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黒い糸

作者: 矢水びん
掲載日:2025/09/28

 ビルの下は、警察と野次馬でごった返していた。


「君、馬鹿な真似はやめなさい」


 スピーカーを持った警察官が叫んでいる。


 野次馬たちはそろって上を見上げている。


 ビルの屋上。張り巡らされた金網の向こう側。そこに裸足の女が一人、立っていた。


「来ないで」


 ヒステリックに女は叫んだ。


「冷静になって。僕の話を聞いて」


 その女に、金網越しに語りかけている男がいた。


「止めないでよ。あたしはもう死ぬって決めたんだから」


「まず僕の話を聞いてくれ」


 女は鼻で笑った。


「そうやってなんか良い話でもして説得しようって魂胆でしょ。分かってんだから」


「そうじゃない」


「そうに決まってるじゃない。大体あなた誰よ。あたしに関係ないじゃない」


 男は一瞬言葉に詰まった。


「関係ないといえばない。でも、関係あるといえばあるんだ」


「はぁ? 何言ってんのよ。うっとおしいのよ。早くどっか行ってよ」


 女はわずかに前に歩み出た。


 下の群集がざわつき、警察官が「止めなさい」と叫んだ。


「無駄だよ」


「何がよ」


「君は死なない」


 男は女を見つめて言った。


「なにそれ。説得しようってんならもっとマシなこと言いなさいよ」


「いや、説得じゃない。そもそも僕は、君を説得するために来たんじゃないから」


 女は嘲笑した。


「ばっかじゃないのあんた。ならなんだってあたしの所に来たのよ」


「話を聞いてほしいからだ」


 女はため息をついた。


「あんた、頭おかしいんじゃないの」


「僕は正気だ。おかしなことをしてるのはむしろ君の方じゃないか」


「言ってくれるじゃないの」


 女は笑った。そして後ろに下がると、振り向き、金網にしがみ付いて男の方を見た。


 下から群集の、大量の安堵のため息がした。


「ひよわっちい男」


 女は男の身体を見て言った。


「ほっといてくれ。生まれつきなんだ」


「そんなことより、あんたの目的が知りたいんだけど」


「さっき言ったよ。僕の話を聞いてほしいんだ」


「それだけ?」


「それだけだ」


「聞いた後あたしが自殺するかもしれないのに?」


「それもさっき言った。君は死なない」


「その根拠は何なのよ」


「君は結ばれてないからだ」


「何によ」


「黒い糸に」


「何なのよそれ」


「赤い糸ってあるよね。あれの逆バージョンみたいなものだ。愛の繋がりの逆、殺意の繋がりが、僕には黒い糸として見えるんだ」


 女の表情が、バカにしたように歪んだ。


「あんた、まじのデンパなんじゃないの」


「君にはそう見えるかもしれないが、これは本当なんだ。二人の人間の、それぞれ右手の薬指に結ばれてて、その二人はいつか、どちらかがどちらかを殺すことになる」


 女はため息をついた。


「アホらしいけど一応聞いてあげるわ。で、その黒い糸で結ばれてる二人は、いつ死ぬのよ」


「それは判らない。明日かもしれないし十年後かもしれない。でも間違いなく殺すあるいは殺される」


「と、すると何? あの秋葉の通り魔とかでも、あんたには見えてたってわけ」


 男は頷いた。


「ふぅん……。なかなか面白そうじゃない。小説にでもしてどっかで応募してみたら」


「まだ信じてないようだね」


「当然じゃない。そんなオカルト」


「オカルトじゃない。証拠だってある」


「どんな証拠よ」


「僕の両親だ」


 女の表情が、一瞬で曇った。


「どういうことよ」


「物心つく頃には、既にこの糸が見えるようになってた。他の子も、当然見えてるものだと思ってたから、気にも留めなかったし、気にすることもなかった。両親にその糸が結ばれてても。それから五年ぐらい後だったよ。母が父を包丁で刺し殺したのは。母が父を殺すと、黒い糸は消えた。僕はまさかと思って、それから町内で黒い糸で結ばれてる人たちを観察した。次々に結ばれてる人たちが殺し、殺されていった。かれこれ二十年以上経つけど、例外は一つもなかった。これが証拠だよ」


 女は黙ったままだ。顔は、真剣そのもの。


「じゃあ、自殺する人はどう見えるか――自分から自分へと殺意を向けるからか、黒い糸が、右腕にぐるぐる巻きついてるように見えるんだ。で、君の右腕には、それが見えない」


「……だから、死なないって、言ったのね」


「そうだ」


「でも……でもね、例えそうでも、あたしが、自殺しないようになってるって言っても、もう……もう、イヤんなっちゃったのよ、何もかもが」


 女が涙声になった。


「愛してた男に浮気されて、借金まで作られて。あげくに……検査したら、で、で、デキてるって。そして今日、リストラを……。だから、おろすくらいなら、一緒に死のうって、思って」


「君のお腹からも黒い糸は伸びてない。大丈夫。君の赤ん坊は無事に生まれて、誰かに殺されることなく生きられるよ」


「そんな励まし文句言われたって、あたし……」


「これからの僕の話を聞けば、嫌でも生きようって思うはずだ。何故なら――」




 群集が湧き上がった。女が金網を乗り越えたからだ。


 金網の向こうには、見知らぬ男が一人いる。


 群集は、詳しいことは判らないが、あの男が女を説得し、自殺を思い留まらせたに違いないと察し、盛大な拍手を送った。


 後日、警察は男に表彰状を送ることを決め、男の自宅に電話をしたが、不通になっていた。妙に思った警察官が自宅を訪ねてみると、そこは既に空き家になっていた。男は、とうにどこかへ引っ越してしまっていたのだ。




 その頃、男は新幹線に乗り、北海道を目指していた。


 隣の席には、あの女が座っている。


「あたし、正直、まだ実は、信じ切れてないんだ」


「黒い糸のことを?」


「うん」


「今はそれでいいよ。いずれ分かる時が来るだろうから」


「でも、だって、あんなこと……」


 女は表情を曇らせた。


 窓越しに、遠くに見える都会のビル群を眺めながら、あの時言った男の言葉を思い出してみた。


 ――ある国の方角の空に向かって、大量の黒い糸が伸びてるんだ。今、この街にいる全員から。僕と、君、そして君の赤ん坊を除いて――


 空には一片の雲もない。しかし女には、どうしてか、どこからか暗雲が、徐々に立ち込めているような気がしてならなかった。


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