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初恋と深緑の川

作者: 相浦アキラ

 優し気な垂れ目、癖の強いショートヘア。

 10年以上経ったのに彼女はあまり変わっていなかった。

 ただ一つ変わっていたのは、彼女が大人になっているという事だった。


「もしかして、小田原君?」


 記憶のままの懐かしい声に私は何も言わず、つながった目線を俯き解く。

 ただ赤いカーペットに乗った彼女の白いハイヒールを睨み、唇を噛み続けた。

 言葉が頭の中に湧き上がって出口を求めていたが、喉は凍り付いていた。何も言う事が出来なかった。

 ただ彼女が言葉を続けるのを待った。その間も人工的な店の照明が、彼女のハイヒールを醜く輝かせていた。

 私はハイヒールに自分の顔が映らないか恐れた。私の顔は、どこまでも醜悪に歪んでいる筈だった。


「小田原君だよね。……久しぶり」


 首で頷いて、私はまたハイヒールに目を落とした。目が離せなかった。


「……ごめんね。キャンセルする?」


 私は黙ったままだった。同時に、どうするか迷っている自分に驚いていた。こんなに打ちひしがれているというのに、どこに迷う要素があるのだろう?

 諦観と自嘲が極まり、自分の醜悪さが滑稽にすら思えて来る。少しだけ気が楽になっていた。俯いたままゆっくりと頷いた。

 すぐに彼女のハイヒールが赤い床を蹴って視界から消えた。受付に向かったようだった。

 店員に何やら説明しているらしかったが、どうでも良かった。

 振り向くと彼女は煙のように消えていた。


「お客様……こちらへ」


 受付へ向かうと、どこか申し訳なさそうな態度の店員が、札束を捲り数えて差し出してくる。

 一度離れた2万五千円が私の財布に戻った。

 私は奇妙な満足感と喪失感に苛まれながら、店を出た。

 疲れ切っていた。それでも何とか近場の公園に向かった。柵に手を掛け、力尽きたように淀んだ川を眺めていた。節約になってよかったとか、やっぱりキャンセルしなければ良かったとか、腑抜けた頭に白々しい考えが去来しては、川の底に沈み消えて行った。川はあの時のように、街の汚れを全て引き受けて暗い深緑に淀んで、ゆっくりと揺れ流れていた。……彼女と初めて出会った時も、私はこの川を眺めていた。


 ◇


「ねえ、何してんの?」


 活発な声に振り返ると、人懐っこそうな垂れ目の子供の姿があった。10歳前後で、当時の私と同年代のように見えた。


「川を見ているんです」とだけ返し、私はすぐに川に向き直った。昨日読んだ海外文学の考察に戻った。しかし……


「何で川見てるの? 何で敬語なの?」


「……うるさいですね」


「答えてよ」


「私は早く大人になりたいんです」


「何で?」


「大人になって自立したいからです」


「何で自立したいの?」


「大人に依存するのが嫌だからです」


「ふーん」


 彼はいつの間にか私の右隣に立って、アルミ柵に手を掛けて川を眺めていた。


「汚い川だね」


「いえ、とても美しいです」


「おお、大人っぽい!」


 鼻で笑いながらも、私は少し得意げになっていた。初めは面倒だったが、もう少し話したい気分になっていた。彼も無邪気に笑っていた。


「僕も早く大人になりたいなー。どうやったら大人になれるかな?」


「本を読むといいですよ」


「マンガじゃダメ?」


「マンガじゃダメです」


 それから、暫くの間沈黙が流れた。深緑の川が西日で輝いていた。心地よい沈黙だった。ふと、目が合った。彼の小さな唇が開いた。


「僕、ミチカっていうんだ」


「ミチカ? えっ?」


「僕女の子だよ。気付かなかった? ほら、おっぱいもちょっとあるよ」


 彼女は胸を張り、青いシャツを両手で引っ張って胸に密着させているようだった。私は慌てて顔を逸らして顰め面を作った。


「はしたないですよ。大人はそんな事はしません」


「そうなの?」


「しません」


 彼女の顔だけそっと盗み見た。改めてみると、どこからどう見ても女の子にしか見えなかった。どうして気付かなかったのだろう。

 川に意識を投げかけながらも、ミチカの事が頭から離れなかった。私は奇妙に高揚していた。どうして高揚しているのかは分からなかったが、とにかく高揚していた。清々しくもあった。淀んだ川がいつになく美しく見えた。


