第二話 シャワーの下にて
翌朝、由梨は寝坊した。
「やっば! 七時半!? 電車間に合わないって……!」
急いで顔を洗い、化粧を済ませて、髪を束ねて鞄を手に取る。
バスルームの前を通ると、ぬるりとした足裏の感覚がした。
「……?」
足元を見ると、バスマットが湿っていた。夜のうちに乾いているはずなのに、なぜか濡れている。
「またお湯止め忘れた? いや、ちゃんと……」
昨晩の記憶が一部曖昧だった。湯船に入る前にスマホを落としかけたこと、鏡に映った“何か”、そして……スマホ画面に浮かんだ手形。
だが、すぐに自分をごまかした。
「寝ぼけてたんだよ。あんなの……ありえない」
仕事先では、特に異変はなかった。昼休みに同期のリカとカフェで話しながら、無意識にスマホをいじっていた。
「最近、面白いのあった? いつも異世界モノ読んでるよね?」
「うん、でも昨日ね、変なの読んじゃって。ホラーなんだけど……“お風呂で読んではいけない”ってやつ」
「やだ、タイトルからしてダメじゃん! 風呂で読む前提?(笑)」
「そうそう。でも、ちょっとリアルすぎて。なんか、浴室に“何か”が来る系でさ……」
「もうやめて、それ系ほんと苦手!」
リカの反応に、由梨も笑った。だが、心の中には不安のしこりが残っていた。
夜。
仕事を終え、コンビニでスイーツと入浴剤を買って帰宅。風呂に浸かる予定はなかったが、どうしても湯船でリラックスしたくなった。
「気のせいだったんだよ、あんなの。そう、ただの作り話。ネット小説なんて、誰でも書けるし」
浴槽にラベンダーの入浴剤を入れ、湯気に包まれながらスマホを持ち込む。
問題のホラー小説アプリを開くと、既に最新話が投稿されていた。
『第二話:シャワーの下にて』
まるで自分の生活を見ているかのように、描写が続く。
「今日も会社で平常運転。だが、脱衣所のバスマットはまた濡れていた。彼女は気づかない。水音は、彼女の“真後ろ”から聞こえていることに」
「……ちょっと、待って」
心拍が速くなる。
「彼女が目を離したすきに、シャワーヘッドから水が落ちた。ピチャン、ピチャン……その音は次第に大きくなり、彼女の足元に近づいていく」
そのときだった。
ピチャン……ピチャン……
スマホの外、現実の浴室で、まさにその音が鳴った。
「や、やだ……」
シャワーヘッドを確認する。水は止まっている。なのに、水滴がひとつ、落ちる瞬間を確かに見た。
画面が、勝手にスクロールしはじめる。
「彼女が気づいたときには、もう遅い。目の前に見えるはずの湯面に――」
そこで、アプリが強制終了した。
スマホが異様な熱を持っている。
「嘘でしょ……?」
風呂から上がると、すぐにアプリを再起動しようとした。しかし、既に削除されていた。
『このアプリは現在サービスを終了しました』
唖然とする由梨。その瞬間、浴室の中から――また、水音がした。
ピチャッ、ピチャッ……歩くような、それが近づいてくるような音。
由梨は背筋を凍らせながら、風呂のドアを振り返った。
曇ったガラスの向こうに、黒い影。
人影――いや、長い髪と異様に細い腕。歪んだ姿が、シャワーヘッドの下でじっと動かずに立っていた。
「やだ、やだ、やだ……っ!!」
扉を一気に開ける。
誰もいない。
けれど、バスルームの床には、濡れた足跡が残っていた。
そしてスマホには、新たな通知が届いていた。