第四話 湯船の底から
朝が来た。
それは、ただ空が白けてきただけの“朝”だった。現実感は薄く、頭の中に霞がかかったような感覚が続いていた。由梨は布団の中で目を開けたまま、しばらく身動き一つしなかった。
時計は午前五時を指している。
――寝た覚えはある。でも、寝た気はしない。
身体の芯が冷えていた。布団の中なのに、まるで水の中にでもいるようにじっとりと湿っている。
「……水……?」
手を動かすと、パジャマの袖口が重かった。起き上がって見てみると、布が濡れていた。汗ではなかった。明らかに水。
辺りを見回す。布団のシーツ、床の一部、鞄の下――点々と、水滴の跡があった。
ゆうべ、浴室の鏡に浮かんだ“見たな”の文字。
夢ではない。
現実に、あれは起きた。
だが、それを誰かに伝えられるだろうか? リカに話せば、たぶん笑ってくれる。けれど、それ以上はない。警察に行っても……何もしてくれないだろう。
洗面所に行くと、鏡がまた曇っていた。
何も映っていないことを確かめてから、蒸気を手で拭う。
文字は、なかった。だが。
鏡の端、黒い長髪がほんの一瞬だけ映り込んだ。
「っ、うそっ……!」
振り返っても、誰もいない。
手が震えて、歯ブラシを落とした。
その時。
スマホが震えた。
通知。
『最終話が更新されました。お風呂でお待ちしています』
由梨は即座にスマホを投げた。スマホはベッドに跳ね返り、床に落ちる。画面はついたままだ。
目を背けたいのに、見てしまう。
そこにはもう、アプリのUIすら無くなっていた。
ただ、黒背景に赤文字でこう書かれていた。
『戻ってきて。あなたはまだ終わっていない』
……“戻る”?
一体どこへ?
◆
その日一日、由梨はひたすら浴室を避けて過ごした。
飲み物も取らず、食事もできず、ただソファで膝を抱えて震えていた。
でも、時間は過ぎる。
午後十時。
部屋が静まり返る。
……水音が、また始まった。
浴室のほうから、コツン……コツン……と、誰かが石けんを落とすような、鈍い音。
由梨は思った。
逃げても無駄なんだ。
「だったら……だったら……終わらせてやる」
スマホを手に取り、浴室のドアの前に立つ。
バスタブにお湯を張り、湯気が立ち込める中、服を脱ぎ、ゆっくりと湯船に足を入れた。
湯の温度は、人肌より少し冷たいくらいだった。
スマホの画面が、自然に開く。
『第四話 湯船の底から』
『ようやく、あなたは正しい場所に戻ってきた。では、始めよう』
その瞬間。
湯の底から、手が伸びた。
白く、細く、濡れた腕。冷たい指先が由梨の足首を掴む。
「いやあああああっ!!」
引きずり込まれる。
湯が、ぐるぐると渦を巻く。浴槽は異常な深さへと変貌し、足元が消えた。
水中の中に、何かがいる。数え切れないほどの“顔”――どれも目がない、口がない、けれど、由梨の顔に似ていた。
苦しい。
息が、できない。
バタバタと手足を動かしても、浴槽の縁に届かない。
スマホは水の中でまだ光を放っていた。
画面には、最後の一文が表示されていた。
『ようこそ、底の世界へ。あなたも、わたし』
意識が遠のく――
◆
――次の瞬間、由梨は目を開けた。
……知らない天井だった。
病院の白い天井。
「……気がついた!? よかった、ほんとよかった!!」
声の主はリカだった。
「一日連絡がなくて、心配して鍵開けてもらって……そしたらお風呂で倒れてて!」
「……風呂……?」
由梨の身体はシーツの下にすっぽりと覆われていた。指先はかすかに震えている。
「湯船で気を失ってたんだよ。もう、死んじゃうかと思った」
医師が来て、説明されたのは“のぼせによる意識障害”だった。
だが、由梨の記憶には、白い腕、湯の底、消えた空間、そして“顔のない顔”が、はっきりと残っていた。
◆
退院の日、由梨は浴室の鏡に一礼して、カーテンを新調した。
だが。
新しいスマホを起動したその日。
見覚えのある通知が届いた。