かりそめの選択肢
彼の流す血が、地面をどす黒く変色させる。
それでもなお暴れる体を、エリオットは上から押さえつける。
これ以上、出血させるわけにはいかない。
「ギルバート!」
大声で名を呼ぶが、彼の耳には届かない。
ならば、とエリオットは目を伏せる。
左耳に魔力を流すと、開けたばかりのピアスホールが熱くなった。
『ギルバート、落ち着け。止血をする。動くな』
通信術具で、彼の鼓膜に響かせる。
ギルバートの動きが止まった。
あらい呼吸を繰りかえしながら、痛みに耐えるようにうずくまる。
エリオットは、彼から手をどけてつづける。
『イブリースと分離しろ』
ギルバートがきつく目をとじる。
しばらくして、背中から悪魔が離脱した。
無傷の悪魔は、ギルバートの惨状に目を見開く。
『ああ、ギル……なんてこと』
イブリースがよろめいて、膝をついた。
『その狂おしいほどの苦痛……極上の甘露だ』
恍惚とした表情で唇をなめる。
ギルバートが、ふるえながら顔をあげた。
「……どっかいけ」
イブリースは軽くふきだし、妖艶な笑みをつくる。
『めったにない御馳走をまえに、おあずけさせるつもり?』
「……『報酬』は、俺の苦痛……に、決めたのか」
ギルバートの問いに、パッと両手をあげて、イブリースが離れた。
『そんなわけないじゃん。僕はブレイデン公爵家で待ってるね。――今ならディナーに間に合うな。デザートにフォンダンショコラ、作ってもらおっと!』
陽気な声を残して、イブリースがふっと消えた。
入れ替わるように、ゼノとレスターが駆けてきた。
エリオットは、すぐさまギルバートを横たえ、傷を確認する。
いちばんひどいのは脇腹の爪跡で、治癒魔術により広がった箇所は肉がえぐれている。
側頭部と右腕には、めだつ裂傷。
数えきれないほどのちいさな傷は、いまは捨て置くしかない。
「灯りを追加します!」
ゼノが光球を増やす。
医療品を手にしたレスターが、ギルバートの右腕を検分する。
「圧迫止血でいけそうです。袖、切りますね」
ハサミをとりだし、迅速な治療のため、服の右袖を切りおとす。
あらわになった傷にガーゼをあて、手で圧迫して止血をおこなった。
ギルバートの左半身を診ていたエリオットが、ゼノに目をやる。
「ギルバートの脇腹に、治癒魔術をかけろ」
「――はい!?」
「人間のギルバートには、必要な処置だ」
ゼノは唖然としたまま、ぎこちなくギルバートを見やる。
痛みのためか、いつもの倍以上はするどい眼光のギルバートが、ゼノを見据えながら首を横に振った。
「あ、あの……」
困惑するゼノに気づき、エリオットがギルバートをにらむ。
「治療を嫌がらないでください。子供ですか」
「……知っているだろ。俺の体質を」
「傷を塞ぐのが先決です。貴方、このままじゃ死にますよ」
「……魔人の、自然治癒力は高い」
「自然治癒でなんとかなる範囲を超えています。――やれ、ゼノ」
エリオットが言い切る。
「やめ――」
ギルバートが声をあげた瞬間、エリオットがすばやく彼の口を手のひらでふさいだ。
「ギルバート団長。ゼノに停止命令をされるようでしたら、聖騎士の俺が、代わりに治癒魔術をおかけします」
「聖騎士なんですか!?」
おどろくゼノに、エリオットとギルバートが同時に視線を向ける。
聖騎士といえば聖属性の最高峰だ。
彼らが使用する聖魔術は、すばらしく高い効果を発揮する。
嘘か誠か、とれた腕まで治せるらしいという噂は、ゼノも耳にしたことがある。
「じゃあエリオット副団長の治癒魔術のほうが、確実じゃないですか」
「それでも、ゼノがいちばん適任なんだよ」
この状況のなか、マイペースにギルバートの腕に包帯をまいていたレスターが、口をはさむ。
ゼノは混乱する。
「なんでですか!?」
「魔人は人間だけど、魔属性だ」
レスターは、ギルバートの側頭部の傷を確認しながら、つづける。
「こんな状態のときに、つよい聖魔術を一気に浴びると命にかかわる。つまり使う治癒魔術は、弱ければ弱いほどいい」
