第6話「孤立する怜奈。圭介の疑惑」
それは、数日後のことだった。
太がゴミ出しをするタイミングを見計らい、怜奈はまた、人気のないうちにゴミ袋を持ち帰った。
部屋に鍵をかけ、震える指先で袋を開く。
中身を探ると、チョコレートの空き袋やプリンのカップに混ざって、ビニール袋に包まれたものが出てきた。
それを開くと――
女性ものの下着。
ピンク色の、レースがあしらわれたブラジャーとショーツのセット。
(……なんで、こんなものが……?)
怜奈は、息を呑んだ。
下着は未使用で、タグも値札もついたまま。
(誰かの忘れ物とかじゃない。新品……。男性一人暮らしの家に、女物の新品……?)
怜奈の中で、何かがカチリと音を立てた。
(これはもう、偶然とかじゃない……)
そして、翌日。
怜奈は一人、太の家へと向かっていた。
太が買い物に出掛けていることを確認し、家の裏手に回り込む。
田舎の古い家。
窓は広く、カーテンは開け放たれている。
息を潜めて、窓に近づく。
カーテンの隙間から覗くと――
そこは、太の作業部屋だった。
壁には、美少女フィギュアがずらりと並び、ハンガーラックには、色とりどりのコスプレ衣装。
目を移すと、リビングには、机に美少女アニメ○○シリーズのDVDが並んでいた。
(……静香が、見たいって言ってたやつ……)
でも、その横に置かれたものが、怜奈を凍り付かせた。
大型の、一眼レフカメラ。
レンズの向こうには、スポットライト。バックボード。
まるで、即席の撮影スタジオ。
そして、その横にも、数着のコスプレ衣装が吊るされていた。
フリルのついたドレス。
ロリータ調のワンピース。
(ここで……着替えさせて、撮影するつもり……?)
怜奈の心臓が、痛いほどに脈打った。
そのときだった。
車のエンジン音が近づいてきた。
(……太が戻ってきた!?)
怜奈は、慌てて身を低くし、音を立てないように裏庭を離れた。
血の気が引くのを感じながら、怜奈は家路を急いだ。
心臓の高鳴りが、耳の奥で響いていた。
(あれは偶然じゃない。偶然であんなもの、用意しない。)
胸の奥で、ぼんやりしていた不安が、もう言い訳のできない形を取り始めていた。
夜。
静香と伽奈が眠ったあと、怜奈は意を決して、圭介に向き合った。
「お願い、力を貸して。私ひとりじゃ、もう限界なの……。大根さんのこと、娘たちを守るために調べたいの」
圭介は、顔をしかめた。
「怜奈……いい加減にしろよ」
「でも――」
「ハッキリ言ってやりすぎだ! 人の家を覗くなんて異常だろ? 他人から見ればお前の方が立派な犯罪者だぞ!?」
その言葉は、まるで鈍器で殴られたような衝撃だった。
圭介の言うことはもっともであり、最近の自分の行動はたしかにやりすぎだろう。
だけど……。
それでも……。
(私だって……したくてしてるわけじゃない……娘たちを守りたくて……)
怜奈は声を震わせながら言った。
「じゃあ……警察に相談しよう。そしたら、何か――」
圭介は苛立ちを隠さずにその言葉を遮った。
「証拠が無いだろ!? ゴミ袋漁りました。部屋を勝手に覗きました、って言うのかよ? そんなもん、相手にされるわけないだろ!」
圭介はそこまで言うとはぁ……と大きなため息をつく。
そして、苛立ったように一気にグラスを呷ると、テーブルに叩きつけるように置いた。
「俺は疲れてるんだ。お前の暇な妄想ご近所サスペンスに付き合ってる暇はねぇんだよ」
とても冷たい声だった。
怜奈は、それ以上何も言えなかった。
二人の間に、取り返しのつかない溝が広がっていくのを感じた。
翌日の土曜日。
圭介は、
「ちょっと仕事が入った」
と言って家を出た。
怜奈は、いつもの週末のように娘たちを連れて隣町のショッピングモールへ買い物に出かけた。
人混みの中、ふと目を向けた先で、見覚えのある後ろ姿が視界に入った。
(……圭介?)
スーツではなく、カジュアルなシャツにチノパン。
その隣には、若い女性。
20代前半と思しき、明るい色のワンピースを着た女性。
二人は楽しげに、店の中を見て回っていた。
(仕事、じゃない……?)
心臓が、ぎゅうっと音を立てるように痛んだ。
気付いたのは、怜奈だけだった。
娘たちは、特に気付いた様子もなく買い物を楽しんでいる。
怜奈は、ばれないように顔を背け、スマホを取り出した。
手が震えた。
それでも、シャッターを何度か切った。
画面には、圭介とその女性が並んで歩く姿が、はっきりと映っていた。
家に帰る車の中。
娘たちは買い物に満足して、後部座席で眠っていた。
怜奈は、ハンドルを握る指先に力が入るのを感じていた。
太と娘たち。
圭介とあの若い女性。
(私の家族は……もう、壊れ始めてる……?)
