第8話「沈黙する外の敵、驚異を増す内の敵」
夕食の支度をしていると、2階に向かう小さな足音が聞こえた。
何気なく耳を澄ませる。
次の瞬間、怜奈の胸が凍りついた。
「お兄ちゃ~ん! お兄ちゃ~ん、いる~?」
慌てて手を拭き、キッチンを飛び出して階段を駆け上がる。
開け放たれた窓のそばで、静香が笑顔で外に向かって手を振っていた。
怜奈は、静香を抱きしめるように引き寄せ、窓をバタンと閉めた。
一瞬、視線が外に向かう。
そこには――
いつもの石の上に座り、
窓を見上げる太の姿があった。
彼は、怜奈と目が合うと、申し訳なさそうに小さく頭を下げた。
怜奈は、何も言わず、シャッとカーテンを閉めた。
(絶対に、近づかせない)
夕食を済ませ、娘たちを寝かしつけた後、怜奈はリビングでひとり座っていた。
どこか落ち着かない。
いつ太が、静香や伽奈に接触してくるか――
そんな不安が、怜奈の背筋をピンと張らせていた。
(守る。絶対に)
娘たちを守るためなら、どんな手段でも取る覚悟だった。
時計が夜の10時を回った頃、圭介が帰宅した。
スーツを脱ぎ捨てソファに座ると、ビールの缶をプシュッと開ける。
怜奈は太に対してハッキリと拒絶を伝えたことを、家に侵入した事実は伏せながら圭介に話した。
「異常な感じがしたから、娘たちに近づくなってちゃんと伝えたの」
そう告げると圭介はふっと笑い、ビールを一口飲んだ。
そして、言った。
「おいおい、お前まで厳しくしてどうするんだよ。それに俺は、別にあの人に娘たちに近づくなって言ってないぞ?」
怜奈は、思わず息を呑んだ。
「……え?」
圭介は続けた。
「むしろあっちが、俺に偉そうに言ってきて腹が立ったんだよ。もっと静香ちゃんや伽奈ちゃんと話してあげて欲しいってさ。怜奈さんだって1人で大変だし、もっと一緒に過ごしてあげて欲しいってさ」
圭介は手に持ったビール缶を回しながら、頭を掻いた。
「今まで黙ってたけど、俺も忙しくてちょっと頭に来てたんだ。つい、"お前みたいに結婚もしてなければ仕事もろくに続かないニートが、偉そうに家族のことを語って深入りしてくるんじゃねぇ"って。……はは、言い過ぎたよな」
苦笑交じりに言った圭介を、怜奈は無言で見つめた。
頭を殴られたような衝撃だった。
(……私が、必死に信じようとしたのに)
圭介は何事もなかったかのようにビールを飲み干し、寝室に向かった。
残された怜奈は、リビングにひとり取り残された。
心の中が、ザワザワと波立っていた。
圭介への失望。
太への警戒。
静香の無垢な笑顔。
何ひとつ、整理できなかった。
怜奈は、ただ、ひとりソファに座り続けた。
(守りたいだけなのに)
眠れぬ夜が、またひとつ、始まった。
別の日も怜奈は、いつも以上に神経を尖らせていた。
だが、ちょっと目を離した隙に――
玄関の扉が静かに開いた。
廊下を抜け、小さな影が外へと出ていく。
慌てて追いかけると、駐車場の脇を抜けようとする静香の姿が見えた。
「静香!!」
呼び止めると、静香はびくりと肩を震わせた。
「お兄ちゃんに会いたいの! お話して、お歌を歌いたいの!」
駄々をこねる静香を怜奈はぎゅっと抱きしめたまま、無言で家へと連れ戻した。
振り返ると、太が庭の石に座り手を振っていた。
静香には申し訳なさそうに、怜奈には小さく頭を下げながら――
夕食後、怜奈はゴミをまとめていた。
そのときだった。
ゴミ袋の底から、見覚えのある布切れが出てきた。
ピンク色の、静香の下着。
「あれ……これ……?」
怜奈は驚き、慌てて静香を呼びつけた。
「これ、どうしてこんなところに?」
問い詰めると、静香は下を向きポツリと言った。
