アンジェリカと朝食を
着替えを終えたギルバートが、鏡のまえに立つ。
自分の姿を360度確認して、誇らしげにうなずいた。
「どこからどう見ても、理想の兄だ」
すっきりとした顔つきで、ビシリと身なりを整えたギルバートは、たしかに見目が良かった。
蜂蜜色の髪に、涼やかな碧眼もあいまって、貴公子然としている。
朝食用のプライベートダイニングルームは、浴室と同じ階にあるために、長い廊下を進めばすぐだ。
颯爽と歩くギルバートの姿に、若い使用人たちが頬を染めて頭を下げる。
通路の端に控えた彼女たちは、ギルバートが去ったあとに、手をとりあって小さく歓喜の声を上げた。
「おはよう、アンジェリカ!」
廊下の先に最愛の妹の姿をみつけ、ギルバートは足早にかけよる。
ふりかえったのは、ゆるやかな金糸の髪に、宝石のような碧眼をもつ、うつくしい少女だった。
「おはようございます、お兄様」
期待を裏切らない澄みきった声は、耳に心地良い。
ギルバートはとろけるような笑顔をうかべ、アンジェリカに手を差しのべる。
アンジェリカが白い手をかさねた。
使用人たちは心得たように扉を開ける。
ギルバートのエスコートで、アンジェリカはプライベートダイニングルームに入室した。
上座で新聞を読んでいた男性が顔を上げる。
となりに座る女性が、ふたりを見てほほえんだ。
公爵家当主であるディビット・ブレイデンと、その妻のクリスティーナだ。
年の頃はどちらも四十代半ば。
ギルバートとアンジェリカが、優美なお辞儀をする。
『おはようございます』
声をそろえて挨拶をする兄妹に、公爵夫妻はおだやかな笑い声をあげた。
「知らぬまに、舞踏会場にまぎれこんでしまったかな」
「よくご覧になって。あれは私たちの素晴らしい子供たちよ」
「なんと。まぶしくて、目がくらんでしまったようだ」
ふたりは、子煩悩で仲のいい夫婦として知られている。
ギルバートは、アンジェリカを席までエスコートすると、彼女のとなりの席についた。
使用人が朝食をサーブする。
目に鮮やかなサラダやオムレツのとなりには、あっさりとした味付けの肉料理や魚料理がならぶ。
編みこみバスケットの中には、香り豊かな焼きたてパンがつまっている。
窯で直焼きをしたハースブレッドに、マフィンやベーグル、クロワッサン。
あらびきヘーゼルナッツのパンに、かぼちゃパンやくるみパン。
アンジェリカのそばのパンバスケットには、スコーンやブリオッシュ、アップルカスタードにキャラメルデニッシュなど、甘味があるものが多い。
ジャムやバター、はちみつにクロテッドクリームまでが添えられ、ひろいダイニングテーブルが、料理であふれかえった。
クリスティーナが、スコーンを手にとり、アンジェリカに話しかける。
「学院はどう? アンジェリカ」
「とても楽しいです。先週は、魔術と魔法について学びました」
「あら、そのふたつは、どうちがうのかしら?」
小首をかしげ、ふしぎそうに問う。
アンジェリカは、すこしかんがえてから話しだした。
「発動の条件がちがいます」
「条件?」
「はい。魔術は、術式を構築し、展開します。魔法は、魔力を糧に直に発動させます」
聞き慣れない言葉に、クリスティーナが苦笑する。
「むずかしいのね」
説明のしかたがわるかったことに気づき、アンジェリカは次に教師の言葉をなぞる。
「いちばんかんたんな覚えかたは、人が使うのが魔術で、悪魔や魔獣が使うのが魔法です」
「じゃあギルバートは魔術で、イブちゃんは魔法ね」
イブちゃん、とはギルバートが使役する悪魔、イブリースだ。
ギルバートが生まれた時からそばにいるので、ブレイデン家ではすでに家族のようなあつかいになっている。
「そうだとおもいます」
伝わったことがうれしくて、アンジェリカがふわりと笑った。
「アンジェリカは、よく勉強していて、とても偉いね」
ギルバートは、慈しむようなまなざしで、アンジェリカを褒めたたえる。
「私など、お兄様にくらべたらまだまだです」
「謙遜する必要はないよ、アンジェリカ。それともまさか、だれかに俺と比べるような発言をされたのか?」
いたわるような声音だったが、彼の目は真剣だった。
バキリ、と音がして、ギルバートの手のシルバーのフォークが折れた。
壁に控えていたロベルトは、表情を変えずにフォークを交換する。
ギルバートが激昂したときに、無意識によくやるやつで、今月に入って三本目だ。
なんでも力をいれすぎた部位の魔力濃度が、一時的に上がってしまうとかなんとか。
折れたカラトリーは無残に黒ずんでおり、まるで消し炭のようだ。
アンジェリカは小首をかしげる。
「いいえ。ですが、ブレイデン公爵家の一員として、恥ずかしくない成績をとりたいと思っています」
「すばらしい心がけだね、アンジェリカ。だけど、がんばりすぎてはいけないよ。休むときには、しっかり休むことも大切だ」
会話を聞いていたディビットが、たまらず口をはさむ。
「おまえがいうのか、ギルバート」
「妹をいたわってはいけませんか」
幻聴かと思うほど、冷たい声音だった。
アンジェリカに語りかけるときの、温かみのかけらすら無い。
ディビットには目もくれず、ギルバートはアンジェリカに笑いかける。