「……レスター先輩は、治癒魔術は得意ですか」
「俺か? 幸運値が高いから、強く作用するな」
それでは、ゼノが術者になるしか道はない。
希望が潰えて、途方に暮れるゼノは、もういちどギルバートを見やる。
エリオットの手をひきはがしたギルバートは、射殺すような目でエリオットをにらんだ。
その視線を受けるエリオットは、涼しい顔でギルバートを見下ろす。
「……殺す気か」
「おなじことです。ゼノの治癒魔術を受けなければ、貴方はもたない。どうせ死ぬなら、俺の治癒魔術をためしてからでも遅くはない。――どちらにしますか」
ギルバートの顔にはどちらも嫌だと書いてある。
それでも、彼の口から反論が飛び出すことはなかった。
「……ゼノ、たのむ」
ギルバートが、しぼりだすような声で選択する。
ゼノは覚悟を決めた。
「――わかりました! 団長、失礼いたします!」
ギルバートの騎士服を勢いよくめくって、腹の傷に両手をあてる。
ゼノが両手が光って、治癒魔術が発動された。
えぐられた腹が再生していく。
肉が盛りあがり、ギルバートの傷がすこしずつちいさくなっていく。
反比例するように、ギルバートの顔色はどんどん悪くなっていく。
彼は額に脂汗をうかべ、押し殺したうめき声をあげて、きつく目をとじた。
ギルバートが本能的にゼノの手を振り払ったのは二回。
三回目の時に、エリオットとレスターが彼の四肢を押さえつけたため、ゼノは冷や汗が止まらない。
抵抗できない人間に、よってたかって無体を働いている気分だ。
自分が施行しているのは治癒魔術であることを、何度も胸中で確かめた。
「あ。団長が暴れるから、うでの傷がひらきました」
ギルバートの腕を押さえていたレスターが、包帯に血がにじみでるのを見て、かるい調子で告げる。
「あばれて……など……」
「もういちど、止血しますね」
レスターは包帯のうえから、ギルバートの傷をおさえる。
「体に力を入れすぎです。リラックスしたほうが痛くありませんよ」
「そういう……ことじゃ……ぅ」
「はいはい。深呼吸、深呼吸」
汗ではりつくギルバートの前髪を、レスターが指で梳いてどかす。
「わあ。感動するほど顔がいい」
「……なんだそれ」
レスターの軽口に、ギルバートの力がすこしだけ抜ける。
「うでの傷は縫合したほうがいいんですけど、道具も技術も無くて。すみません」
「べつに……いい」
「腹のほうは、だいぶ塞がってきましたよ。あとは楽しいことを考えていれば終わります。妹さんの笑顔とか」
ギルバートの気配がゆるむ。
それでゼノの肩の力も抜けた。
すこしずつだが、傷の治りは順調だ。
これなら、レスターがギルバートの気をそらしているうちに終わる。
ゼノが安堵したとき、ギルバートの体がおおきくビクついた。
苦悶の表情を浮かべ、小刻みに震えながら、首を左右に振る。
血の気がひいた顔は、青を通りこして、もはや白い。
「やばくないですか!?」
手を止めたゼノに、エリオットがごく当たり前のように促す。
「傷が塞がるまで続けろ」
「え!?」
「こいつの体質の問題だ。気にするな」
「いや、でも」
動揺するゼノの前で、ギルバートの喉が痙攣し、コポリと音を立てた。
エリオットが冷静に、ギルバートの顔を横向きにする。
なにを、と疑問に思った直後、ギルバートが嘔吐した。
「吐きましたけど!?」
吐しゃ物が喉に詰まらないための措置だ、と頭では理解できたが、エリオットの一連の動作が慣れすぎていて、ゼノは恐怖しか感じない。
「血は吐いていない。まだ大丈夫だ」
「まだ!?」
ゼノが救いを求めるようにレスターを見る。
彼は慈愛的な笑みをゼノにむけ、「がんばれ」と口パクで伝えた。
先日の聖水ぶっかけ案件に続き、治癒魔術の強制施行。
――俺はいつか、本気で団長に殺されるかもしれない。
ストレスからか、軽いめまいにおそわれながら、ゼノは半泣きで治療をつづける。
――ふさがってくれ。一秒でもはやく!
