第69話 マシラ脱走
私がエルに会えたのはその日の夜になってからだった。
私たちはキルスティンへと伸びる街道に立つ一軒の宿を貸し切り、一番上等の部屋をエルが使っていた。
エルの部屋の前に立ち、深呼吸を一つ。
コンコン……
ドアをノックする音が廊下に響く。中からの返事は、エルのモノではなく侍女が答えた。
「ヴァレリーです。入ります」
そう告げ、応答を待たず中に入る。
そこは今までマシラとの旅で利用した狭く窮屈で汚い部屋とは違い、広々として綺麗な部屋だった。その中の大きなベッドに一人、エルがぽつんと座っていた。
中を照らすのは月明りだけで彼女の表情を読むのは難しい。しかし、エルがどのような顔をしているかなんて分かりきったことだった。
私はエルから少し離れた位置に片膝を床に付き顔を伏せる。
胸が苦しくて、なにも言葉が出ない。
「ヴィー……」
風の音にかき消されそうなほど小さな声でエルが私を呼んだ。
「は、はい!!」
いまだ私をヴィーと呼んでくれる。そのことが嬉しく、必要以上に大きな声で答えてしまった。
「ねぇ、ここ大きな部屋でしょ?」
エルも私と似たようなことを思っていたようだ。ぽつり、ぽつりと言葉を続ける。
「ベッドだって、こんなに広いの……」
「ええ、そうですね」
寂しげな声色に私は在り来たりな相槌しか打てない。
「あぁ……、ヴィーと枕を共にした夜が遠くに感じるわ。誰も使わない文机、マシラのあの不器用な文字……変な笑い方、全然面白くない冗談も……ずっとずっと遠くに感じるの……」
淡々とエルは告げる。その中にどれほどの悲しみが籠められているか私にも分かる。
「私は……あの楽しさを、喜びを知りたくなかった……。こうなるのなら……ずっとずっと一人でいた方が……」
ああ、なんと残酷なことか。エルは涙の一つもこぼさないが泣いているのだ。
旅の楽しさを知り、人を好きになり、今まで叶うことのなかった幸せを一瞬でもつかんでしまったのだから。
そんなことはない。と伝えたかったが、それは嘘だ。
だって、私の胸の中にもエルと同じ思いがあるのだから。
今すぐ、エルを抱きしめてあげたかった。抱き締めて、あの馬鹿の悪口を一晩中言い合っていたかった。
しかし、エルのそばには公爵様から寄越された侍女がずっとこちらを見張るように見つめていた。
「私……私は……」
言葉の出ない私の元へ、エルの足音が近づく。
近くで見たエルの顔には涙の跡が幾筋も走り、目は赤く充血していた。
「エ……」
『エル』と名を呼ぼうとした時、サイの忠告が頭をよぎる。侍女の冷たい視線が私を突き刺す。
「レオノーラ……様」
そう呼ばれた瞬間、エルの大きな目から一筋の涙が零れ落ちた。
私は答えを間違えたのだ。それも取り返しのつかない間違いを……
「ヴァレリー、もう帰ってください」
エルの口から冷たく突き放すような言葉が発せられた。
なぜ、私はエルと呼んであげられなかったのか……わかっている。それは、私の虚栄心。心の弱さだ。
後悔に沈む私に侍女が部屋から出ていくように催促をする。
どこをどうやって、部屋を出たのか分からないが私は気付けば廊下を一人佇んでいた。
頭の中をある思いが巡る。
アイツなら……あの男なら、きっと……
マシラなら、なにも気にすることなく、何にも縛られる事なくエルの手を取り、名を呼んだはずだ。
マシラなら、いつもの軽口でエルを笑わせてやれるはずだ。
マシラなら、エルを泣かせたとしても、彼女にそれ以上の幸せを与えたはずなのだ。
そう思うと、無性にマシラの顔を見たくなった。
エルは想い人であるマシラに会えないというのに……、と言う後ろめたさを感じつつも、足は自然とマシラのいる場所に向かっていた。
マシラが宿の庭先の木に縛られているのは、報告を受け知っていた。
私は、たぶん聞いてほしかったのだ。エルを傷つけてしまったことを。そして、それをマシラに「下らねぇ」と笑い飛ばして欲しかったのだと思う。
しかし、庭先には先客がいた。
マシラとサイが何やら会話をしているのだ。
ダメなことだと分かっていたが、二人の会話を宿の物陰から盗み聞きしてしまった。
「なぁ、お前は、もし、ヴィーが俺に犯されていたらどうした?ヴィーを嫌いになったか?」
マシラの質問に私の心臓がドキリと跳ねる。サイは、サイはどう答えてくれるのだろうか。
「…………」
彼の答えは沈黙。
私はショックだった。そんな事関係ないと、なぜ答えてくれない?
