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第7話「善悪の境界線、太との対決」

 翌日。

 怜奈が洗濯物を畳んでいると、静香が小さなワンピースを抱えてやってきた。

「ママ、これ着たい。お兄ちゃんに見せるの」

 怜奈は、瞬間的に首を横に振った。

「だめ。今日はやめておこうね」

 すると、静香は顔を歪め、みるみるうちに目に涙を溜めた。


「やだ! ママ、お兄ちゃんにいじわるしてる! お兄ちゃん、かわいそうだよ!」

 怜奈の胸に、鋭い棘が突き刺さる。

 それでも、怜奈は気持ちを奮い立たせた。

(静香のためだ。……絶対に、守るためだ。)

 震える声で言った。

「静香……ごめんね。でも、今日は着ないでいて」


 夜。

 寝る前に伽奈が、何か言いたげに怜奈のもとへやってきた。

「ママにだけは、言うね」

 伽奈はそう前置きして、声をひそめて話し始めた。

「この前、静香と一緒に太さんの家に行ったとき、太さんが“ここは入らないでね”って言った部屋があったんだ」

 怜奈は息を呑んだ。

(……あの部屋……!)

「でも、静香がドアを開けちゃって……。私も中、ちょっとだけ見た」

 伽奈の声は震えていた。


「そこ、コスプレみたいな服がたくさん飾ってあって……それに、大きなカメラもあったの。スポットライトも……。なんか、スタジオみたいだった」

 怜奈は黙って聞き、伽奈はさらに言葉を続けた。

「そしたら、太さんに見つかっちゃって……。“ここは僕の趣味と夢が詰まった部屋なんだ。パパにもママにも絶対内緒だよ? 伽奈ちゃんも、もし着てみたい服があったら、いつでも教えてね。可愛く撮影してあげるから”って言われたの……」


 怜奈の背筋に、冷たいものが走った。

 冗談ではない。

 これは、もう――

 確信だった。


 太は、

 娘たちに向かって、

 一線を越えようとしている。

 怜奈は、太に対する疑念が確信に変わった今、直接対決する覚悟を固めていた。

 

 もう、何も見逃さない。

 娘たちを守るためなら、どんな手段でも取る。

 その決意が、怜奈の背筋をまっすぐに伸ばしていた。



 翌朝。

 子どもたちの朝食を作り終え、洗濯物を干していた怜奈は、外から聞こえる声に気付いた。

 圭介の声だった。

 太の家の前で、彼と太が何やら言い争っている。

 圭介は、普段の温厚な顔を捨て、鋭い声で太に何かを言い放っていた。

 太は、うつむき加減で何かを呟き、小さく何度か頭を下げた。


 怜奈が慌てて駆け付ける頃には、言い争いはすでに終わっていた。

 圭介は、短く言った。

「伽奈と静香のことで、少し言い合いになっただけだ。帰ったら詳しく話すよ」

 それだけ言うと、圭介はそそくさと車に乗り込み、そのまま仕事に向かっていった。

 太は、小さく会釈すると、そそくさと家の中へと戻っていった。


 残された怜奈は、ひとりポツンと立ち尽くした。

(圭介が……伽奈と静香のために、太に向かってくれた……?)

 不安の種は消えていなかった。

 圭介の浮気疑惑も、スマホのパスコード変更も、頭から消えてはいない。

 それでも。

 怜奈は、ほんの少しだけ胸を撫で下ろしていた。

(……よかった。私ひとりじゃない。)


 保育園と学校に行く前、怜奈は、玄関で二人に言い聞かせた。

「今日から、大根のお兄ちゃんのところには行ってはダメ。約束だからね」

 伽奈は、何か言いたげに怜奈を見たが、それ以上何も言わずに小さくうなずいた。

 だが、静香は――

「やだやだ! お兄ちゃんと遊びたい! ママ、いじわるだよ!」

 ぐずる静香を前に、怜奈は心を痛めながらも、首を縦に振らなかった。

「ダメなものはダメ。ママの言うこと、聞いてね」

 静香は、泣きじゃくりながら保育園へ向かった。


 怜奈は、何度も心の中で自分に言い聞かせた。

(これは、静香のためなんだ……)



 月曜日。

 太が買い物に出かける日。

 きっと、今日も窓は開け放たれている。


(今しかない……)

 怜奈は、善悪の境界線を踏み越える覚悟を決めた。

 愛する娘を守るために……。

 太の不在を確認してから、怜奈は静かに隣家へと向かった。


(娘たちのためなら、どんなことでも――)

 太の車が走り去ったのを確認してから、怜奈は静かに門扉を開けた。

 鍵はかかっていない。

 窓はいつものように、無防備に開かれていた。

 怜奈は、震える手で窓枠に手をかけ、そっと室内に足を踏み入れた。


(娘たちを守るため……それだけ……)

 何度も心の中で繰り返しながら、息を殺して家の中を進んだ。

 リビングの奥に、これまで窓からは見えなかった部屋があった。


 そっとドアを開けると――

 壁一面に、美少女アニメのグッズ、フィギュアがずらりと並んでいた。

 それらは新しいものだけでなく、20年前の古いシリーズのものも多数混ざっていた。

(……コレクター? でも、こんなに……)

 執着を通り越した、異様な熱量を怜奈は感じた。


 部屋の隅には、太の祖父母である一条夫妻が使っていたと思われる大きなクローゼットがあった。

 そっと扉を開ける。

 中には――

 婦警、ナース、バニーガール、アイドル衣装――

 おびただしい数のコスプレ衣装が、丁寧に、まるで博物館のように収納されていた。

 サイズは、大人用にしては少し小さい気もする。

(伽奈でも着られそう……)