治療が長引けば、ゼノの心臓の方がもたない気がした。
「――ふさがりました!」
「よくやった」
終わった、と気を抜いたゼノは、腰が抜けた。
グラグラと頭がゆれて、そのまま後ろに倒れこむ。
「どうした、ゼノ」
「きゅうに、きぶんが……」
レスターがゼノの額に手をあて、瞳の状態を確認する。
「魔力切れだな」
「あ……これが……」
冷や汗が止まらず、天地が混ざるほどの眩暈に、目をとじた。
それでも脳内がぐるぐる回って、気持ち悪さにたまらず呻く。
「安静にしていろ。しばらくすればマシになる」
レスターの言葉に、ゼノはエリオットを見上げる。
「……やすんでから、かえります」
エリオットはうなずき、レスターに目をやる。
「レスター、ゼノについてやってくれ」
「はい」
エリオットがギルバートを担ぎあげる。
弱弱しくもがく彼に、エリオットが眉を動かした。
「以前より軽いな。吐いた分、あとで余計に食べてくださいね」
「ふ、ざけるな。だれの、せいだと」
「単身で敵につっこみ、大怪我を負った貴方のせいです」
ちからなく唸ったギルバートが、目をとじる。
エリオットが荷物のように竜の上に置いたときには、すでに彼の意識は無かった。
「任務完了。帰還する」
「あの、おれのせいで、団長がしぬことはないですよね……?」
おそるおそるゼノが問う。
「死にはしない。こいつは見た目より頑丈だ」
頓着せずに言い放ったエリオットが、慣れた動作で竜に騎乗した。
騎士団本部の鐘が鳴る。
残響は冷たい風に乗り、夕闇の空まで響きわたる。
そのなかを滑るように飛ぶ影が、障害物をよけて着地する。
騎士団本部の手前、ひろく芝生が敷かれた中庭は、たよりない外灯が数本揺らめくだけだ。
鞍から降りたエリオットは、時計塔を見上げ、眉間に深い皺を刻む。
凍ったように動かないギルバートを見やり、しばし黙考し、上着を脱いで彼の頭にかぶせた。
上着を落とさないよう、彼の背中と膝裏に腕を入れて持ちあげる。
建物に足を踏みいれる前に、もういちど腕の中を見下ろす。
彼の顔と蜂蜜色の髪の一本もみえていないことを確認し、二階の医務室をめざした。
退勤時刻を過ぎたばかりの騎士団本部は、日勤を終えた騎士たちであふれていた。
血まみれの騎士を抱えたエリオットに、何事かと視線が集まる。
それらをすべて撥ね付けるように、可能なかぎりの早足で進む。
エリオットの剣幕に、足を止める騎士たちが道をあけた。
階段にさしかかり、目線をあげると、三人の騎士が降りてくるところだった。
エリオットに気づいた彼らが、互いをつつきあってにやける。
きびすを返す間もなく、エリオットは屈強な騎士たちに囲まれる。
彼らは下卑た笑みを貼りつけ、いっかな道をあける気配がない。
「……怪我人だ。通してくれ」
「そりゃあ大変だ。俺たちが手伝ってやろう。……で、それは誰なんだ?」
ちらりと見た胸章は第二騎士団。
粗暴な彼らは、他部隊と揉め事を起こすことが多い。
「必要ない。道をあけろ」
「こわいこわい。なんて横柄な態度だ」
「同じ騎士として、心配してるだけなのに」
「なあ。だから、その中身が誰なのかを教えてくれよ」
彼らはエリオットが抱えている騎士に、異常なまでの執着をみせた。
さまざまな厄介事を危惧して、ギルバートを上着でかくしていたが、遭遇した騎士が予想以上にまずい相手だった。
「あんた、竜騎士団の副団長だろ。聞いてくれよ。今日、ギルバート団長にいじめられたんだ」
エリオットが、かかえる腕に力を込め、彼らをにらむ。
その様子に、三人が盛りあがった。
「さっすが忠犬。心配しなくても取ったりしねぇよ。ただ、なあ?」
「ああ。そいつが俺の顔見知りじゃないかと、心配で心配で」