「君は名前何て言うの?」ミチカが言った。


「私は小田原と申します」


「下の名前は?」


「秘密です」


「大人だねー」


 ミチカは子供らしく賑やかに笑い声をあげ、私は大人ぶって軽く口元を吊り上げてみせた。また沈黙が流れていった。


「あっ、お母さん!」


 振り返ると、ミチカは厚化粧の女に向かっていった。派手な服を上着で隠している。

 私はその女が風俗嬢かもしれないと思い至り、まともに顔を合わせられなかった。

 女の方も私と目を合わせる気が無いようだった。

 二人の慣れ親しんだ会話を聞きながら、私は胸騒ぎを憶えていた。今思うと、あの時私は嫉妬していたのかもしれない。


「じゃーね! 小田原君!」


「さようなら」


 私は息を吐いて、また川に向き直った。


 その日から、ミチカと私は公園で遊ぶようになった。ただただ川を眺めたり、雑草を観察したりした。ミチカの誘いでかけっこや鬼ごっこをする事もあった。ミチカと私は足の速さが殆ど変わらないので、競い合うのは楽しかった。

 あの日も、ミチカとかけっこをした。3勝2敗で私の勝ちだった。

 ミチカは悔しそうにしながらも、息を喘がせていた。言葉を出す余力も無いようだった。

 そしてフラフラと引き寄せられるように川べりに向かい、二人で川を眺めた。私もミチカも肩で息をしていた。二人の荒れる息音を聴きながら、私はいてもたってもいられないようだった。訳も分からずに高揚していた。緑の川が西日で暖かく光っていて、堪らなく美しかった。


「小田原君」


 目が合った。慌てて川に顔を落とした。息はもう荒れていなかったが、胸音は高鳴り続けていた。


「私ね、夢があるんだ」


 大人びた微笑みを浮かべる彼女に、私は違和感を覚えていた。何か嫌な予感があったが、何も返せず黙っていた。


「私ね、風俗嬢になりたいの」


 言葉の意味はすぐに理解できた。

 それでも全く心動く事は無かった。そのはずだったが、頭の中でミチカの言葉が反響していくうちに、胸の奥から煮え滾るような何かが湧き上がって来た。それは憎悪だったかも知れないし、別の何かだったのかもしれない。とにかく私はミチカに軽蔑の目を作って、ミチカへと向けていた。


「馬鹿ですか、あなたは」


「…………」


「あなたは馬鹿です」


「何で?」


 ミチカは平静と真っ直ぐ川を見つめていたが、頑なな表情は深く傷ついているようにも見えた。


「好きでもない男の為に自分を安売りして、何になるって言うんですか」


 私は止まらなかった。言葉が溢れ出て来るのを止められなかった。


「止めてくださいよ。風俗嬢なんて。なんで好き好んでそんなものになろうとするんですか?」


 ミチカは無理やり笑顔を作って困ったような顔になっていた。


「だって……私も幸せになれるし、お客さんも幸せになれるし、お金ももらえるから。素敵だなって思って」


「何が素敵ですか? 何が幸せですか? 醜悪な男の欲望をぶつけられて、尊厳をひきズタズタに裂かれるだけですよ! 汚らわしい! そうやって金の為に心を売って、はした金を手にして、何が残りますか?」


