彼はもう間違えない。
──彼を愛してはいけません。
そのとき、頭の中で声が響きました。
婚約者候補のムデル様、クライフ伯爵家のご子息とお見合いをしていたときです。
どこかで聞いたような声なのに、思い当たる方はいらっしゃいませんでした。母の声に似ている気もしましたが、もっと若いし少し違うところがあります。
私はムデル様を見つめました。
私と同い年の十三歳で、もしかしたら私よりも美しいかもしれない方です。
文武両道に秀でた彼はすでに王宮への登城も許されていて、未来の近衛騎士団長候補として近衛騎士団の鍛錬に参加しているのだと聞いています。私どもと同い年であらせられる麗しき水晶姫殿下とも面識があるそうです。
出会った瞬間に燃え上がった幼い恋心は、先ほど頭の中で響いた声に冷や水をかけられたようです。
ムデル様は美しい方です。優秀な方です。
だけど……いいえ、だからこそ考えなくてはいけません。この方は私を愛してくださるのでしょうか?
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
お見合いから五年後、クライフ伯爵家長男ムデル様の婚約が解消されました。
いいえ、白紙撤回です。
婚約自体がなかったことになったのです。
ムデル様有責の婚約破棄でも良かったのではないかと思うのですけれど、帝国との関係を考えるとそうもいかないのでしょう。
問題などなにも起こっていないのです。
ムデル様は婚約も実家の継承権も投げ捨てて、剣の道へ進むことを選ばれたのです。ええ、帝国の皇弟殿下へ嫁がれる麗しき水晶姫殿下は、この件にはなにも関与なさってらっしゃいません。
「貴女は賢かったわね、マノン」
紅茶で水分を補給しておっしゃったのは、ボッシュ侯爵家のご令嬢ソフィー様です。
私は、見合いの日の声に従ってムデル様とは婚約いたしませんでした。
私の婚約者はソフィー様の兄君、ボッシュ侯爵家ご子息のミヒール様です。なおミヒール様は侯爵家を継がないご次男で、王宮の文官として身を立てていらっしゃいます。ミヒール様との婚約がきっかけで、子爵令嬢に過ぎない私もソフィー様のお友達の末席に名を連ねることとなりました。
ムデル様と婚約なさっていたのはソフィー様です。
麗しき水晶姫殿下との関係が噂されていたムデル様は……もちろんただの噂ですわよ?……この王国の貴族子女が通う学園に十五歳で入学した後もしばらく婚約者がいらっしゃらなかったのですが、彼が学園の剣術大会で活躍なさったときに、ご実家の権勢が大き過ぎて縁談相手を選びかねていたソフィー様に見初められて婚約を結ぶこととなったのです。
ただ未来の近衛騎士団長と言われていた矜持のせいか、ムデル様はいつも麗しき水晶姫殿下を優先なさっていて、それが今回の婚約の白紙撤回に辿り着いたわけです。
ソフィー様の目の周りは真っ赤に染まっています。
常に麗しき水晶姫殿下を優先されていても、ソフィー様は婚約者のムデル様を愛していらっしゃったのです。
何度拭っても零れ落ちてくる彼女の涙に気づかない振りをして、私は答えます。
「お見合いの日に声がしたのです」
「声?」
「はい。彼を愛してはいけないという声です」
「あら貴女、未来視の力があるの? そういえばバレンティン子爵家のご先祖に時間を戻す力を持った古い王国の姫君がいらっしゃったという伝説があったわね」
「ただの伝説ですわ。本当にそんな力があれば、ミヒール様のお役に立てて嬉しいのですが」
「そうね、未来がわかったらミヒール兄様が文官として予算を立てるのも楽になるわね。まあ周囲を説得するのが大変かもしれないけれど」
「ですね。……たぶんどこかでムデル様の噂を聞いたことがあって、それが頭の隅に残っていたのだと思います」
「……そうね。学園でも、彼と彼女は一対の絵画のようだったものね」
私もソフィー様も麗しき水晶姫殿下のお名前は出しません。
帝国の皇弟殿下へ嫁ぐ尊い御身なのですもの。
