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第2話「大根太の噂と縮む距離」

 一度そういう風な印象を抱いてしまったからなのか、静香や伽奈と遊んでいる時、怜奈は太の視線を感じるようになった。

 娘たちを優しく見つめているが、ジッと、じっくりと、目を離さずに見ているような……まとわりつくような視線だった。

(やっぱりこの人、娘たちを見てる……!?)

 怜奈は目が合うと愛想笑いを返しつつも、警戒するようになるのだった。

 そんな怜奈の心配をよそに、娘たちは太と仲良くなっていった。


「ねえ、圭介……ちょっと、隣の大根さんのことで相談があるの」

 仕事帰りで疲れている圭介は、缶ビールをプシュッと開けながら怜奈を見る。

「うん、どうした?」

「……大根さん、娘たちに妙に優しいし、たまにじっと見てる気がするの。しかも……」

 怜奈は、例のセーラー服のグラビア動画やフィギュアのことを話すか迷い、結局ぼかして伝える。

「いや、気持ちはわかるけどさ。あの人、別に何かしたわけじゃないだろ?」

 圭介は苦笑いする。

「偏見持っちゃダメだよ。働いてないからって悪い人ってわけでもないし、趣味も人それぞれだし」

「でも……でも、もし何かあったら遅いじゃない……」

「怜奈がちゃんと見てるなら大丈夫だろ? 心配しすぎだって」

 そう言って肩をポンと叩かれ、怜奈は言葉に詰まる。

 彼の言葉は優しいけど、どこか他人事のように聞こえた。


 それから数日後のある日、庭で静香が転んで泣き出した。

 怜奈よりも先に太がすぐに駆け寄り、静香の膝をそっと拭きながら、ポケットから子ども用の絆創膏を取り出す。

「大丈夫だよ。ほら、痛いの痛いの飛んでけ……」

 彼は膝に口を近づけ、おまじないのようにフッと息を吹きかける。

 絆創膏を貼りながら、太は静かに微笑む。

「今度はお兄ちゃんが守ってあげるから」

 その瞬間、怜奈は遠くからそれを見ていて、思わず手のひらに汗がにじむのを感じる。

 何気ない、優しい光景――。

 でも怜奈には、それが過剰な親密さに見えた。


 夜、怜奈はスマホを握りしめ、連絡先一覧をスクロールしていた。

【実家の母】【ママ友・山田さん】【児童相談所(調べたばかりの番号)】

 けれど、指が止まる。

 母に言えば、きっと大騒ぎになる。

 山田さんに言えば、噂は一気に広がる。

 児童相談所――そこまでして、もし何もなかったら……。


 彼女は、深く息を吐き、スマホをテーブルに置く。

「まだ、何も起きてないじゃない……」

 そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥の不安は消えなかった。


 スーパーで買い物中、怜奈はたまたま耳にした。

「……あの一条さん家に住んでる大根さん、前に都会で問題起こしたって話、知ってる?」

 立ち話をしている中年女性二人。

「仕事が続かなくて、色んなバイト先でトラブル起こしてたらしいよ。盗みとか、女の子関係とか……」

「ほら、あの年でまだ独身でしょ? しかも無職だし」

 ハッキリした証拠は何もない。ただの噂話。

 でも、怜奈の耳には、その言葉がぐさりと突き刺さる。

 帰り道、ふと見上げた太の家のバルコニー。

 カーテンの隙間から、じっと外を見ている誰かの視線を感じた。


 ある日の夕方、庭で静香が遊び終えたのを見計らい、怜奈が迎えに行く。

 太はバルコニーにいたが、怜奈に気付くと珍しく下りてきた。

「……あの。すみません、いつも娘さんたちと遊ばせてもらって」

 太は、ぎこちないながらも、控えめに頭を下げた。

 それは心からの礼のつもりだったのかもしれない。

 だが、怜奈は無意識に一歩身を引く。

「いえ……。そろそろ、帰りますので」

 声のトーンは自然を装ったが、口元が強張っていた。

 太もその変化に気づいたのか、少し目を伏せる。

「……そうですか。お気をつけて」

 気まずい空気が流れたまま、怜奈は静香の手を引き、足早にその場を立ち去った。

 背後に残る、太の視線を感じながら。


 夜、夕食後のリビング。

 静香がソファに座って、ニコニコしながら怜奈に話しかけた。

「ねえママ、今日ね、お兄ちゃんに『秘密だよ』って言われたの」

「――っ」

 怜奈は一瞬、血の気が引くのを感じた。

「ど、どんな秘密?」

 声を震わせないように気を付けながら尋ねると、静香は嬉しそうに話し出す。

「秘密の隠れ家だよ。お庭の奥に、かわいい猫ちゃんが住んでるの!」

 ほっと息を吐きそうになる怜奈。

「お兄ちゃんがね、『猫ちゃんを驚かせちゃうといけないから、静かに見に来てね』って。秘密にしててねって」

 無害な内容。

