第3話「強まる怜奈の不安」
翌日、静香が怜奈のところに駆け寄ってきた。
「ママ! お兄ちゃんからお手紙もらった!」
怜奈の心臓が跳ね上がる。
「見せて」
静香はランドセルのポケットから、小さく折りたたまれた便箋を取り出した。
中には、子どもっぽい丸い字でこう書かれていた。
『猫ちゃんたちを守ってくれてありがとう。静香ちゃんはやさしいね。今度、また猫ちゃんたちに会いに来てね。お兄ちゃんより』
それだけ。
特におかしなことはない。
けれど怜奈には、この「個人的なお手紙」という事実そのものが、胸の奥に冷たいものを落とした。
大人の男性が、まだ幼い娘に個人的に手紙を渡す――。
「ねえ、これ……いつもらったの?」
「今日、お庭で遊んでたときに」
無邪気に答える静香を、怜奈は抱きしめずにはいられなかった。
その夜。
怜奈は浅い眠りの中で夢を見ていた。
灰色がかった夢の中。
どこかぼやけた庭。
太が、静香を抱きかかえて微笑んでいる。
静香は笑っている。
太は怜奈に気付くと、にっこりと笑いながら、静香を連れて庭の奥へと歩き出す。
「待って!」
怜奈は声を上げた。
走ろうとするが、足が重い。
まるで膝に重りでもつけられたかのように動けない。
圧倒的な無力感。
視界の隅に、伽奈がいた。
太は今度は伽奈に近づき、何枚もの衣装を見せている。
セーラー服、制服のコスプレ、アイドル風の華やかな衣装――
太はその中から一着を選び、伽奈に押し付けるように手渡した。
伽奈は、怯えたような顔で怜奈を見た。
だが怜奈は、助けることができない。
太が振り返り、怜奈をじっと見つめる。
その目に、笑みはなかった。
「大丈夫。もうすぐ、君の家族も、こっち側に来るよ」
低く冷たい声。
怜奈は叫び声を上げて、布団の中で跳ね起きた。
息が荒い。
胸が締め付けられる。
ただの夢だと、自分に言い聞かせても、
怜奈の体は恐怖で震えていた。
休日の午後。
静香は今日も一条家の庭で遊びたがった。
怜奈は「じゃあ、ママも一緒に行くね」と静香の手を引く。
伽奈も、最近はあまり表には出さないが、妹を心配してか一緒についてきた。
太は庭の石に腰掛け、静香が持ってきたシャボン玉を眺めていた。
静香が「お兄ちゃん、一緒にやろう!」と声をかけると、太は立ち上がって無言で頷き、静香と並んでしゃがみ込む。
怜奈は、庭の隅のベンチに座りながら、
意を決して話しかける。
「大根さんって、どんな趣味があるんですか?」
できるだけ何気ない感じで。
しかし、太は少しだけ目を泳がせた。
「えっと……アニメとか、ゲームとか……です」
予想通りの答え。
フィギュアやコスプレという言葉は出てこない。
「……あ、あと……」
太は少し顔を赤らめ、視線を泳がせる。
「美少女アニメとか……好きです。可愛い、女の子、好きなので……えへへへ……」
その笑い方に、怜奈は胸の奥に寒気を覚えた。
「○○ってアニメ、知ってます? 日曜朝にやってる、毎年シリーズのやつで……」
太は急に早口になり、顔を輝かせて話し出した。
「静香ちゃんも、好きだって言ってたし……。れ、怜奈さんも、昔見てたりしました?」
静香はそのアニメの名前を聞くなり目を輝かせて、「知ってる知ってる!」と太と盛り上がる。
伽奈も少しだけ苦笑しながら、「今のは観てないけど、私も小さいときは観てたな」と話に加わる。
怜奈は作り笑いで相槌を打ちながら、心の中で思っていた。
(どうして、そんなに子どもの話題でこんなに興奮できるんだろう……?)