「ところでアンジェリカ、つぎの週休みは、いつになる?」
週休みとは、国立魔術学院が独自に定める休暇のことだ。
奇数月の、一週7日間が休みになる。
全寮制の国立魔術学院には、実家が遠い者もいる。
そういう生徒のために、週休みができた。
アンジェリカは、学院の予定表を、頭のなかに思い浮かべた。
「来月の、二十日から二十六日です」
「では、ひさしぶりに、一緒に別荘に行かないか?」
アンジェリカの顔が、パッと華やいだ。
やさしい兄と過ごす時間は、楽しく心地よい。
話したいことも、聞きたいこともたくさんある。
二つ返事でうなずこうとしたが、兄が多忙であることを思い出す。
「あの、でも……お兄様は、お忙しいのでは」
「だいじょうぶ。なんとしてでも、ぜったいに、7日間の休暇を、もぎとってみせるから」
ギルバートが、一言ずつはっきりと発音する。
握りしめすぎたシルバーのスプーンが、バキリと折れた。
壁に控えていたロベルトは、顔色を変えずにスプーンを交換する。
坊ちゃんのカラトリーだけ、安い銀メッキでいいのでは、と本気で考えた。
兄妹の会話に、ディビットがまたもや口をはさむ。
「ギルバート。その二週間後には、建国記念祭がひかえている」
「それがなにか」
「竜騎士団長のおまえが、そのような時期に休暇をとれるはずがない。あきらめなさい」
その忠告を、ギルバートは鼻でわらう。
「勇猛果敢な父上の背中を見て育った俺には、やるまえからあきらめるなど、到底できません」
「くれぐれも、国王をおどすのは、やめなさい」
「人聞きがわるい。こんなにも国に尽くしている、俺の忠誠心を疑うのですか?」
心外だ、というようにギルバートはゆるく首をふる。
会話を切り上げ、壁に控えるロベルトを、手を軽くあげて呼んだ。
「珈琲をたのむ」
「かしこまりました」
ロベルトは、ギルバートが好む、コクと苦味がある珈琲を準備する。
彼の前にサーブしたあと、年若い執事に目配せをした。
目礼した執事は、銀の盆に書簡をのせて、ギルバートにさしだす。
カップを傾けながら、ギルバートが書簡を手に取る。
裏を返した瞬間、ぐしゃりと握りつぶした。
「どうした、ギルバート」
息子の奇行に、ディビットはおもわず声をかける。
「いえ。クソ……陛下の封蝋に、手がふるえました」
ジジィという言葉を飲みこんだギルバートに、ディビットがあきらめたように告げる。
「……より不敬に聞こえるから、気をつけなさい」
ギルバートはその忠告を聞き流し、つぶれた書簡をテーブルに投げる。
ディビットは片頬をひきつらせた。
「なにをしている。至急、内容を確認しなさい」
「おそれおおくて、できません」
「やるんだ、ギルバート」
「では、これを飲んだあとに。心をおちつけないと、開封できませんから」
ギルバートはカップを軽くかかげる。
そして書簡めがけて、中身をぶちまけた。
「たいせつな書簡に珈琲をこぼしてしまった! これではもう読めないな」
わざとらしく大声で話すのは、この場にいる人間を証人に仕立てあげるためだ。
腹黒貴族がよく使う手に、純粋なアンジェリカが心配の声をあげる。
「だいじょうぶですか、お兄様」
「ああ、なんということだ! となりに天使がいるのかと思ったよ。兄の身を案じるとは、なんて慈悲深いんだ。俺はだいじょうぶだ。ありがとう、アンジェリカ」
甘い声音でほほえむギルバートのうしろで、使用人たちが手早く後始末を終える。
その手慣れた様子は、これが日常茶飯事であると物語っている。
「ギルバート」
ディビットが、咎めるように、その名を呼ぶ。
差出人が国王など、本来なら無視がゆるされる相手ではない。
場合によっては公爵家の問題となってしまうため、当主である彼には見逃すことができない案件だ。
「俺の不注意です。もうしわけありません」
ギルバートは胸に手をあて、しおらしくディビットに謝罪する。
不注意で珈琲をこぼし、書簡が読めなくなった。
そういう筋書きで、国王からの書簡を無視するつもりだ。
「朝一番で、陛下に謝罪してきなさい」
「まさか。俺の不手際で、国王陛下のお手を煩わせるわけにはいきません」
「おまえの手元に書簡が届いてないとなれば、ブレイデン公爵家の質が疑われるのだぞ」
「聞かれたら言います。ほんとうに重大な要件ならば、ほっといてもそのうちわかります」
ギルバートが立ちあがる。
「仕事がありますので、これにて失礼させていただきます」
「まちなさい、ギルバート」
「まだなにか?」
ギルバートがディビットを見つめる。
その瞳はまっすぐ、真摯に、ひたむきに。
いっそ無邪気なまでの透きとおった瞳に、ディビットは言葉に詰まる。
愛妻家で有名な彼は、妻に似た涼やかな碧眼で見つめられることに、とても弱かった。
「……つぎから、気をつけなさい」
「もちろん。じゃあね、アンジェリカ」
「はい、お兄様。おしごと、がんばってくださいね」
「ありがとう!」
アンジェリカにだけ愛想のいいギルバートに、ディビットは閉口する。
強くたしなめることができない主人に、存在感を消しながら一部始終を見ていたロベルトは、胸中でおおきなため息をつくのであった。