いきはよいよいかえりはこわい
「なんで、どうして。」
暗い、石畳の上で制服の少女は一人蹲る。
どれほどの時間が経ったかもわからない。
なぜ自分がここにいるのか、
どのように自分がここに来たのか、
どこから自分がここに来たのか、
ましてや帰り方なんてもっと、わからない。
「お嬢さん。どうしたの。」
どれぐらいそうしていたのか、少女はふいに上からかかった声に顔をあげた。目に飛び込んで来た信じられない光景に、思わず出そうになった声を飲み込むも、恐怖に視線を外せない。
「そんなに怖がらないで。このお面が怖いかい。」
少女の2倍はあるだろう大柄なそれは、首を傾げてお面を指差した。
首を横にふりながらも細い肩は震えている。
どう考えてもヒトではないそれが、面をつけて自分にわかる言葉を発している。その事実が怖いのだと、少女が口にする事はない。
「口がきけないのかな。ひとまずうちにおいで。いきなりとって食ったりしないから。」
そっと肩に手をおいて、少女を引き寄せて歩き出す。
先程まで真っ暗だった道には、いつのまにか鬼灯がオレンジ色に妖しく光っていた―――。
✳︎
―――夏を制するものは受験を制する。
誰が言い出したかわからないが受験生を駆り立てるうまい文句だ。つい先日まで部活に追われていた少年少女は、待ってましたとばかりにヤキモキする親達に、塾に講習、勉強合宿と現実に引き戻される。
1週間前に中学生最後の夏の陸上大会を終えた犬塚桃も多分に漏れず夏季講習のために母親に叩き起こされた。
「桃!いつまでだらだらしてるの!暑いんだから雪ちゃんを待たせちゃだめよ。」
先日までは、あと一歩記録が届かなかった私を慰めていた母も、すっかり気持ちを切り替えたようにお尻を叩いてくる。
「はぁい。」
とはいえ、桃自身も悔しさはさておき、昨日遅くまでバラエティーを見ていて、しっかり朝練の無い夏休みをエンジョイしているため、切り替えの速さは母譲りだ。
ダラダラと身嗜み整えコンタクトを入れる。
参考書と携帯、充電器と鏡。あとはなぜか鞄に入れっぱなしのクラッカー……
「桃!!」
「はいはい!!」
必要なものはとりあえず持ったので、帰ってから鞄の整理をしよう。
サンダルか、スニーカーか悩んで服装からスニーカーをチョイスする。
「行ってきます!」
「きをつけてね。」
お弁当を受け取りながら、母親に手を振った。
✳︎
ICカードを改札にかざして通り抜ける。初めて向かう駅なので間違えないように乗り換えアプリとホームを何度か確認して電車に乗り込んだ。
今日から隣の市の大きな塾で夏季講習だ。雪とは駅で待ち合わせしているため、初めて一人で電車に乗る。無事に合格したら4月からは一人で電車通学か、と思うと気が早いながらドキドキする。
2駅目で降り立つと、爽やかな風がホームを通り過ぎた。8月もお盆を越すとセミが最後の力を振り絞るようにうるさく泣いている。
「雪お待たせ。」
「今きたとこだから大丈夫。」
「そういえば、昨日のこれ、どうしたらいいかな。」
鞄に入れたままのクラッカーを取り出す。
クラスメイトの誕生日に用意して、余ったものをそのまま持って帰ってしまった。
「私も。桃にあげる。帰って麦と遊べばいいよ。」
麦とは、桃が飼っている芝犬だ。犬にクラッカーはあまり良くない気がするが、あとでスマホで調べよう、と、雪からもう一つクラッカーを受け取った。
「ねぇ、昨日のテレビ見た?」
「見てない!動画見てた!そんな面白いのやってた?」
「夏の心霊特集ってやっててさ、すごい怖かったよ。」
「桃怖がりなのに、そういうの見たがるよね。」
「怖いもの見たさ。」
「どんな内容だったの?」