太の顔は、シャボン玉を吹く静香を見ながら、無邪気に笑っている。
それが怖かった。
無害な笑顔――でも、どこか異様な興奮を感じる笑顔。
太は、静香が吹いたシャボン玉がふわふわと舞い上がるのを、まるで何かを慈しむような目で見つめていた。
その視線が、子どもを見つめる親のようなものなのか、それとも別の何かなのか――怜奈には判断できなかった。
夜中。
怜奈は寝苦しさで目を覚ました。
暑い夜。寝室の扉がわずかに開いている。
隣の部屋から、かすかな物音。
怜奈は素足で廊下に出る。
静香の部屋のドアが半開きになっていた。
覗き込むと、静香はベッドに丸まって眠っていた。
ふと、枕元に置かれた何かが目に留まった。
小さな折りたたまれた紙。
そっと手に取り、開いてみる。
『もしも昔の○○シリーズが見たかったら、僕の家で見せるからね。
今度○○ごっこして一緒に遊ぼうか?
楽しみにしてるよ。』
かわいらしいキャラクターのイラストが添えられていた。
手紙は、明らかに太の筆跡。
怜奈の手が震える。
文章のどこにも脅しや下心はない。
でも――
「家で見せる」
「一緒に遊ぼうか」
怜奈は紙を折りたたみ、そっと枕元に戻した。
静香は無邪気な寝息を立てていた。
ただの善意の手紙だと思いたかった。
でも心は、ただ寒かった。
翌日。
休日だったが、圭介は朝から電話とパソコンに張り付いていた。
昼下がり。庭で子どもたちが遊んでいる間に、圭介が太に声をかけた。
「あ、どうも、大根さん」
太が軽く会釈する。
「最近、うちの娘たちとたくさん遊んでくれてるみたいで」
太は何も言わず、ただ小さく頷いた。
「実は、うちの妻が少し心配性なもので……」
圭介は苦笑しながら続けた。
「妻まで家の庭にお邪魔してしまって、すみません。あとで言い聞かせておきますんで」
太はまた曖昧な笑みを浮かべた。
「でも、僕は大歓迎ですから。娘たちのこと、よろしくお願いしますよ」
「たくさん遊んであげてください。忙しい僕の代わりに、迷惑掛けますがなんとかお願いします」
圭介はにこやかに言い、ぺこりと頭を下げた。
その会話を、怜奈は家の中から聞いていた。
圭介に相談したことなど、まるでなかったかのように。
圭介は、あの日の不安げな怜奈の顔も、静香の枕元の手紙も、何も知らない。
怜奈は、胸の奥がぎゅっと締めつけられるのを感じた。
(もう、誰も私の不安を理解してくれない……)
太の方は、柔らかく笑いながら静香のほうを見ていた。
まるで、そこにしか興味がないかのように。
夕食後、伽奈が自室で宿題をしているところへ、怜奈はそっとドアをノックした。
「ちょっといい?」
伽奈が顔を上げる。
怜奈は小さく折りたたんだ絵手紙を差し出した。
「これ、大根さんが静香に渡した手紙なんだけど……。伽奈は、どう思う?」
伽奈は素直に手紙を広げ、中身を読む。
読み終えて、少しだけ眉をひそめるが、やがて困ったように言った。
「……普通、じゃない? 子ども向けっぽいし」
怜奈は言葉を選びながら、さらに問いかけた。
「でも、家でアニメ見せるとか、○○ごっこして遊ぼうとか、ちょっと……」
伽奈はしばらく考えてから、口を開いた。
「ママ、たしかに太さんってちょっと変なとこあるけど……。
でも、そこまで悪く思うのは、さすがに失礼だしかわいそうだよ」
その言葉が、怜奈の胸に重く突き刺さった。
伽奈が自分を責めるような目で見ることが、何より堪えた。
「……そっか、うん、ごめんね。変なこと言って」
怜奈は微笑んで部屋を出たが、手は小さく震えていた。
(私が……間違ってるの?)
夜。
子どもたちが寝静まった後、怜奈はパソコンを開いた。
「大根太 東京 事件」
検索窓に打ち込む。
いくつかの検索結果が表示された。
ほとんどは無関係な人物の記事だったが、1つだけ気になるページがあった。
『都内で未成年との不適切接触疑惑。示談成立か』
内容を読むと、匿名の掲示板をソースにした記事だった。
「30代男性、アルバイトを転々。
アニメ・コスプレ趣味を持ち、女子高生と問題になったとの噂。
具体的な証拠はないが、親族のコネで示談に持ち込んだらしい。」
名前は伏せられていた。
しかし、年齢、状況、プロフィールが太と一致している気がしてならなかった。
(本人かどうかなんて、わからない……)
それでも、怜奈の中で何かが確実にカチリと音を立てた。
(でも――これは、もう――)
ここまでお読みいただきありがとうございました。