「……おしっこ漏らしちゃって……。ママに怒られちゃうと思って……。だから、隠したの」
泣きながら打ち明けた静香を、怜奈はしばらく抱きしめた。
太が盗んだのだと、すっかり決めつけていた自分。
(思い込みで、何もかも悪く見えた……)
それでも、怜奈の中で太への警戒心が消えることはなかった。
あの日から太は、静香たちに近づこうとはしなくなった。
学校帰りや買い物の途中、遠くから静香や伽奈に手を振るだけ。
以前のように、庭先で話しかけてくることもない。
怜奈は、その距離感にかすかな安堵を覚えながらも完全に気を緩めることはしなかった。
(油断は禁物。何かあってからでは遅い。)
娘たちには改めて厳しく言い聞かせた。
「絶対に、1人でお兄ちゃんのところに行っちゃダメよ」
だが、怜奈を本当に悩ませ始めたのは太ではなかった。
圭介。
仕事と称して、深夜を過ぎてからの帰宅が増えた。
子どもたちとの約束を、ドタキャンすることも多くなった。
学校行事には無関心。
伽奈が楽しみにしていた参観日も、
「めんどくせぇな」と、渋い顔でかわしていた。
伽奈も静香も寂しそうだった。
(このままじゃ……ダメだ。)
怜奈は心に決めた。
まずは、圭介の浮気の証拠を集める。
圭介が風呂に入っている間、怜奈はリビングに放置された彼のスマホを手に取った。
スリープ解除のパスコード――数日前にこっそり見た圭介の指の動きを思い出しながら、数字を入力する。
解除成功。
震える指で、
メッセージアプリを開く。
案の定――
多くの女性たちとやりとりしていた。
工場の若い女性社員らしき名前。
食事の誘い。
何度も繰り返されたやり取り。
伽奈の体育祭の日、圭介は確かに「仕事が入った」と言っていた。
しかし、メッセージのやりとりによれば、その日は若い女性と食事をしていた。
怒りで手が震える。
(……最低)
だが、スクショを撮り、証拠を残す。
怒りを抑え、まだ証拠を積み上げるべきだと自分に言い聞かせた。
ここ数日、静香は太に会いたがることもなくなった。
たまに一条家の庭に座る太を見つけると、遠くから手を振るだけで満足している。
太も微笑んで手を振り返すだけだった。
何事もない日常が、少しずつ戻ってきているような気もしたが、やはり圭介のことにはちゃんと証拠を集めて答えを出さなければ、と怜奈は感じていた。
そんなある日、ポストに一通の書置きが入っていた。
「今週の土日、親族がたくさん来るのでうるさくなってしまうかと思います。ご迷惑おかけしますが、よろしくお願いします」
太らしい丁寧な筆跡。
土日。
一条家には数台の車が停まり、見慣れない人やしばらくぶりに見る人たちが出入りしていた。
かつて幸吉・三津子夫妻が健在だった頃にはよく見た光景だったが、2人が亡くなってからは久しぶりだった。
その日の夕方、太のいとこだという女性がお土産を持って宮野家を訪れた。
「ふーちゃん、口下手だし物静かだからちょっと愛想悪く見えるかもしれないけど、根は優しいから仲良くしてあげてください」
にこやかに笑う彼女に、怜奈は愛想笑いを浮かべた。
(太の本性を知らないくせに……)
そう思いながらも、怒りを押し殺して尋ねた。
「太さんは、昔から美少女アニメとか、好きだったんですか?」
彼女は、無邪気に笑って答えた。
「そうそう! 当時も女子の私より詳しかったし、変身ポーズとかよく教えてもらってたんですよ!」
怜奈は、笑顔を崩さず相槌を打った。
だが心の中では、冷えた水を浴びたような気分だった。
(なんで、笑ってられるんだろう……)
ここまでお読みいただきありがとうございました。