第三話 ドアの向こうに立つもの
アプリが消えたはずなのに、通知は届き続けていた。
『第三話の更新は、あなたの“入浴中”に行われます』
どこかで悪質なドッキリか、ウイルス的なプログラムだろうと疑う気持ちがあったが、それ以上に、胸の奥が重く沈んでいた。
――本当に何かが来る。
それはバカげた妄想ではないという直感。由梨は翌日、会社を休んだ。
「ええっ? 風邪? マジで大丈夫?」「無理しないでね、薬飲んで寝なよー」
リカや他の同期たちから優しいLINEが届くたび、罪悪感が込み上げたが、外に出るのが怖かった。
部屋にいるのに、浴室から気配を感じる。
シャワーの音、水音、なにかを引きずるような鈍い音。
スマホを確認すると、あのアプリはやはり消えていた。なのに、通知だけは届く。
『開いてください。第三話は更新完了です』
無視する。スマホの電源を切る。SIMカードを抜く。ルーターの電源も落とす。
それでも、通知は届いた。
しかも、“音声”で。
「……え?」
リビングのどこか、スピーカーもついていないはずの電気スタンドから、音が漏れた。
「第三話を……読んで……」
か細く、濡れた女の声。
由梨は耳をふさぎ、ソファに倒れ込んだ。
日が暮れる。部屋の明かりがオレンジ色に染まり、夕方の静けさが濃くなる頃、誰かが玄関のチャイムを鳴らした。
ピンポーン……
「……宅配?」
出ると、誰もいなかった。
だが、ドアの足元には、びしょ濡れの紙が一枚だけ貼りついていた。
そっと拾い上げると、見覚えのある書式で、こう書かれていた。
『第三話:ドアの向こうに立つもの』
「……うそ……紙で届くの?」
紙は湿っており、字がにじんで読みにくかったが、内容は、まるで日記のようだった。
『彼女は気づいていない。水音が日に日に近づいていることに。ドアの向こう、ガラスの奥、その隙間から“それ”は見ている』
急にぞっとして、浴室の前へ足が向いた。恐る恐る電気をつけると、鏡が曇っている。
中には誰もいない。だが、ガラスの内側に、無数の手形。
「きゃっ……!!」
バスルームのドアを閉めようとしたそのとき。
曇りガラスの向こうに、明確に“立っている”誰かの影が見えた。
のっぺらぼう。びしょ濡れ。肩まで髪が垂れ、動かない。
ガラス一枚を隔てて、こちらをじっと見ている。
恐怖で動けなかった。
そして、スマホが再び振動する。
画面を見ると、強制的に再インストールされたかのように、アプリのアイコンが復活していた。
開くと、第三話の全文が表示される。
『彼女が逃げられる時間は、あとわずか』
次の瞬間、ドアが“コン”と内側から叩かれた。
「いやっ!!」
扉を閉め、鍵をかける。
だが、水音は止まらない。足元から、風呂場の下から、あちこちでピチャッ……ピチャッと音がする。
そして、鏡に文字が浮かび上がる。
指でなぞったような、濡れた字。
『見たな』
由梨は泣きながら、スマホの電源を落とし、布団にもぐり込んだ。
朝になれば、きっと何もかも夢だったと思える――そう信じた。
……だが。
その夜、眠っているはずの由梨の耳元で、またあの声が囁いた。
「……次は、湯船の中……」