黒い糸
ビルの下は、警察と野次馬でごった返していた。
「君、馬鹿な真似はやめなさい」
スピーカーを持った警察官が叫んでいる。
野次馬たちはそろって上を見上げている。
ビルの屋上。張り巡らされた金網の向こう側。そこに裸足の女が一人、立っていた。
「来ないで」
ヒステリックに女は叫んだ。
「冷静になって。僕の話を聞いて」
その女に、金網越しに語りかけている男がいた。
「止めないでよ。あたしはもう死ぬって決めたんだから」
「まず僕の話を聞いてくれ」
女は鼻で笑った。
「そうやってなんか良い話でもして説得しようって魂胆でしょ。分かってんだから」
「そうじゃない」
「そうに決まってるじゃない。大体あなた誰よ。あたしに関係ないじゃない」
男は一瞬言葉に詰まった。
「関係ないといえばない。でも、関係あるといえばあるんだ」
「はぁ? 何言ってんのよ。うっとおしいのよ。早くどっか行ってよ」
女はわずかに前に歩み出た。
下の群集がざわつき、警察官が「止めなさい」と叫んだ。
「無駄だよ」
「何がよ」
「君は死なない」
男は女を見つめて言った。
「なにそれ。説得しようってんならもっとマシなこと言いなさいよ」
「いや、説得じゃない。そもそも僕は、君を説得するために来たんじゃないから」
女は嘲笑した。
「ばっかじゃないのあんた。ならなんだってあたしの所に来たのよ」
「話を聞いてほしいからだ」
女はため息をついた。
「あんた、頭おかしいんじゃないの」
「僕は正気だ。おかしなことをしてるのはむしろ君の方じゃないか」
「言ってくれるじゃないの」
女は笑った。そして後ろに下がると、振り向き、金網にしがみ付いて男の方を見た。
下から群集の、大量の安堵のため息がした。
「ひよわっちい男」
女は男の身体を見て言った。
「ほっといてくれ。生まれつきなんだ」
「そんなことより、あんたの目的が知りたいんだけど」
「さっき言ったよ。僕の話を聞いてほしいんだ」
「それだけ?」
「それだけだ」
「聞いた後あたしが自殺するかもしれないのに?」
「それもさっき言った。君は死なない」
「その根拠は何なのよ」
「君は結ばれてないからだ」
「何によ」
「黒い糸に」
「何なのよそれ」
「赤い糸ってあるよね。あれの逆バージョンみたいなものだ。愛の繋がりの逆、殺意の繋がりが、僕には黒い糸として見えるんだ」
女の表情が、バカにしたように歪んだ。
「あんた、まじのデンパなんじゃないの」
「君にはそう見えるかもしれないが、これは本当なんだ。二人の人間の、それぞれ右手の薬指に結ばれてて、その二人はいつか、どちらかがどちらかを殺すことになる」
女はため息をついた。
「アホらしいけど一応聞いてあげるわ。で、その黒い糸で結ばれてる二人は、いつ死ぬのよ」
「それは判らない。明日かもしれないし十年後かもしれない。でも間違いなく殺すあるいは殺される」
「と、すると何? あの秋葉の通り魔とかでも、あんたには見えてたってわけ」
男は頷いた。
「ふぅん……。なかなか面白そうじゃない。小説にでもしてどっかで応募してみたら」
「まだ信じてないようだね」
「当然じゃない。そんなオカルト」
「オカルトじゃない。証拠だってある」
「どんな証拠よ」
「僕の両親だ」
女の表情が、一瞬で曇った。
「どういうことよ」
「物心つく頃には、既にこの糸が見えるようになってた。他の子も、当然見えてるものだと思ってたから、気にも留めなかったし、気にすることもなかった。両親にその糸が結ばれてても。それから五年ぐらい後だったよ。母が父を包丁で刺し殺したのは。母が父を殺すと、黒い糸は消えた。僕はまさかと思って、それから町内で黒い糸で結ばれてる人たちを観察した。次々に結ばれてる人たちが殺し、殺されていった。かれこれ二十年以上経つけど、例外は一つもなかった。これが証拠だよ」
女は黙ったままだ。顔は、真剣そのもの。
「じゃあ、自殺する人はどう見えるか――自分から自分へと殺意を向けるからか、黒い糸が、右腕にぐるぐる巻きついてるように見えるんだ。で、君の右腕には、それが見えない」
「……だから、死なないって、言ったのね」
「そうだ」
「でも……でもね、例えそうでも、あたしが、自殺しないようになってるって言っても、もう……もう、イヤんなっちゃったのよ、何もかもが」
女が涙声になった。
「愛してた男に浮気されて、借金まで作られて。あげくに……検査したら、で、で、デキてるって。そして今日、リストラを……。だから、おろすくらいなら、一緒に死のうって、思って」
「君のお腹からも黒い糸は伸びてない。大丈夫。君の赤ん坊は無事に生まれて、誰かに殺されることなく生きられるよ」
「そんな励まし文句言われたって、あたし……」
「これからの僕の話を聞けば、嫌でも生きようって思うはずだ。何故なら――」
群集が湧き上がった。女が金網を乗り越えたからだ。
金網の向こうには、見知らぬ男が一人いる。
群集は、詳しいことは判らないが、あの男が女を説得し、自殺を思い留まらせたに違いないと察し、盛大な拍手を送った。
後日、警察は男に表彰状を送ることを決め、男の自宅に電話をしたが、不通になっていた。妙に思った警察官が自宅を訪ねてみると、そこは既に空き家になっていた。男は、とうにどこかへ引っ越してしまっていたのだ。
その頃、男は新幹線に乗り、北海道を目指していた。
隣の席には、あの女が座っている。
「あたし、正直、まだ実は、信じ切れてないんだ」
「黒い糸のことを?」
「うん」
「今はそれでいいよ。いずれ分かる時が来るだろうから」
「でも、だって、あんなこと……」
女は表情を曇らせた。
窓越しに、遠くに見える都会のビル群を眺めながら、あの時言った男の言葉を思い出してみた。
――ある国の方角の空に向かって、大量の黒い糸が伸びてるんだ。今、この街にいる全員から。僕と、君、そして君の赤ん坊を除いて――
空には一片の雲もない。しかし女には、どうしてか、どこからか暗雲が、徐々に立ち込めているような気がしてならなかった。
了




