第7話 荒野に響く声
運転など、できるはずもなかった。
アクセルを踏み込めば獣のように暴れ、ハンドルを切れば巨体が悲鳴を上げる。俺は何度も岩に車体を擦りつけ、乗り上げそうになりながら、それでも必死にペダルを踏み続けた。
「しっかりして、レオンさん……! 目を開けて!」
バックミラーに映るレオンの顔は、どんどん色を失っていく。荒い呼吸の合間に、苦痛に満ちた呻き声が漏れる。その声が聞こえるたびに、俺の心臓は氷の刃で抉られるようだった。
「ごめん……なさい……俺が、外に出たりしたから……っ」
罪悪感が、後悔の津波となって押し寄せる。
「俺のせいで……あなたが……!」
「……違う……」
か細いが、はっきりとした声が後部座席から聞こえた。
ハッとしてミラーを見ると、レオンが薄っすらと目を開け、俺の姿を捉えていた。その灰色の瞳には、まだ意志の光が宿っている。
「……お前のせいじゃ、ない……。奴らは、いずれにせよ……俺たちを襲った……」
「でも!」
「……謝るな……。騎士は、守るのが……仕事だ……。むしろ、名誉……だ……」
途切れ途切れの言葉。だが、それは紛れもなく、彼らしい不器用な慰めだった。彼はこんな時でさえ、俺を気遣っている。その事実が、たまらなく悔しくて、そしてどうしようもなく愛おしかった。
「そんなの、嫌だ!」
俺は叫んでいた。涙で滲む前方の闇を睨みつけながら。
「騎士とか、名誉とか、そんなもののために死なないでよ! 俺は、あなたに生きててほしい! ただ、それだけなのに!」
俺の悲痛な叫びに、レオンは微かに目を見開いた。そして、ほんの少しだけ、その血の気の引いた唇に笑みが浮かんだように見えた。
「……アキ……」
初めて、彼が俺の名前を、慈しむような響きで呼んだ気がした。
「……その発信機を……使え……。北の空に、向けて……」
そうだ、発信機。
俺は慌てて、彼から渡された小さな機械を握りしめた。どう使うのかも分からないが、これが最後の希望なのだ。
片手でハンドルを握り、もう片方の手で発信機をフロントガラスに押し付ける。ボタンらしきものを、祈るような気持ちで押した。
カチリ、と小さな音がして、機械の先端から青白い光が放たれる。それは細い一本の光線となって、吸い込まれるように北の夜空へと伸びていった。
本当に、これで助けが来るのだろうか。
見知らぬ「仲間」とやらを、信じていいのだろうか。
不安が胸をよぎる。だが、もう俺には、信じることしか残されていなかった。
「……来た……ようだ……」
レオンが、安堵したような息を漏らした。
彼の視線の先、北の空の地平線に、新たな光点が現れていた。それは、昨夜の追っ手たちとは明らかに違う。もっと大きく、そして力強い光。猛烈な速度でこちらに近づいてくるそれは、やがて巨大な輸送ヘリのシルエットを夜闇に浮かび上がらせた。
「……助かった……」
そう思った瞬間、張り詰めていた糸がぷつりと切れ、全身から力が抜けていく。同時に、それまで感じていなかった疲労と恐怖が一気に身体を襲った。
ヘリは砂塵を巻き上げながら、俺たちの車両のすぐそばに着陸した。ハッチが開き、中から数人の人影が駆け出してくる。
「レオン! 無事か!」
「ひどい出血だ! 急いでメディックを!」
飛び交う怒号。俺はただ、呆然とその光景を見ていた。彼らはレオンと同じような黒い軍服に身を包んでいたが、その雰囲気はどこか違う。もっと自由で、荒々しい。彼らこそが、レオンの言う「仲間」なのだろう。
屈強な男たちが、手際よくレオンを担架に乗せてヘリへと運び込んでいく。一人の、顔に大きな傷跡のある女性が、運転席で呆然としている俺に気づいた。
「おい、あんたがラスト・オメガか?」
低いが、よく通る声だった。俺はこくりと頷くことしかできない。
女性は俺の姿を上から下まで値踏みするように見ると、ふっと鼻で笑った。
「……なるほどな。あいつが命を懸けるわけだ」
その言葉の意味は分からなかった。だが、敵意がないことだけは感じ取れた。
「さあ、あんたも来な。ここはもうじき、ドームのハイエナどもの餌場になる」
女性に腕を引かれ、俺はふらつく足でヘリへと乗り込んだ。
機内は医療機器の電子音と、薬品の匂いで満たされていた。酸素マスクをつけられたレオンの周りで、衛生兵たちが懸命に治療にあたっている。
俺は、その少し離れた場所に膝を抱えて座り込んだ。
何もできない自分が、ひどく無力に感じられた。
ヘリが浮上し、高度を上げていく。
窓の外には、俺たちが命からがら駆け抜けてきた、広大な荒野が広がっていた。朝日が、その地平線を金色に染め始めている。
(俺は、生きることを選んだ)
(いや、違う。レオンに、生きてほしいと願った)
それは、俺の人生で初めて、自分のためではなく、誰かのために抱いた強烈な願いだった。
「死にたい」と願っていた昨日までの俺は、もういない。
けれど、「自分のために生きたい」と思えるほど、俺はまだ強くなかった。
「……しっかりしろよ、朴念仁……」
顔に傷のある女性が、治療を受けているレオンの顔を覗き込みながら、悪態をつくように呟いた。
「お前さんが守り抜いた『希望』様が、泣いてるぜ」
その言葉に、俺は自分の頬がまた涙で濡れていることに気づいた。
ヘリは進む。新しい共同体へ。俺の知らない、新しい世界へ。
俺はただ、隣でかろうじて命を繋いでいる男の手を、固く、固く握りしめていた。
この温もりだけは、絶対に失わないと心に誓いながら。




