まり、激しく咳き込んでしまう。
逃げ場なんて、どこにもない。
――カリ
――カリッ……カリ……
何かを噛む音がした。
前の老人の口元がゆっくりと開き、白い歯が動く。
何かを——
噛み砕くように。
カリ。
カリ。
カリ。
嗤いながら。
ナニカを噛みながら。
こっちを見る。
耳を塞いでも、脳へ直接送り込まれるように、ナニカを噛む音が響く。
――まだ、次の停留所には辿り着かない。