気が付けば私はその場から飛び抱いていた。
「な、なぜ何も言ってくれないんだ、サイ?」
私が現れたことにサイは動揺を隠せない。
「こ、これは、ちがう!ちがうんだ。もちろん、何があっても気持ちが変わることなど……」
やめてくれ!聞きたくない。サイの言葉に耳をふさぎたくなる。しかし、サイが私の肩を掴み、それをさせてはくれない。
「ケケケケケケケ!!!愉快だ、ああ実に愉快だねぇ!!」
そんな時、あの人を馬鹿にしたような笑い声が耳に入る。私は、その笑い声に慣れているが、サイは違った。
私の肩を揺さぶる手を離し、いまだに笑い続けるマシラに詰め寄って行ってしまった。
「この野郎っ!!」
「おーいおい、八つ当たりはやめてくれよ。だいたい、あんたおかしいぜ?お前がヴィーを好いてるのは分かったが、気にするのはそこじゃねえだろ?まずは、エルの身を心配するのが騎士様ってもんじゃねえのかねぇ??
ケケケケ。やっぱり、惚れた女は特別か?自分はヴィーに弁えろなんて言うくせにな!!ちっちゃなイチモツぶら下げてる男はこれだから困るぜ!!」
明らかにマシラはサイを挑発している。
「やめるんだ、マシラ!!」
「うるせえ!!ヴィーは黙ってろ!俺は、このぼくちゃんと話をしてんだよ!!
なぁ!!てめぇは、惚れた女が犯されたかどうか心配するより、無事でよかったと抱きしめてやりゃ、良いんじゃねえのか?もし犯されちまったんなら、大丈夫だとにっこり微笑んでやればいいんじゃねえのか?
それができねぇならお前は騎士失格!いいや、人間失格だね!!!
お?悔しいか!?悔しいよなぁ??ケケケ!ちんけな盗賊ごときに説教なんざされてようケケケケ!!」
マシラの言葉に少しだけ胸がすく思いがした。
しかし、サイにはその言葉が鋭いナイフのように心に突き刺さったようだった。サイは縛られ身動きの取れないマシラの襟首を掴んで顔を引き寄せる。あのいつでも柔らかな表情のサイとは思えない鬼のような形相で、マシラと顔を突き合わす。
「お前に、お前に何が分かる!!」
「ガキじゃねえんだ。自分の苦労を人に分かってもらおうとすんじゃねぇ!!」
言い終わるやいなや目の前で怒鳴り声をあげるサイの顔面に一発、マシラが頭突きを見舞った。
「あぐっ!!」
サイの整った鼻から一筋の血が流れる。
「ケケケ。鼻血が垂れても男前だねぇ」
心底楽しそうにマシラは笑う。
サイは自分の鼻から流れる血を拭うと、ついに腰の剣に手を掛けた。
疾風迅雷の異名の通り目にも止まらぬ抜剣で、いつの間にか上段に剣を構えていた。
「サイ、やめろーーー!!」
私の制止など聞こえぬふりで縛り付けられるマシラに剣を振るった。
間違いなくマシラが死んでしまうと思い私は不覚にも目を閉じてしまった。
何も映さぬ瞳の中、マシラの声が鼓膜を揺らす。
「遁逃だ」
マシラのスキルが発動した瞬間から、サイは剣を振り下ろす姿勢のまま固まって動けなくなっていた。
いつの間にかマシラは自分の手を縛る縄から抜け出し、自由の身となっていた。
私は、マシラのスキル範囲外にいるにもかかわらず、どうすればいいのか分からなくて、その場で立ちすくむことしかできなかった。
そんな私にマシラがヒラヒラと手を振る。おそらく縄抜けの時に自ら折ったのだろう、親指がグニャグニャと不自然に揺れていたのが目に入る。
「じゃあな、あばよ!!」
そのまま遠くに走り去って行くマシラの背中を見つめながら、私はこの先どうすれば良いのかと必死に考えていた。




