色ちがいの感情
いまからおよそ五百年前。
当時の王弟が、隣国の姫と恋に落ちた。
王都の一郭にちいさな城を建設し、隣国から連れてきた造園家に、色鮮やかな装飾庭園をつくらせ、愛の誓詞とともに姫に捧げた。
そうしてふたりは、清雅たる城館で、末永くしあわせに暮らした――のちの、ブレイデン公爵家である。
壮麗な庭園は、財力の象徴だ。
ブレイデン公爵家の庭園は王都一と謳われ、建国記念祭には一般公開もされる。
刺繍のような模様がほどこされた色彩豊かな花壇に、造形的に刈り込まれた植栽。
水盤と芝地で構成されたシンプルな区画に、立体的な幾何学模様がからみあった複雑な迷路。
野菜や果樹を花壇のようにならべた樹木菜園があり、絶妙に配置された彫刻やフラワーアーチが、その景観を引きたてる。
背の高い生垣の奥には天然の湖があり、周囲には森林を切り込んでつくった遊歩道がある。
主塔の頂上から一望すると、うつくしい庭園は巨大な絵画のようだった。
邸宅にもっとも近い、緻密な刺繍花壇を東にぬけると、おおきな樹木がならぶ森に出る。
森といえども庭園内、突っ切るように行けば、すぐに向こうがわに到達できる広さしかない。
しかしここには仕掛けがひとつ。
空を飛ぶ鳥だけが知っている――樹木に囲まれた小庭園が存在することを。
特定の魔力の持ち主でなければ、決してたどりつくことのできないそこには、強固な幻惑の術式が刻まれている。
アンジェリカ専用の小庭園である。
「いつ体感しても、ふしぎです」
アンジェリカは感嘆のためいきをつく。
庭園の森に入り、紗で撫でられた感触がしたかと思うと、いつのまにか小庭園に着いている。
決して嫌な感じではないが、身構えるようにつないだ手にちからをこめてしまうのは、おさないときからの癖だ。
「今日もちゃんと着いて、よかったね」
くすくすと笑う声は、手をつないだ相手から。
兄のギルバートが、たのしげな笑顔を浮かべていた。
「お兄様の魔術を信用していないわけじゃないんです! ただ、幻惑の魔女のおはなしが頭をよぎって……」
「森で迷った兄妹を幻惑でおびきよせて、たべようとする魔女だね」
「魔女がつくるお菓子の家は、とてもおいしそうですけど」
「じゃあ、もってきたお菓子で家でもつくる?」
バスケットをかかげたギルバートに、アンジェリカは目をかがやかせる。
「――できるんですか!?」
「妖精サイズの家になるけど、お菓子に固定魔術をかければ可能だ。――俺は魔女にも負けないよ?」
いたずらっぽく笑う兄に、アンジェリカは吹きだす。
声をあげて笑いながら、きれいに石で整えられた白い通路を、ふたりであるく。
通路をふちどるようにほどこされた階段状の滝が、涼しい音を立てて流れていく。
緑と清水にかこまれた小庭園は、すがすがしい空気につつまれていた。
「温室のバラが見ごろなんです。耐病性の強い苗をいただいて、冬に植えかえたものが、しっかりと根付いてくれました」
「そっか。見るのがたのしみだ」
ふたりが向かう先にはガラス張りの温室があり、今日はこの中でピクニックだ。
外はぽかぽかとした陽気だが、たまに吹く風はやや肌寒い。
温室ならば風も防げて、のんびりできるだろう。
ふたりは談笑しながら、温室に入る。
ドーム型の天井は解放感があり、こんな晴天の日はとても明るい。
中はあたたかく、バラの甘い芳香でいっぱいだった。
アンジェリカは目当ての低木にかけより、ギルバートをふりかえる。
「これです、お兄様!」
バラの木はアンジェリカの背丈ほど、丸みを帯びた葉が茂り、幾重にも伸びたみずみずしい茎には、大輪のピンクの花が数個のつぼみをとりまきにして咲き誇る。
ギルバートは腰をかがめ、バラと目線を合わせる。
ふちどる花弁は白、よくみるとピンクのストライプが入っており、花芯にちかづくにつれ赤味が増えて鮮やかになっていく。
ぎっしりとつまった花弁の、グラデーションはうつくしい。
ほのかにバニラの香りがして、ギルバートは顔をほころばせた。
「いいかおりがする。それにすごくきれい。アンジェリカが世話をがんばったからだね」
そういって、褒めるようにアンジェリカの頭を撫でた。
もう十五歳なのに、と思いながら、アンジェリカはその手がうれしくてくすくす笑う。
目をあげると、母に似た涼やかな碧眼がやさしく細まり、それがなぜだかくすぐったくて、いてもたってもいられずにギルバートに抱きつく。
「おっと」
見た目よりもがっしりとした体が、あぶなげなくアンジェリカを抱きとめる。
ギルバートの胸にほおずりすると、トクトクとあたたかい鼓動が聞こえてきた。
「……アンジェリカ」
ひそやかなギルバートの声に、笑いをもらしながらちいさく応える。
「なあに?」
「――君に、言わなきゃいけないことがある」
「……え?」
アンジェリカは体を離し、ギルバートの顔をみつめる。
彼はなにかに耐えるような表情をして、顔をそらした。
「お兄様?」
楽しかった気分がしぼんでいくのを感じながら、アンジェリカはおずおずとギルバートの腕を引く。
