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第1話 拳のあと

——野田春樹。

大学二年生。

上京してから、

胸の奥に澱のように溜まっていたものを、

俺は、たった今——

拳で吐き出した。

 

拳が、じんと熱を持っている。

痛みは、

少し遅れてやってきた。

 

それが自分のものなのか、

相手のものなのか、

よく分からない。

 

夜の路地は、

思ったより静かだった。

人の気配はなく、

アスファルトに

街灯の光だけが落ちている。

 

足元に、

影がある。

 

二つ、

重なっている。

 

一つは、俺のもの。

もう一つは——

うずくまって、

動かない。

 

やってしまった、

という感覚はなかった。

 

代わりに、

ようやく何かが終わった、

という奇妙な静けさだけがあった。

 

——上京して一年。

 

満員電車。

狭い講義室。

名前を呼ばれることもなく、

誰の記憶にも残らない日々。

 

「無難」であることだけが、

求められていた。

 

だから、

壊した。

 

理由は、

それだけだった。

 

背後で、

足音がした。

 

「……おい」

 

振り返ろうとして、

なぜか、

一瞬ためらった。

 

振り返ってはいけない気がした。

理由は、分からない。

 

「大丈夫か?」

 

街灯の下に、

スーツ姿の男が立っている。

 

「あ、……はい」

 

反射的に答えた。

声は、

思ったより落ち着いていた。

 

男の視線が、

俺の拳から、

足元の影へと移る。

 

「……喧嘩?」

 

「……たぶん」

 

その言葉が、

やけに軽く響いた。

 

男は携帯を取り出し、

小さくため息をつく。

 

「警察、呼ぶぞ」

 

その瞬間、

胸の奥が、

すっと冷えた。

 

逃げなきゃ。

そう思った。

 

でも、

足が動かない。

 

代わりに、

奇妙な違和感が、

意識を掠めた。

 

男の視線が、

俺の“顔”に、

うまく定まっていない。

 

目が合っているはずなのに、

合っていない。

 

まるで、

そこに焦点がないみたいに。

 

「……?」

 

男が、

首を傾げる。

 

俺は、

無意識に、

ガラスを見た。

 

古い店のショーウィンドウ。

ひび割れたガラスに、

人影が映っている。

 

——体は、俺だ。

 

でも。

 

そこにあるはずの“顔”だけが、

どうしても、

認識できなかった。

 

輪郭が、ない。

 

目も、鼻も、口も、

ただ——

空白だった。

 

「……なんだ、これ」

 

声が、

震えた。

 

次の瞬間、

視界が、

すっと暗転した。

 

最後に思ったのは、

殴った感触でも、

恐怖でもなく。

 

「だから、

見えなかったのか」

 

という、

妙に静かな納得だった。

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