どこにも逃げ場はない。
怜奈は、必死で冷静さを保とうとしながら、
でも、心の奥では、
じわじわと何かが崩れ落ちていくのを感じていた。
一筋の涙が、怜奈の頬を伝っていた。
深夜。
圭介は遅れて帰宅した。
怜奈は、静かに声をかけた。
「おかえりなさい……。あの、どこに行ってたの?」
圭介は、コートを脱ぎながら振り向きもせずに答えた。
「何してたって、仕事に決まってんだろ!? 誰のために土日返上で仕事してると思ってるんだよ!」
声が大きく、二階で眠る静香と伽奈の部屋に響きそうだった。
「あの子たちが起きちゃうから……もう少し静かに喋って……」
怜奈は、小さな声で言った。
だが、圭介は不機嫌に吐き捨てた。
「お前がおかしなこと聞くからだろ?」
そのまま、圭介は怜奈を振り切るようにして寝室へ向かっていった。
残された怜奈は、何も言えずにその背中を見つめていた。
(……信じられない。信じたくない。でも……)
怜奈は、心の底から確信した。
(圭介のことも、調べなきゃ……)
太のことと並行して、怜奈は圭介の行動を追う決意を固めた。
翌朝。
静香は、まだ寝ぼけたまま、怜奈のベッドに潜り込んできた。
小さな手で怜奈の服の裾を握りしめながら、ぽつりと言った。
「ママ……。パパは、どうしてお家にいてくれないの? お話もあんまりしてくれないし……静香のこと、嫌いになったの?」
その言葉に、怜奈の胸は痛みで押し潰されそうになった。
まだ小さな静香が、そんな不安を口にするなんて。
怜奈は、震える手で静香をぎゅっと抱きしめた。
「そんなことないよ。パパもママも、静香のこと、大好きだよ……」
だけど、心の中では、
(幼い子に、こんな思いをさせるなんて。母親失格だ……)
という、どうしようもない自己嫌悪が渦巻いていた。
静香は怜奈の胸に顔を埋めながら、何度も、うなずいた。
その日の夜。
怜奈は、圭介が夜遅く帰宅して、シャワーを浴びている隙に動いた。
ハンガーにかけられたスーツ。
そっと近づき、手に取ってみる。
ごく微かに――女性ものの香水の匂い。
甘く、フルーティーな香り。
怜奈は、無意識に息を止めた。
ポケットに手を入れると、くしゃくしゃになったレシートが一枚。
隣町にある、高級レストランのものだった。
(……仕事って、言ってたのに……)
怜奈は、無意識にレシートを握りしめたまま、その場に立ち尽くしていた。
翌日。
静香が、「お兄ちゃんが呼んでる!」と嬉しそうに走っていった。
怜奈も少し遅れて庭へ出ると、太が、静香に小さな袋を差し出しているのが見えた。
中には、子ども向けの可愛らしいワンピース。
「これ、今度着てみてね」
太は、静香に微笑みかけた。
静香は目を輝かせた。
「この前、広告で見たの! かわいいって言ったら、お兄ちゃんが覚えててくれたんだよ!」
その無邪気な笑顔が、怜奈の胸にずしりと重くのしかかる。
怜奈は、意を決して言った。
「いりません。気を遣わないでください」
太はそれを聞くと、少しだけ寂しそうな顔をした。
それでも、すぐに表情を整え、静かに答えた。
「相談もせずにプレゼントするなんて、非常識でしたよね。すみません」
礼儀正しいその言葉に、怜奈は返す言葉を失った。
家への帰り道。
手を繋いで歩く静香が、ふと怜奈を見上げた。
「ママ、お顔怖いよ」
怜奈は、ハッとした。
こんな小さな娘に、自分の娘に、怖がられるほどの顔をしていたなんて。
「……ごめんね、静香」
そう謝っても、心は晴れなかった。
疑念と不安、そして焦燥感。
それが、怜奈の表情から消えることはなかった。
夜、子どもたちが眠ったあと。
テレビをぼんやり眺めながら、圭介はスマホをいじっていた。
怜奈は、圭介が風呂に入る隙を狙って、彼のスマホを手に取った
画面をタップし、パスコード入力画面を開く。
だが――
パスコードが変わっていた。
以前までは誕生日だったはずなのに。
(……私に隠し事をしてる……?)
衝撃とショックに怯みながらも、怜奈は諦めなかった。
ソファに座る圭介を横目で見ながら、彼の指の動きを観察する。
指先のリズム、どの数字をどの順番で押しているのか――
怜奈の中で、疑念はさらに膨れ上がっていった。
ここまでお読みいただきありがとうございました。