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第31話 聞えない悲鳴

 その日を境に、俺たちの理想郷「フロンティア」は、音を立てて死んでいった。

 子供たちの笑い声が消え、広場を駆け回る無邪気な足音も絶えた。代わりに響くのは、レオン直属の防衛隊が、規則正しく通りを巡回する、冷たいブーツの音だけ。仲間たちが交わす視線には、かつての信頼ではなく、互いの思想を探り合うような、痛々しい疑念が宿っていた。


 俺は、医務室という名の、美しい鳥籠に囚われていた。

 窓から見える景色は、まるで色を失った写真のようだった。レオンは、俺の命を守るという大義名分のもと、彼自身の手で、俺が愛した日常のすべてを殺していた。

 皮肉なものだ。俺はドームという物理的な監獄から逃れ、今度は愛という名の、精神的な監獄に囚われている。


 レオンは、以前よりも頻繁に俺の部屋を訪れた。

 その瞳は、ひどく疲弊し、眠れない夜を物語っていた。彼は、自分が正しいと信じようと必死だった。俺の髪を梳き、食事の世話をし、完璧な看病をすることで、自らの罪悪感から目を逸らしている。


「レオンさん」と、俺はある日、尋ねた。

「あなたは今、幸せですか?」


 彼は、俺のスープをかき混ぜる手を、ぴたりと止めた。そして、長い沈黙の後、一度も俺と目を合わせることなく、こう答えた。

「……お前が生きている。それ以上の幸福など、俺にはない」


 その声は、あまりにも誠実で、そしてあまりにも独善的だった。

 彼は、俺の心を殺すことで、俺の命を繋ぎ止めようとしている。


 変化が訪れたのは、嵐の前の静けさのような数日が過ぎた、ある夜のことだった。

 眠りに落ちた俺の意識に、遠くから、か細い声が響いてきた。それは、音ではない。感情の奔流。純粋な、子供たちの恐怖と、悲しみ。


(こわい)

(パパとママはどこ?)

(どうして、僕たちだけこんな場所に?)


 隔離された「保護施設」から、彼らの魂の叫びが、俺のオメガとしての特異体質に共鳴し、直接流れ込んでくるのだ。それは、もはや比喩ではなかった。何十人もの子供たちの絶望が、俺の精神を容赦なく削り取っていく。


 俺は、ベッドの上で身をよじった。頭が割れるように痛い。

(やめてくれ……!)

 心の中で叫ぶが、悲鳴の合唱は止まらない。

 その苦痛の果てで、俺は、一つの真実にたどり着いた。


 俺は、ゆっくりとベッドから降りると、冷たい窓ガラスに額をつけた。遠くに見える、煌々と照明が灯された、あの無機質な施設。

 俺は、ガラスに映る自分の青ざめた顔に向かって、静かに呟いた。


「……愛が、誰かをこんなに傷つけるのなら、それは、もう愛なんかじゃない……」


 俺の涙が、頬を伝う。

 だが、それはもう、絶望の涙ではなかった。

 静かな、怒りの涙だった。


 翌日、サラとジンが、レン先生の助手という名目で、俺の部屋を訪れた。レオンが許可した、唯一の訪問者だった。

 俺は、二人の顔を見るなり、結論から告げた。

「ここから、出してください」


「……正気かい、アキ」と、サラが息を呑む。「外はレオンの部下でいっぱいだ。それに、あんたの身体は……」

「分かっています。でも、もう限界なんだ」


 俺は、二人に昨夜の出来事を話した。子供たちの悲鳴が、今も耳から離れない、と。

 ジンは、顔を覆った。

「そんな……。俺たちのせいで、あの子たちも、アキも、こんなに苦しんで……」

「だから、行かなきゃいけない」


 俺の瞳に宿る光を見て、サラとジンは顔を見合わせた。そこにはもう、迷いの色はなかった。

「……分かった」と、サラが覚悟を決めたように言った。「あんたがそこまで言うなら、あたしたちは、あんたの剣にも盾にもなる。レオンが敵だとしても、ね」

「俺に任せてくれ!」と、ジンが続けた。「今夜、東地区の送電システムに過負荷をかけて、大規模な停電を起こす。その混乱に乗じて、サラさんがあんたを……」


 計画は、すぐに決まった。

 それは、かつての仲間であり、最強の守護者であったレオンを、敵に回すという、あまりにも悲しい作戦だった。


 夜が来た。

 俺は、バッグに何も詰めなかった。ただ、レオンが昔、荒野で俺にくれた、古びたコンパスだけを、強く、強く握りしめた。

 窓の外で、遠くの空が一度だけ、強く明滅した。ジンの合図だ。

 ほぼ同時に、部屋のドアのロックが、静かに解除される。外には、戦闘準備を整えたサラが立っていた。


「行くぞ、アキ」


 俺は、深く頷いた。

 涙を流す時間は、もう終わった。

 愛する人の過ちを正すため。そして、俺自身の運命を、この手で選び取るために。

 俺は、静かに、そして確かな一歩を、闇の中へと踏み出した。

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