第4話「一度目の尾行」
翌朝、怜奈は庭先から何気なく太の家を見た。
毎週、月曜と金曜――太は決まって買い物袋を下げて帰ってくる。
それ以外にも、出かけていく日がある。
行き先はわからない。
(今日、月曜日。行動パターンを見てみよう。)
圭介は相変わらず遅くなるとメッセージを寄越してきた。
怜奈は、買い物の帰りに寄った駅前で、そっと太の後をつけることに決めた。
「もしも何か証拠を見つけたら……」
そう思いながら、怜奈はハンドルを握った。
ハンドルの下で、手のひらが汗ばんでいるのを感じながら。
怜奈は車のシートを倒し、なるべく目立たないようにエンジンをかけた。
10メートルほど前方――
太が乗り込んだ軽自動車がゆっくりと動き出す。
(慎重に……だけど車間を取りすぎないで)
怜奈は緊張で手に汗をかきながら、太の車を追った。
最初に立ち寄ったのは、町のスーパーだった。
怜奈は少し離れた駐車場に車を停め、サングラスをかけて中を窺う。
太は特に変わった様子もなく、ビール、総菜、野菜、インスタント食品などをカゴに入れていた。
どこからどう見ても、ただの一人暮らしの買い物。
(……普通だ。何もおかしくない)
それでも怜奈の心は落ち着かなかった。
スーパーを出た太は、次にコンビニへ。
入口近くの駐車スペースに車を停めた太は、コンビニに入っていく。
5分後。
出てきた彼の手には、ペットボトルの水と、厚めの週刊誌があった。
怜奈は目を凝らした。
表紙には、グラビアアイドルの過激な写真。
見出しには、アダルト特集の記事の文言が踊っている。
(……成人向け週刊誌……)
何もおかしくない。大人の男性なら、持っていても不思議ではない。
でも、怜奈の胸には、またひとつ黒い染みが広がった。
コンビニを出た太は、今度はおもちゃ屋に向かった。
子ども連れの家族で賑わう店内に、太の姿はどこか異様に映った。
彼はまっすぐ、美少女アニメ○○シリーズのコーナーへ。
小さな変身アイテムや、キャラクターグッズを手に取り、じっと見つめている。
20分、30分――
太はそのコーナーをうろつき続けた。
店員がちらりと太を警戒するような目で見るのを、怜奈は目撃した。
(どうして……あんなに長い間……?)
彼は結局、何も買わずに店を後にした。
太は次に、町外れのホームセンターへ向かった。
カートを押しながら、園芸用品コーナーへ。
そして、ロープを手に取る。
太は何種類かのロープを比べ、しばらく悩んだ末に、白いビニールロープを1巻き、カートに入れた。
怜奈は駐車場の影から、震える手で双眼鏡越しにそれを見つめた。
(ロープ……?)
嫌な想像が頭をよぎる。
静香、伽奈――
(いや、違う。庭木の手入れとか……畑とか……)
必死で自分に言い聞かせても、不安は消えなかった。
最後に太は、もう一度コンビニへ。
コンビニスイーツ――
プリンやシュークリームをいくつか買い、それを袋に入れて、静かに車に戻る。
そして、そのまま自宅へと帰っていった。
怜奈は遠くから、一条家の門をくぐる太の後ろ姿を見つめた。
(……全部、ただの偶然? 普通の行動?)