 でも――

「秘密にしてね」

 その言葉だけが、怜奈の胸に重たく残った。


 そして、静香が眠った後、伽奈が怜奈の部屋のドアをノックした。

「ママ、ちょっといい?」

 ベッドに座り込むと、伽奈は手持ち無沙汰にパジャマのズボンの裾をいじりながら話し始めた。

「あのね。お兄ちゃん……大根さんのことなんだけど」

 怜奈は耳を傾けた。

「この前、庭で遊んでたとき、ずっとこっちを見てたの」

「……見てた?」

 伽奈は小さく頷く。

「静香のこともだけど、私のことも。なんか……じっと。普通に微笑んでるんだけど、目が笑ってないっていうか」

「…………」

 怜奈の胸に、またあの嫌な予感が蘇る。

 でも、伽奈はそれ以上言わなかった。

「ママも気をつけたほうがいいかも。……なんか、少し変だよ」

 伽奈のその言葉が、怜奈の背筋を冷たくした。



 数日後の夜、食卓のテーブル。

 圭介はネクタイを緩めながらビールを飲んでいる。

 怜奈は夕食の片付けをしながら、タイミングを見計らって口を開く。


「ねえ、圭介……」

「ん?」

「大根さんのことなんだけど――」

 圭介の表情が、微かに面倒くさそうに曇るのがわかる。

「またその話か……」

「……だって。やっぱり不安なの。静香も懐いちゃってるし、伽奈もあの人のこと、ちょっと変だって言ってたし」

 圭介はビールを一口飲んでから、苦笑する。

「怜奈、気にしすぎだよ。何も起こってないんだろ?」

「でも――」

「俺、今仕事も忙しいしさ。変なことでストレス増やしたくないんだよ」

 怜奈は言葉を失う。

 彼は続ける。

「それより、子どもたち元気に育ってるし、静香だって彼に懐いてるじゃないか。……問題ないよ」


 少し間を置いて、怜奈は恐る恐る、別の話題を切り出す。

「……ねえ、3人目。そろそろ考えてもいいかなって。男の子も欲しいって言ってたじゃない」

 圭介はビール缶をテーブルに置き、ため息をついた。

「無理だよ、今は。忙しくて子どもなんか増やしてる場合じゃない」

 それだけ言うと、スマホを手に取り、仕事のメールをチェックし始めた。


 怜奈は、静かにシンクに立ち、皿を洗うふりをしながら、視界が滲むのをこらえた。

 子どもたちは可愛い。家庭は幸せ。なのに――

 誰にも相談できない。

 この不安も、この孤独も。

 ひとりで抱え込むしかないのだった。



 翌日、保育園から帰ってきた静香が、怜奈に飛びつくように言った。

「ママ! 今日はお兄ちゃんと猫ちゃん見に行っていい?」

 怜奈の心がざわめく。

「だめ。ママも一緒に行くならいいよ」

 静香はぷうっと頬を膨らませた。

「ママが一緒だと、猫ちゃんびっくりしちゃうよ~」

 その言葉が、また怜奈の胸を刺す。

 日に日に、静香は太に懐いていく。

「太お兄ちゃんみたいなお兄ちゃんが欲しいな」とまで言い出した。

 伽奈も表面上は何も言わないが、妹を見守る視線が少しだけ強くなった気がする。

 それでも静香は、太に対して無邪気な好意を向け続ける。

 まるで――

 太が何もかもを包み込んでくれる存在であるかのように。


 スーパーのレジに並んでいた怜奈。

 後ろに並ぶ老婦人たちのひそひそ声が耳に入る。

「あの大根さん、やっぱり前にトラブルあったみたいよ」

「そうそう、東京にいた頃、未成年の女の子と問題になったって」

「示談金払ってうやむやになったって噂も聞いたわよ……」

 怜奈は買い物かごを握る手に力が入る。

 聞かなければよかった――

 でも、耳は勝手にその声を拾ってしまう。

「だから、あの人、こっちに戻ってきたんだって」


 何の確証もない。

 よくある田舎特有の根も葉もない噂話かもしれない。

 でも怜奈の頭には、静香と太の笑い声がよみがえってきた。

 支払いを済ませ、外に出た怜奈は、スーパーの駐車場から一条家のバルコニーをふと見た。

 そこに――

 カーテンの隙間から、こちらを見下ろすような影があった。


「今日は遅くなるから、先に寝てて」

 圭介からの短いメッセージ。

 怜奈はスマホをテーブルに置き、溜め息をついた。


 夜のリビング。

 子どもたちは寝静まっている。

 外は虫の声だけ。


 怜奈はカーテンの隙間から外を見た。

 ふと、隣の家。

 一条家の2階――

 そこにぼんやりと、微かな灯りが見えた気がした。

 怜奈は慌ててカーテンを閉めた。

 自分の心配が杞憂なら、それに越したことはない。

 でも――

 もしものことがあったら、自分しか子どもたちを守れない。


ここまでお読みいただきありがとうございました。

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