第9話 境界
その場所は、
地図にはなかった。
特別な入口が、
あるわけでもない。
ただ、
人が通らなくなった
細い路地の奥。
看板の文字が、
途中で剥がれ、
意味を失っている。
——境界。
そう呼ぶ以外、
なかった。
俺は、
足を止める。
空気が、
違う。
湿っているわけでも、
——ここから先は、
同じ呼吸じゃない。
「来たね」
背後から、
声がした。
あの男だ。
今日は、
顔が、
ほとんど無い。
目も、
表情も、
ただの配置みたいに、
そこにある。
「……ここが」
言いかけて、
言葉を止める。
男が、
続きを補った。
「境界」
「君たちが、
普段、
気にしない場所」
「でも、
確かに存在してる」
俺は、
前を見た。
路地の先は、
闇じゃない。
ぼやけている。
焦点が、
合わない。
写真を、
拡大しすぎたときの、
あの感じ。
「……ここを越えたら」
「戻れない?」
男は、
少し考えた。
「戻れない、
わけじゃない」
「ただ」
一拍。
冷たいわけでもない。
「同じ意味では
戻れない」
胸の奥が、
静かに、
沈んだ。
「長谷は、
ここを?」
男は、
首を振る。
「彼は、
ここまで来なかった」
「来られなかった、
とも言える」
俺は、
路地に、
一歩、
足を踏み出した。
音が、
変わる。
靴底が、
地面を叩く感触が、
少し、
遅れて伝わる。
——現実が、
ワンクッション、
挟まる。
視界の端で、
何かが、
動いた。
人の形。
でも、
顔がない。
いや。
最初から、
必要とされていない。
「……あれは?」
男は、
淡々と答える。
「境界を、
越えきれなかった人たち」
「外されたけど、
完全には、
消えていない」
胸が、
少しだけ、
痛んだ。
——長谷。
名前を、
飲み込む。
「君は、
どうする?」
男が、
聞いた。
「見るか」
「戻るか」
俺は、
答えなかった。
代わりに、
もう一歩、
進む。
境界の内側は、
静かだった。
音が、
遠い。
時間が、
伸びている。
それなのに、
意識だけは、
異様に、
冴えている。
——ここは、
選ばれる場所だ。
選ぶ場所でも、
ある。
男が、
言った。
「勘違いするな」
「ここに来たからといって、
君が、
特別になるわけじゃない」
「ただ」
「逃げられなくなる」
俺は、
息を吸う。
肺が、
少し、
痛い。
でも、
はっきりしていた。
「……それでいい」
そう答えた瞬間、
境界が、
わずかに、
揺れた。
道が、
一本、
奥へ、
伸びる。
誰も、
立っていない道。
でも、
確かに、
続いている。
俺は、
振り返らなかった。
——振り返る意味が、
もう、
無いと分かっていた。
境界を越えたのは、
足じゃない。
選択だった。