怜奈は車の中で両手を握りしめた。
ただの偏見かもしれない。
でも――
「もしもの時に、後悔はしたくない」
そう、怜奈は心に刻んだ。
夜。
時計の針が22時を回った頃、ようやく圭介が帰宅した。
ネクタイを緩めながらリビングに入ってきた圭介に、怜奈は思い切って話しかけた。
「ねえ、圭介……今日、私、太さんのこと、少し尾行してみたの」
圭介は一瞬、怜奈の顔を見た後、顔をしかめた。
「は? ……尾行?」
怜奈は落ち着いた声を保とうとしながら、
太がスーパーに寄ったこと、コンビニで週刊誌を買ったこと、
おもちゃ屋で美少女アニメグッズを長時間眺めていたこと、
ホームセンターでロープを買ったこと――
一つひとつ、丁寧に説明した。
圭介は黙って聞いていたが、説明が終わると、低く溜め息をついた。
「……怜奈さ、探偵みたいな真似するなよ」
その声には、明確な呆れが滲んでいた。
「どうしてそんな失礼なことができるんだ? ……人として、常識疑うよ」
怜奈は何か言い返したかった。
でも、言葉が出てこなかった。
圭介の言うことがもっともだったからだ。
圭介は続けた。
「ゴミ袋とか漁るのは絶対に止めてくれよな。もしそんなことしたら、俺、マジで引くから」
そう言い捨てると、圭介は疲れた顔でソファに沈み込んだ。
怜奈は、唇を噛み締めながら、背を向けた。
自室のベッドに座った怜奈は、震える手で自分の太ももを握った。
(たしかに……やりすぎてる。わかってる。)
だけど――
あの手紙。
コンビニの週刊誌。
美少女アニメの変身アイテムを、慈しむように眺めていた彼の顔。
そして、ロープ。
全部がつながって、怜奈の中に、消えない不安となって残っていた。
(何もなければ、それでいい。私が間違っていたって、構わない。)
(でも――もしも、もしも何かあったら?)
圭介には、わかってもらえない。
でも、母親として、この直感を無視するわけにはいかなかった。
怜奈は静かにスマホのカレンダーを開き、予定に印をつけた。
【金曜日 尾行】
それまでは、何事もなかったかのように、普通に過ごそう。
太に警戒心を悟られないように。
怜奈は深く息を吐き、目を閉じた。
眠れるはずもない夜が、また始まった。
太は、庭の石に座り、静香と伽奈の姿をぼんやりと眺めていた。
夕暮れの光が、二人の顔を柔らかく染めていた。
静香はシャボン玉を吹きながら笑い、伽奈は少し離れた場所で本を読みながら時折、妹の様子を気にしている。
太は目を細めた。
――可愛い。
そう思った。
小さな手、細い指、無邪気に笑う目元。
髪の毛が、夕日に透けて光っていた。
(……なんて、きれいなんだろう)
心が、ふわりと温かくなる。
(まぶしいな……)
ただ、それだけ。
太は、石に座ったまま、ゆっくりと瞬きをした。
ふと、視線を感じた。
目を向けると、窓越しに、怜奈がこちらを見ていた。
太は小さく微笑んで、視線を静香の方に戻した。
――可愛い。
そう思いながら、夕闇が少しずつ、二人を包んでいくのを見ていた。
週の半ば、怜奈は静香を保育園に送った帰り道、町内会長夫婦が住む家を訪れた。
二人は、ちょうど庭の畑仕事を終えたところだった。
「ああ、宮野さんとこの……どうしたんだい? 顔色悪いよ」
町内会長が心配そうに声をかける。
「突然すみません。ちょっと……相談があって」
怜奈は静かに事情を話し始めた。
大根太のこと。
静香や伽奈が最近よく遊んでいること。
太の言動に感じる、拭えない違和感。
そして、自分でも神経質すぎるかもしれないと自覚しながら、それでもどうしても心配だということを、言葉を選びながら伝えた。
話を聞き終えた町内会長と会長夫人は、顔を見合わせ、しばし沈黙した。
最初に口を開いたのは会長夫人だった。
「怜奈さんの気持ちはわかるよ。でもね、大根さん、ずっと都会で一人で暮らしてたんでしょ? しばらく人と密に接してないから、コミュニケーションが少し下手になってるだけよ」
町内会長も頷く。
「あの幸吉さんのお孫さんだぞ。幸吉さんは町内どころかこの市でも有名な人格者だったんだ。そんな人の血を引いてる孫が、変なことするなんて、俺は信じられないな」
「小さい頃から優しい子だったよ」
会長夫人が柔らかく微笑む。
怜奈はうつむいた。
(やっぱり……わかってもらえない。)
自分だけが、過敏に神経を尖らせている気がしてきた。
でも、怜奈の心に根を張った不安は、二人の言葉では、消えなかった。
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