第一話 見てはいけない
「……はぁ〜、疲れた〜」
由梨は、部屋に帰るなりソファに倒れ込んだ。都内の小さな広告代理店に勤める、20歳のOL。社交的で友人も多く、同僚たちともそれなりにうまくやっているが、仕事は常に忙しく、体力も気力もすり減らされる毎日だった。
アパートに一人暮らしをしている彼女にとって、一番の癒やしは――お風呂に入りながら、スマホでラノベを読むことだった。
「今日も異世界転生モノ、読もっかな〜。昨日の続き……あれ? あれ消えてる? うわ、まじか。配信停止?」
お気に入りの連載が突然消えていた。
仕方なく、別の作品を探す。おすすめ欄に一つ、目を引くタイトルがあった。
『お風呂で読んではいけない』
「……あは、タイムリーすぎじゃん?」
ふざけ半分で開いてみる。レビューは少なく、コメントもほとんど無い。だけど、やけに丁寧な描写と、不気味な雰囲気に引き込まれていく。
バスルームの描写。水音。誰もいないはずの浴室に現れる“何か”。
そのとき、由梨の耳元で水滴が落ちる音がした。
ピチャン……
「……え?」
湯船に入る前。スマホを持って、バスタブにお湯を張っていたところだった。
音の出どころは――シャワーヘッド。
水は止まっている。なのに、ヘッドの先端から、一滴の水が垂れていた。
ピチャン……ピチャン……
「……気のせい?」
ぞくっと、背筋に寒気が走る。
小説を続けて読もうとすると、画面が真っ黒になった。バッテリー切れかと思ったが、数秒後、また表示される。
『読んでくれてありがとう。あなたが“選ばれた”読者です』
「……なにこれ」
スマホの通知欄には、なぜか“この小説をお風呂で読んではいけません”とだけ書かれた謎の警告が。
それをスクロールしようとした瞬間、スマホの画面に――濡れた掌のような跡が浮かび上がった。
「や、だ……っ」
そのとき、風呂の中から――音がした。
ぼちゃっ……
まるで、何かが湯船に入ったような音。
「誰かいるの……?」
湯船の中を覗き込むが、誰もいない。だが、確かに湯面が――揺れていた。
浴室の鏡には、湯船の背後が映っている。
そこに。
女の長い髪と、白い顔――いや、“のっぺらぼう”のような顔が、立っていた。
振り返る。
誰もいない。
でも、鏡の中の“それ”だけは、まだ――じっと、こちらを見ていた。