「そんなこと言わないで! 私のお母さんも。私のお母さんも風俗嬢なんだよ。でもお母さんは心を売ってなんかない。お母さんは自分の仕事に誇りを持ってるよ。お母さんは偉いし……傷つく事もあるかも知れないけど、それでも……それでも……」


 ミチカは涙声になっていた。泣いているのは分かっていた。それでも私は止まる事が出来なかった。止めを刺すつもりで私は、ミチカの母親を罵っていた。憎悪の全てをぶつけていた。ミチカの母親がミチカにふざけた考えを吹き込んだと思っていた。ミチカの母親が憎くて堪らなかった。


「どうしてそんなこと言うの?」


 怯えるような彼女の声に、私はついに止まった。取り返しのつかないことを言ってしまった事に気付いて、愕然とするしかなかった。言い訳するように俯いて、声を絞り出した。


「私の父は、若い女に入れ込んで私と母を捨てました。もう二度と顔も見たくないですが、私は子供なのであの男の呪縛から逃れられません。あんなクズ男に頼って生活するしかないんです。何もかも、セックスのせいです。あの男がセックスに囚われなければ……。だから……だからどこまでも醜いんですよ! セックスなんて、どこまでも醜い行いですよ。快感を求めてセックスしてる連中も、体を売ってる連中も、買ってる連中も、みんな最低です!」


「……私のお父さんは、誰か分からない。お母さんが常連のお客さんと作ったんだって」


「…………」


「ねえ、セックスが無かったら、私達は生まれて来られなかったんだよ?」


「知りません。聞きたくないです。とにかく風俗嬢にはならないでください」


「嫌だ……風俗嬢になる」


 涙に震えた声だったが、確かな芯があった。

 私は打ちのめされていた。この世界全てに対する敗北を悟っていた。


「ねえ、小田原君……」


「もう話したくありません。何も」


「……小田原君」


 私は走り出していた。泣きながら走っていた。ミチカは追ってこなかった。

 緑に濁った川が堪らなく醜くうねっていて、その醜悪さに吐きそうになりながら走り続けた。

 それ以来ミチカと会う事は二度となかった。

 ……二度と無い筈だった。

 私は出会ってしまった。優し気な垂れ目に、癖の強いショートヘア。彼女は確かにミチカだった。大人になって、風俗嬢になったミチカだった。

 私はあの時のように走り出した。涙は出なかったが、川はあの時のように汚らしく淀んでいた。

 そして川沿いのコンビニに駆け込み、ライターとタバコを買った。


 初めてのタバコに手間取りながらも箱を乱雑に開け、一本取り出して火を付けた。そっと吸い込んだ。反射的にむせ返し、咳が暫く続いた。酷い味だった。地面に投げつけ、足で踏みつけにして火を消した。二度と吸う事は無いだろう。

 吸い殻を拾って、醜い川に振りかぶった。どうせ汚れた川なんだから、もっと汚してやりたかった。

 しかし……私は手を下ろした。吸い殻をハンカチに包んでポケットにしまい込み、地下鉄に向かってくすんだアスファルトを蹴った。


 まだタバコ臭い息を吹き上げながら、私はミチカを思い描いていた。大人になったミチカと、子供の頃のミチカが重なり合ってぼやけていた。

 私が知らない間に、ミチカは大人になっていた。

 ミチカは後悔したかもしれない。絶望したかもしれない。

 だがそれでも、ミチカは夢を叶えていた。前に進んでいた。

 そんなミチカに、私は何も言えなかった。言う事が出来なかった。

 自分の小ささと醜悪さを恐れて、子供のように黙りこくっているだけだった。

 やはり私は全く大人になれていない。何も変わっていない。

 私は、あの忌々しい父親と何も変わらない。


 橋のたもとで立ち止まり、私はじっと川に顔を落とした。ぼんやり浮かんだ頭の影を、言い訳するように眺め続けた。

 川は街の汚れを全て引き受けるように、暗い深緑に淀んでいた。


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