第12話 キース公子
その日、ディンレル王国王都リュンカーラの正門前は、いつになく華やかでいて張り詰めた空気に包まれていた。
ビオレール公国の第二公子、キース・ビオレール殿下が第一王女アリス様との婚約の儀のために、ついに到着したのだ。
物々しい鎧に身を固めた騎士や、豪奢な衣服を纏った10名を超える貴族の随行者を引き連れて。
出迎えるのはディンレル国王アノス陛下を筆頭に、パルパティーン宰相、ブロッケン将軍ら重臣たち。
当然、今日の主役であるアリス姫と妹アニス姫も、美しい礼装に身を包んで整列していた。
やがてビオレール一行の先頭を進んでいた豪奢な馬車が、ゆっくりと停止する。
従者が恭しく扉を開けると、中から1人の青年が姿を現す。
すらりとした長身に、雪のように白い肌。
陽光を反射して輝く長い金髪を、うなじのあたりで紫色のリボンで束ねている。
仕立ての良い煌びやかな装飾の施された衣服は彼の貴公子然とした雰囲気を一層引き立てていた。
けれど、整った顔立ちはどこか冷たく、切れ長の瞳は鋭い光を放っている。
「これはこれはアノス陛下自らのお出迎え、恐悦至極に存じます。私がキース・ビオレールです。
この度は貴国が誇る麗しき第一王女、アリス姫殿下との婚約の儀を執り行うため、馳せ参じました」
キース公子は完璧な貴族の作法で一礼し、流暢に挨拶を述べた。
声は涼やかだが、どこか感情の温度を感じさせない。
「おお、キース公子、ようこそお越しくださいました。長旅でお疲れでしょう。さあ、アリスよ、前に。そなたの夫となられる方だ。ご挨拶なさい」
父王に促されてアリス姫が一歩前に進み出た。淡い桜色のドレスが風に揺れる。
彼女はキース公子の顔を真っ直ぐに見据え、練習を重ねた完璧な淑女の礼をとる。
「お初にお目にかかります。アリス・ディンレルと申します。この度はようこそリュンカーラへお越しくださいました。
至らぬ身ではございますが、キース・ビオレール公子様の良き妻となれますよう、誠心誠意努めさせていただきます」
アリスの声は鈴を転がすように美しく、表情は穏やかな微笑みに満ちている。
ただ完璧な笑顔の下で、アリス姫の心臓は警鐘のように激しく打ち鳴らされている。
キース公子の値踏みするような冷たい視線が氷の針のように肌を刺す。
彼の言葉遣いは丁寧だが、端々から滲み出る傲慢さと、自分以外の者への無関心さが、アリス姫に言いようのない寒気を覚えさせた。
(この方は……危険だわ)
王国の未来のため、民の笑顔のため、決して動揺を見せてはならない。
アリスは内心の動揺を押し殺し、完璧な王女を演じきった。
「おお……! 素晴らしい。噂に違わぬ、いや、噂以上の美しさ、そして気高さだ。
アリス姫殿下、貴女のような方をお迎えできることを、私は心より誇りに思います」
キース公子は芝居がかった口調で称賛し、アリス姫の手を取ると、彼女の白い甲に恭しく口づけをした。
貴族の挨拶としては完璧な所作。
けれども唇が触れた瞬間、アリス姫は蛇に触れられたような嫌悪感を覚えてしまう。
姉の後ろに控えて、アニス姫は黙ってキース公子の一挙手一投足を見つめている。
彼女の魔女としての鋭い直感が、この男の本質を捉えていた。
優雅な所作の裏に隠された冷酷さ、丁寧な言葉の裏にある侮蔑。
何より姉を見る目に宿る、所有物を見るかのような独占欲。
(こいつ……姉様をなんだと思ってるの!)