「俺ら優しいから。どこかの団長さんと違って」
のびてくる手を、エリオットが避ける。
はずみで、上着からギルバートの右腕がこぼれた。
たれさがる腕はだらりとして、当人の意識喪失を物語る。
二の腕に巻いた包帯もろとも、指先まで血で真っ赤に染まっている。
騎士たちが、血を見てさらに興奮した。
「血が赤いぞ! 青や緑ではなかったのか!」
「いや、だからまず、本人か確かめてみようぜ」
「死にかけの面を拝ませてくれよ!」
はやしたてる三人に、エリオットは奥歯をかみしめる。
現状を打破する方法が、なにかあるはずだ。
この状態のギルバートを、絶対に奪われるわけにはいかない。
「何をしているのです!!」
階上から叱責がとんだ。
「同士で揉め事ですか! 騎士団本部ですよ、控えなさい!」
するどい声音は、人の上に立つ者の、命令しなれた響きがある。
堂々と階段をおりてくる彼に、三人の騎士がたじろいだ。
「――宰相閣下」
「君は、エリオット副団長」
そうして、エリオットが抱える人間――血まみれの腕の持ち主に勘づく。
「すぐに医務室に」
「はい」
「私も付き添いましょう」
「ありがとうございます」
宰相が進めば、自然に道はひらけていく。
今はそれがありがたかった。
「以後、このようなことは控えなさい。次はありません」
宰相が振りかえり、三人の騎士に冷たく言いはなつ。
厳重注意を受けた騎士たちは、三下の悪役のように逃げていった。
ギルバートにかけた上着はそのままに、ふたりは回廊をすすむ。
「王都の病院に運んだほうがいいのでは」
「いえ。彼は特殊な体質ですので、主治医のほうが適任です」
エリオットは、会話で宰相に示唆する。
「大丈夫なのですね?」
医務室の前で、立ち止まった宰相が問う。
見返すエリオットの目は強い。
「死なせはしません」
「よろしい」
「宰相閣下」
いっそ苛烈なまでの翠眼で、エリオットは宰相をまっすぐとらえる。
「無礼を承知で申しあげます。彼を軽率に煽るのは、おやめください」
「なにやら、誤解があるようですね」
「このままではいつか、本当に取り返しのつかないことになります」
やんわりと否定する宰相にも、エリオットは頑なに訴える。
腕の中の相手は微動だにせず、伝わってくる体温だけが、彼の生きている証だ。
それすら失う未来など――。
「耐え切れません。――それだけは」
めずらしく感情をあらわにするエリオットに、宰相が一瞬ことばに詰まる。
「……留意しておきましょう」
エリオットが、無言で一礼する。
そのとき、医務室の扉が、内側からひらかれた。
「――やっぱり! リオくんの声だった」
「ブラットリー副所長」
「あれ、宰相のおじちゃんも……って、リオくんそれ!?」
「怪我人です。大至急、処置をお願いします」
「ああー、血がもったいない! これだけあったら、研究が進んだのに!」
血だらけの騎士服にブラットリーが嘆くが、すぐにエリオットの背中を急かすよう押した。
「リオくん、早く入って! じゃ、おじちゃんまたね」
ブラットリーが手をふり、扉をしめた。
宰相は回廊をもどりながら、さきほどの会話をおもいだす。
「――流石は忠犬」
彼の二つ名に納得しながら、思考をめぐらせる。
最強の竜騎士団長に、辣腕な副団長。
注意を払うべきは、どうみても後者だ。
なんにせよ、彼らがいるかぎり騎士団は安泰であり、それはこの国の安寧に直結する。
――有事の際における国の方針は、練り直しですね。
手間がかかることには違いないが、宰相の口元には笑みが浮かぶ。
有能な若人が多いほど、国の未来は明るい。
それはこの国を導く側の宰相にとって、喜ばしいことこの上ない、果報とも呼べる事柄であった。