誤解されないように仇名さえ口にしてはいけません。
「私も風の噂に耳を傾けていれば良かったわ」
「ソフィー様はお美しくて賢いのですもの。すぐに良い方と巡り合えますわ」
「それは未来視かしら? 外れていたら、貴女とミヒール兄様の新婚家庭に押しかけて小姑として君臨してよ?」
「お手柔らかにお願いしますわ」
そう言って、私達は笑い合いました。
学園在学中いつも麗しき水晶姫殿下と寄り添っているムデル様を見つめてソフィー様が流されていた涙よりも、今のすべてが終わったことで流されている涙のほうが綺麗だと感じます。
そして私もあのときの声に耳を傾けていて良かったと思うのです。考えるとあのときの声は、当時の母を若くして父の要素を加えた、今の私の声によく似ていました。
★ ★ ★ ★ ★
──彼女を愛するんだ。
バレンティン子爵令嬢マノンとの見合いのとき、頭の中に響いた声をムデルは無視した。
十三歳のムデルの心はもう、王宮で出会った麗しき水晶姫に奪われていたのだ。
マノンのほうから断られてムデルは安堵した。
何代か前に縁づいていて遠縁に当たる関係だから、というだけの縁談に過ぎなかったので、当主である父になにか言われることもなかった。
ただ、水晶姫との関係については注意を受けた。
王家の家臣に過ぎないという立場を忘れるな、と言われたのだ。
十五歳になって学園に入学しても、剣術大会で活躍してボッシュ侯爵令嬢ソフィーとの婚約が結ばれても、ムデルの心は麗しき水晶姫に囚われたままだった。
学園卒業後、麗しき水晶姫はこの大陸を支配する帝国の皇弟へ嫁ぐ。
水晶姫の麗しさに魅入られた皇弟から、是非にと乞われた縁談だ。
小国であるこの王国が断れる話ではない。
だからこそムデルは、一緒にいられる時間を大切にしたかった。
嫁いだ水晶姫が皇弟を愛するように、ムデルも彼女がいなくなった後は結婚相手を愛そうと思っていた。帝国の皇弟やムデルの婚約者が自分達の行動をどう感じるかなんて思いもせずに。
今のムデルは去勢されている。
帝国皇弟の婚約者と恋愛ごっこをしていたことへの罰だ。
水晶姫は嫁いだ後に罰を受ける。皇弟はもう彼女への愛を失っている。なにも知らずに帝国へ嫁ぐ水晶姫は、病気になって亡くなることが決まっている。
(やり直せたら、時間が戻ってやり直せたら……)
ムデルは願う。
自分の身体のことだから、ムデルは察しているのだ。
宦官が一般的な帝国ならいざ知らず、この王国には安全な去勢の技術などない。不安定な技術で去勢されたムデルは、去勢手術の膿んだ傷痕から発病して死に至るだろう。
前のときもそうだった。
ムデル自身は思い出していないけれど、今回は彼にとって二度目の人生だったのである。
前のときのムデルはバレンティン子爵令嬢のマノンと婚約していたが、今回と同じように婚約者よりも麗しき水晶姫を優先していた。そして同じように去勢されたにもかかわらず、それを隠すために実家の伯爵家よりも身分の低い子爵令嬢マノンとの結婚を強行して、傷痕からの病を妻に移してともに亡くなった。
何代か前の縁談で、バレンティン子爵家にもムデルのクライフ伯爵家にも時間を戻す力を持った古い王国の姫君の血が受け継がれていた。
マノンとムデルが前の人生を悔やんだことで、運良く時間が戻ったのだ。
少しムデルが考えてみたら、マノンとの見合いの日に聞いた声が今の成長した自分のものだったと気づくことだろう。
今回は前とは違う。ムデルは今回も悔やんでいるものの、マノンは良い人生を選び取っている。
(やり直せたら、時間が戻ってやり直せたら……もう間違えたりしないのに)
どんなに願っても、ムデルひとりの後悔では時間は戻らない。
だけど彼の願いはひとつだけ叶った。
時間が戻らなかったから、彼はもう間違えなかったのだ。ムデルが死んだ日は、奇しくも帝国に嫁いだ水晶姫が病死したのと同じ日だった。──一度目の人生と同じように。