アニス姫はポケットの中で拳を固く握りしめ、いつでも魔法を放てるよう警戒レベルを引き上げた。
「さささ、皆様、ここで立ち話も何でございます。
キース公子、そしてビオレールの皆様方におかれましても、長旅でお疲れでございましょう。まずは白亜宮へご案内いたします! さあ、こちらへ!」
パルパティーン宰相の張りのある声が響き、厳かに王都への行進が開始された。
アノス王や姫たちは優雅に馬上の人となり、ビオレール一行の馬車の前を進む。
沿道はこの歴史的な瞬間を一目見ようと集まった王都の民で埋め尽くされ、色とりどりの旗が振られ、祝福の声援が飛び交っていた。
アリス姫は内心の不安を隠し、笑顔で民衆の声に応える。
一方、キース公子は再び馬車の中に収まり、向かいに座る腹心の男、ミフェルと低声で会話を交わしていく。
随行の騎士や貴族たちが乗る後続の馬車も、ゆっくりと動き出す。
「……それにしても、耳長やら、ビヤ樽やら、鱗肌やら……下等な種族が随分と多い街だな。人間と見分けがつかんほどに紛れ込んでいるとは吐き気がする」
キースは窓の外、歓声を上げる群衆の中に混じる異種族の姿を認め、顔を顰めて吐き捨てた。
「まことに。ですが、これもディンレルの古くからの風習とか。
ただ、キース様がこの国の実権を握られれば、そのような悪習も一掃できましょう」
ミフェルが主君の機嫌を取るように答える。
彼はキース公子の野心を最も理解し、支持する腹心中の腹心だ。
「ふん、当然だ。奴らは労働力か、見せしめの処刑対象で十分。逆らう人間どもも同じことよ。
……それよりミフェル、先ほどアリスの後ろに控えていた者たちのことだ。妹のアニスというのはあれか? それと、アリス付きだという魔女……ローレルとか、アロマティカスとか言ったか?」
「はっ。アリス姫のお近くにおりました、姉君に似た金髪ショートヘアの少女が第二王女アニスかと。
その後ろの紫色の癖っ毛の娘がローレル、緑の髪の娘がアロマティカスでございます。
いずれもこの国の貴族の娘で、アリス姫に幼い頃から仕える魔女との由にございます」
ミフェルが淀みなく答える。
ローレルとアロマティカスが、キースに向けて内心でどれほどの呪詛を吐いていたか、彼らは知る由もないが。
「ふむ……もう1人、黒髪の長身の男がいたな。あれは何者だ?」
「ああ、あれは先日ご報告した、キルアとかいう蛮族の族長の息子かと。
先の戦で捕虜となり、アリス姫付きの『奴隷』の身分とされたと聞いておりますが……」
「奴隷だと? あのなりでか? 騎士のような装束をまとい、堂々と剣まで帯びていたぞ。全く、ディンレルのような文明の遅れた後進国のやることは理解できんな。
忌々しい。なぜこの俺が、こんな野蛮な国に婿入りなどせねばならんのだ……!」
キースは忌々しげに舌打ちした。
父王からの命令とはいえ、魔女や異種族が幅を利かせる国に、自ら乗り込まねばならない屈辱は耐え難い。
「まあまあ、キース様」
ミフェルが宥めるように言う。
「これも好機ではございませんか。このディンレルという国の軍備や統治体制は旧時代のまま。魔女の力は侮れませんが。
我々が内から手中に収めるのは容易いかと。ここで力を蓄え、兵馬を整え、いずれは本国をも……」
「……ふっ、それもそうか」
ミフェルの言葉に、キースは獰猛な笑みを浮かべた。
脳裏にはディンレルの豊かな大地と資源、強力な魔女たちを、自らの野望のために利用する計画が渦巻いている。
エルフの森を伐採して砦を築き、ドワーフの鉱山で武器を量産させ、リザードマンの湿地帯を兵の訓練場とする。
そして魔女どもを飼いならし、強力な魔法兵器として運用するのだ。
(待っていろよ、兄上……父上……幼い頃から俺を蔑み、嘲笑ってきた貴様らを、この俺が引きずり下ろしてやる。
このディンレルを足掛かりにして、俺が大陸の新たな覇者となるのだ!)
過去の屈辱的な記憶が、彼の野心をどす黒い炎のように燃え上がらせる。
馬車の窓から見えるリュンカーラの平和な街並みが、彼には征服すべき獲物にしか見えていなかった。