第4話 欠け始める
講義室は、
いつも通りだった。
プロジェクターの音。
低いざわめき。
ノートを取る音。
——何も、変わっていない。
はずなのに。
俺は、
前から三列目の女生徒に、
ふと、
目を留めた。
黒髪。
肩までの長さ。
ノートに、
几帳面な字。
横顔が、
よく見える位置。
……おかしい。
メガネ。
短髪。
頬骨が、
少し目立つ。
大丈夫。
顔が、
ちゃんとある。
……いや。
次の瞬間、
目が、ない。
正確には、
空洞じゃない。
そこに
「何かがある」
という感覚だけが、
すっぽり、
抜け落ちている。
最初から、
重要じゃなかったみたいに。
「……春樹?」
横から、
声がした。
長谷だ。
「どうした?
顔、青いぞ」
俺は、
ゆっくりと、
長谷を見る。
——ある。
ちゃんと、
ある。
目。
鼻。
口。
細かい表情まで、
異様なほど、
はっきり見える。
「……長谷」
「ん?」
「お前さ……」
言いかけて、
やめた。
目は、
そこにある。
ちゃんと、
見えている。
それなのに、
焦点が、
合わない。
(……疲れてるだけだ)
そう思って、
瞬きをする。
もう一度、
見る。
——今度は、
口元が、
曖昧だった。
輪郭は、ある。
でも、
唇の形が、
うまく、思い出せない。
見えているはずなのに、
記憶に残らない。
「……っ」
小さく、
息を呑んだ。
視線を逸らして、
別の学生を見る。
メガネ。
短髪。
頬骨が、
少し目立つ。
大丈夫。
顔が、
ちゃんとある。
……いや。
次の瞬間、
目が、ない。
正確には、
空洞じゃない。
そこに
「何かがある」
という感覚だけが、
すっぽり、
抜け落ちている。
最初から、
重要じゃなかったみたいに。
「……春樹?」
横から、
声がした。
長谷だ。
「どうした?
顔、青いぞ」
俺は、
ゆっくりと、
長谷を見る。
——ある。
ちゃんと、
ある。
目。
鼻。
口。
細かい表情まで、
異様なほど、
はっきり見える。
「……長谷」
「ん?」
「お前さ……」
言いかけて、
やめた。
聞けるわけがない。
——他人の顔が、
欠けて見える、
なんて。
「……いや、
何でもない」
長谷は、
訝しそうにしたが、
それ以上、
踏み込んでこなかった。
助かった、
と思った。
そのとき。
教壇の前に立つ教授が、
こちらを見た。
目が、合う。
……はずだった。
でも。
教授の顔は、
最初から、
完成していなかった。
眉から上が、
ぼやけている。
表情が、
存在しない。
声だけが、
講義室に響く。
「——では、
この定義について……」
俺は、
ノートを取るふりをして、
必死に、
目を伏せた。
——見なければいい。
見なければ、
まだ、
こちら側でいられる。
そう思った瞬間、
背中に、
ぞくりと、
冷たい感触が走った。
——見られている。
顔じゃない。
選別する視線。
その言葉が、
唐突に、
頭に浮かんだ。
俺は、
他人の顔を
失っているんじゃない。
見せてもらえなく
なっているだけだ。
そして。
——長谷は、
まだ、
見せてもらえている。
その事実が、
なぜか、
胸を締めつけた。
俺は、
もう一度だけ、
講義室を見回した。
欠けている顔。
曖昧な顔。
最初から、
完成していない顔。
——世界は、
静かに、
選び始めている。
そう、
確信してしまった。
もう、
戻れない。