ギルバートが自嘲とも苦笑ともつかない、ぎこちない笑みを浮かべた。
「――座ろうか」
温室のすみのベンチを示したので、アンジェリカは素直にうなずいた。
年季がはいった木製のベンチは、座るときにすこしだけガタつく。
四本足のうち、一本だけ微妙に短いからだ。
それも味があっていい、と思えるのは、このベンチを作ったのは十年前のアンジェリカとギルバートだからだ。
となりにあるテーブルや、踏み台や道具棚など、温室にある木製のものは、だいたいふたりでつくった。
実際の作業はほとんどギルバートだが、アンジェリカも木ネジを締めたり、塗装をしたり、ギルバートを応援したり、そのときにできることをしていた記憶がある。
ベンチに腰かけると、ギルバートが端的に説明する。
ナサニエル殿下の婚約者候補として、アンジェリカの名があがっていること。
それを回避するため、いちはやく婚約者をつくる必要があること。
「確認だけど、アンジェリカは王妃になりたいわけじゃないよね?」
「も、もちろんです! そのような、おそれおおい……」
ギルバートはうなずく。
「いらない苦労をする必要はない。それを回避するための作戦だ」
「はい」
「形式上は婚約者としてふるまってもらうが、時期をみて解消する。だから、すこしだけ我慢してほしい」
アンジェリカはうろたえる。
王家からの婚約を回避するために、他者と婚約する。
家をあげて、アンジェリカを守ろうとしてくれるのはうれしい。
だが、そうやすやすと王家がだまされてくれるだろうか――それほどの演技力が、自分にあるとは思えない。
なにかの折に真相が発覚し――最悪の事態になったりはしないだろうか。
「お兄様……」
出した声はふるえきって、ギルバートが目を見開いた。
「――アンジェリカ」
「嘘をつくのは苦手です。私にできるでしょうか。――いえ、やらなければならないのはわかっています。それでも、こわくてたまりません」
「……なにが不安か、話してくれないか?」
「私が至らないせいで、王家に見抜かれてしまえば、ブレイデン公爵家はどうなるのでしょうか。お相手の方にも、多大なるご迷惑が――」
「――だいじょうぶ」
ギルバートが断言する。
「そうならないために、大人がいる。なにか困ったことが起きたら、ひとりで抱え込まずに、かならず誰かに相談してほしい。ぜったいになんとかする。それに――もしバレたとすれば、それはあいつのせいだ」
「……え?」
「勝算のない賭けには見向きもしない男が、できると豪語し、立候補するぐらいだ。並の障害ていどで潰れることはなかろう。憎らしいほど用意周到で、腹が立つほど頭が回る――だからアンジェリカは、ゆったりと構えていればいい」
ギルバートが親しげに相手を語るようすに、アンジェリカは目を瞠る。
「あの、では……?」
ギルバートは苦笑した。
「ああ。――おまえの婚約者は、エリオット・ローガンだ」
アンジェリカが息をのむ。
両手で口をおおい、驚愕して目を見開く。
ギルバートは苦笑し、目を伏せる。
彼女が驚くのも無理はない。
かりそめとはいえ、顔見知りていどの無愛想な男と、いきなり婚約しろと言われる彼女の心情はいかほどだろうか。
「年も離れているし、あんな熊みたいな男など願い下げだろうが、共犯者としてこれ以上の適任はいない。つらいだろうが、どうかしばらくだけ我慢を――」
目をあげたギルバートは、言葉をうしなう。
アンジェリカが頬を色づかせ、どこか夢見がちな瞳で、ふんわりと微笑んでいた。
「エリオット様が……うれしいです……」
うっとりとした口調に、ギルバートは思考を止めた。
ギルバートの直観力は鋭敏だ。
かぞえきれないほどの死線をくぐり、極限状態を何度も体感してきたことで、否応なしに研ぎ澄まされてきた。
そのするどい勘が言っている。
――これ以上考えるな。死ぬぞ。
固唾をのむギルバートに気づいたように、アンジェリカがパッと居住まいを正した。
「知っている方で、とても心強いです。ありがとうございます、お兄様!」
花がほころぶような笑顔に、ギルバートはぎこちなくうなずく。
「う、うん……喜んでもらえて、うれしいよ……」
「よ、喜ぶだなんて! お兄様ったら!」
アンジェリカが思いきりギルバートの腕をたたく。
「――いっ!?」
それがちょうど治りかけの傷のうえだったために、ギルバートは痛みに声をもらす。
「あっ、もうしわけありません!」
「だ、だいじょうぶ……」
語尾が消えたギルバートを気にも留めず、アンジェリカが、ほう、と息を吐く。
「エリオット様となら……どんなことでも、できる気がします」
ぴしり、とギルバートが固まる。
――どんなことでも!? できるってなにが!? 婚約者のふりのことだよね!?
さわがしい胸中に反して、ぱくぱくと動く口からは一言も出てこない。
かわりに涙がにじんできて、あ、これはきっと腕の痛みのせいだ、と自分に言い聞かせながら、ギルバートは温室の天井ごしに快晴の空をあおいで、現実から逃げるように瞼を閉じた。