第10話 代償
境界の内側は、
思ったより、
普通だった。
闇でも、
異界でもない。
路地は、
続いている。
ただ、
音が、
少しだけ、
遠い。
靴音が、
地面に触れる感触が、
一拍、
遅れて返ってくる。
——世界が、
ワンクッション、
置いている。
「違和感は、
すぐ慣れる」
あの男が、
前を歩きながら言った。
「人は、
順応する生き物だからね」
俺は、
答えなかった。
代わりに、
周囲を見る。
人が、
いる。
……いや。
数が、
…少ない。
その何人かが、
ここには、
いない。
「……減ってる」
思わず、
呟いた。
男は、
足を止めない。
「そうだよ」
「君が、
見られる数は、
有限だ」
胸の奥が、
静かに、
軋んだ。
「……選んでない」
境界の外で見ていた
“欠けた顔”の人たち。
「でも、
越えた」
男は、
振り返る。
今日は、
表情が、
ほとんど無い。
「選択には、
必ず、
代償がある」
「それが、
世界の、
一番公平なところだ」
俺は、
一人の女性を見た。
顔は、
ある。
でも、
名前が、
浮かばない。
近くにいたはずの
男性の姿が、
次の瞬間、
消えている。
——見えない。
いや。
見られない。
「……長谷は」
名前を、
出してしまった。
男は、
少しだけ、
言葉を選ぶ。
「彼は、
君の代償じゃない」
「彼は、
君の選択の、
外側にいる」
それが、
救いなのか、
断絶なのか、
分からなかった。
境界の奥へ、
進む。
景色は、
変わらない。
なのに、
世界が、
軽くなっていく。
——人が、
削られていく。
「……俺は」
声が、
かすれた。
「これから、
どうなる」
男は、
淡々と答える。
「君は、
より多くを、
見られなくなる」
「その代わり」
一拍。
「見えるものは、本物になる」
足が、
止まった。
それは、
祝福みたいで、
呪いだった。
「……戻りたいと、
思ったら?」
男は、
首を振る。
「戻る場所は、
もう、
同じ意味じゃない」
「君は、
覚えてしまった」
——境界の、
重さを。
俺は、
息を吸う。
肺が、
少し、
痛い。
でも、
分かっていた。
ここまで来て、
失いたくなかったのは、
“顔”じゃない。
——選んだという事実だ。
俺は、
前を見る。
境界の奥に、
道が、
続いている。
誰も、
案内していない道。
それでも、
確かに、
進める。
男が、
最後に言った。
「君は、
もう、
戻らない」
「でも、
進む理由は、
失っていない」
俺は、
一歩、
踏み出した。
——失ったものを、
数えないために。
——選んだことを、
否定しないために。
これが、代償だとしても。
第1部 完




