第九話 水底の囁き
恵麻は、あの夜から蛇口をひねることができなくなった。
喉が渇けばペットボトルの水を買い、食器は紙皿と割り箸で済ませる。
それでも、バスルームのドアの隙間から、湿った息のような音が聞こえてくる。
「……まただ」
寝室の隅に積まれた段ボールの中から、黒いノートを取り出す。蒼依の部屋から持ち帰った“あれ”だ。
開くと、紙はまだ湿っている。インクが少しずつにじみ、文字の輪郭が波打っていた。
『水はあなたを覚えている』
恵麻はノートを閉じた。しかし、その瞬間、耳の奥に水音が響く。
ポチャン――
まるで、自分のすぐ足元に水溜まりができたような音。
―
数日後、恵麻は夢を見た。
暗い水中を漂いながら、誰かの背中を追いかけている。
髪がふわりと揺れ、白い指先が水の中に消えていく。
呼び止めようとしたが、口を開いた瞬間、肺いっぱいに冷たい水が流れ込んだ。
飛び起きると、ベッドはびしょ濡れだった。
天井から滴っているわけでもない。
シーツの下に触れると、確かに“揺れる”感触があった――まるで、そこに薄い水の層が張られているように。
―
その日、恵麻は決意する。
「もう逃げない。全部、終わらせる」
ノートとスマホを持ち、バスルームのドアを開けた。
中は真っ暗で、湿った空気が押し寄せてくる。
床は乾いている。だが、湯船だけが、黒く深い水で満たされていた。
スマホをかざすと、画面に知らない文章が浮かび上がった。
『ようこそ、語り手』
『水底の声を最後まで書き記せ』
「ふざけないで……!」
そう言ってドアを閉めようとしたが、指先に冷たいものが絡みついた。
見下ろすと、湯船の中から白い手が伸びている。
―
次の瞬間、恵麻は水の中にいた。
上下の感覚がなく、全身を包む冷たさの中で、無数の囁きが耳元で響く。
――読め、書け、語れ。
その声の中に、蒼依のものも混じっていた。
「……次は、あなたが残す番」
視界の端に黒いノートが漂っている。手を伸ばすと、ページが勝手にめくれ、最後の行に文字が浮かび上がった。
『第十話 公開予定:間もなく』
恵麻は息を吸おうとした――が、口に入ってきたのは冷たい水だった。
―
翌朝、恵麻の部屋はもぬけの殻だった。
机の上には黒いノートとスマホが置かれ、スマホの画面には小説投稿サイトが開かれている。
そこにあったのは、新しく追加されたばかりの章のタイトル。
『第九話 水底の囁き』――読者:あなた