 怜奈の背中に、冷たい汗が滲んだ。



 次に、パソコン部屋を覗き込む。

 机の上には、いつものようにパソコンが鎮座していたが、その死角――

 棚の奥には、成人男性向け雑誌やヌードグラビアの写真集が、他の本の影に隠すようにして積まれていた。

(成人男性ならおかしなことじゃないのかもしれないけど……)


 タンスの引き出しを開けると、大量の女性用下着が、整然と収納されていた。

 それも――新品ではない、使用感のあるものばかり。

 怜奈は、何度も吐き気をこらえた。



 そして……静香と伽奈が「入るな」と言われた部屋。

 ドアを開けると、室内は暗く、分厚いカーテンも閉められていた。

 太陽の光も届かないその部屋には、大型カメラ、ロープ、そして、おもちゃの手錠が無造作に置かれていた。

(……何をするつもりだったの……?)

 手の震えが止まらない怜奈。


 怜奈は、机の引き出しを開けた。

 中には、一枚のメモ。

 静香ちゃんに似合いそうな服→○○

 伽奈ちゃんに似合いそうな服→○○

 怜奈の手が、さらに震えた。


 その下には、アルバム。

 ページをめくると――

 水色っぽい髪のウィッグを被った、細身の美女。

 警察官、メイド、ナース――

 様々なコスプレ衣装を着て、カメラに向かって微笑みかけている。

 どの写真も、同じ女性。

 だが――怜奈は、その顔には見覚えがなかった。

(誰……? この女の人……)


 さらに、引き出しの奥には、鍵のかかった小型の収納ボックスがあった。

(ここに……何かある……!)

 怜奈は、手探りで鍵を探し始めたが――

 そのとき。

 車のエンジン音が、すぐ近くで止まった。


(帰ってきた!?)

 怜奈は全身を緊張で強張らせながら、音を立てないように部屋を出た。

 窓から外へ出ると、車から降りた太の姿が見えた。

 幸い、怜奈には気付いていない。


(……危なかった……)

 震える足を引きずるように、怜奈は自宅へと戻った。



 帰宅した怜奈は、静かなリビングに座り込み、自分が見てきたものを何度も思い返していた。


 コスプレ衣装。

 使用感のある女性下着。

 撮影機材、ロープ、手錠――

 そして、静香と伽奈の名前が記されたメモ。


(警察に……行く? でも……)

 侵入した事実を隠して証拠を提出するわけにはいかない。

 不法侵入で得た証拠は、正規の捜査に使えない。

(娘たちを守りたいのに……。私が動いたら、かえって不利になる……?)

 怜奈は、苦しみながらも結論を出せずにいた。



 その時。

 保育園から帰ってきた静香が、靴を脱ぎながら元気よく言った。

「ママ! お兄ちゃんに会いに行っていい?」

 怜奈は、とっさに首を振った。

「ダメ。もうお兄ちゃんのところには行かないの」


「やだー! 行きたい! 行きたいもん!」

 静香は、いつものように声を上げて駄々をこねた。

 だが、太の部屋を実際に見てきた怜奈は、いつもと違った。

「ダメって言ってるでしょ!!」

 声を荒げた瞬間、静香はびくりと肩を震わせ、その場で大泣きし始めた。

「ママのいじわる! えぇーん!」

 怜奈は、震える手で静香を抱きしめようとしたが、静香はそれを拒むように身をよじった。

(ごめんね。でも……これだけは、譲れない)


 泣き疲れて眠ってしまった静香をベッドに運び、怜奈は洗濯物を片付け始めた。

 ふと、違和感を覚えた。

 静香の下着が――一枚、足りない。

 ハンガーに干してあったはずの、静香お気に入りのピンク色の下着。

 どこを探しても、見つからなかった。


(まさか……太……?)

 胸が冷たくなった。

 怖さではない。

 怒りだった。

(絶対に……許さない)



 ピンポーン、とチャイムが鳴った。

 静香が、目を輝かせて玄関に駆け出す。

(まさか……)

 慌てて追いかけ、怜奈が玄関を開けた。


 そこに立っていたのは、太だった。

 手には、果物ゼリーの詰め合わせ。

「あの……これ……。うちの、おばさんが贈ってくれたもので……。よかったら……」

 太は、静香を見て微笑んだ。

 怜奈は、無意識にその手をはたき落とした。

「いりませんっ!」

 太は、はたかれた手を押さえ、目を丸くした。


 怜奈は、震える声を必死に抑えながら言った。

「もう、うちの娘たちに近付かないでください! あなたがおかしなことをしてるのは知ってる。これ以上は訴えます!」

 恐怖を越え、怒りと勇気に満ちた言葉だった。

 静香は、ママの剣幕に怯えてまた泣き出した。

 だが、怜奈は振り返らなかった。

 

 太は……しばらく怜奈を見つめた後、ゆっくりと口を開いた。

「……ごめんなさい。……気持ち悪かったですよね。……持って帰ります。……それから、もう静香ちゃんにも伽奈ちゃんにも近付きませんから。本当に、ごめんなさい」

 ゼリーを拾い集める太の頬には、涙が伝っていた。

 全部拾い集めて立ち上がると、ぎこちなく微笑みながら静香に小さく手を振った。

「ご迷惑をおかけして、すみませんでした。静香ちゃん、バイバイ。元気でね」

 太は、それ以上何も言わずゆっくりと家を後にした。

 怜奈は彼のその姿を、黙って睨みつけていた。



 玄関のドアを閉めた怜奈はその場にへたり込み、震える手で泣きじゃくる静香を抱きしめた。

(……守れた。今度こそ……絶対に、守る。)

ここまでお読みいただきありがとうございました。

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