「昔の都市伝説と今の都市伝説の比較みたいなやつ。
昔は電話ボックスとか、電車でどこかに連れてかれちゃう。とかそういう都市伝説が多かったみたい。」
「電話ボックス?」
「スマホがある前は、公衆電話が色んな所にあったらしいよ。」
「へー。不便な時代だね。」
アスファルトから上がってくるうだる暑さに汗を拭いながら、中学生女子のおしゃべりは止まらない。結局塾の教室に入ってからも、ずっと話続けていた。
✳︎
夏季講習は5時のチャイムが鳴る頃に終わり、外はまだ明るい。
「桃、駅前のハンバーガーショップ寄ってかない?お腹すいちゃった。」
「いいね。」
夕ご飯までまだ時間があるが、すっかりお腹が空いてしまった。犬塚家の晩御飯は帰宅する父親を待つため、いつも7時前後だ。育ち盛り食べ盛りの体育会系があと2時間も待てるはずもなく、雪の誘いに乗った。
「ダブルチーズハンバーガーセット!ポテト大きいサイズで。」
「ねぇ、なんでそんなに食べるのに細いのー。」
雪は、ハンバーガーとSサイズのポテトを口にしながら呆れたように眺める。
「運動量が違うからね。」
「でも部活終わったんだから同じペースで食べたら太るでしょ。」
「量は減ったけど、夜はちゃんとトレーニング続けてるよ。」
「偉すぎる。高校でも陸上は続けるんだ。」
ポテトを取る手を止めて首を傾げながら曖昧に微笑む。
「そうだねぇ。上には上がいっぱいいるからね。」
「ふぅん、まぁ、高校生になったらやりたいこといっぱいだよね。」
「隣の席の男子と恋に落ちたり?」
「古いんだよなー。」
最後の夏が一瞬で終わる感覚、毎日積み上げたものが一日で無くなる感覚はまだ新しい。意図を汲んで流してくれた雪に感謝しつつ、またチーズバーガーにかぶりついた。
「改札まで送っていかなくていいの?」
「いいよ!まだ明るいし、雪こそ気をつけてね。」
ハンバーガーショップの前で手を振って別れる。
ICカードで改札をくぐり、行きとは逆のホームに立つ。反対側のホームに比べて随分人が少なく感じるのは、都心部からの帰宅ラッシュだからか。
ちょうど到着した電車に乗り、ガラガラな車両の端に座った。走り出すと共に窓の外を見ると、行きと違う光景に乗る電車を間違えたことに気がついた。
(だから人が少なかったのか。)
同じホームから違う行先の電車が出ているようで、うっかり確認せずに乗ってしまった。
(仕方ない、次の駅でおりよう。)
ため息をつき、普段乗ることの無い電車からの風景に興味を移す。少し走っただけで田園風景が広がり、夕焼けに照らされる青々しい光景に、たまには間違えるのも悪くない、とポジティブに捉えたのも束の間、降りるはずだった1駅目をすぎたことで急行だったことを知る。これはしばらく停まりそうにないと椅子の背にもたれると、急激な睡魔に襲われた。
(だめだめ、着いたらおりなきゃ…なん…だから…)
先程食べたハンバーガーが良い感じにお腹に落ち着いて、昨夜の夜更かしにとどめを刺す。寝てはダメだと思う程に眠気が増し、桃はとうとう意識を手放した。
✳︎
ふ、と目を覚ますと向かいの窓の外が見えない程度に人が増えており、慌てて後ろの窓を振り返る。日は沈んだが、まだ空は群青色でそれほど長い時間眠っていなかったことにほっとする。どれぐらい来てしまったのかと外の景色に目を向けると、見覚えのない山間が続いていた。駅で駅員さんに帰り方を聞かないとわからないかもしれない。
もう一度外の景色を見るとゆっくりとスピードが落ちて行き、到着が近いことを悟る。同時にスピードが落ちたことで外の景色を見ることができ、線路よりも低いところにある橋に気がついた。正確には、橋の上にいる少女に気がついた。少女はじっとこちらを見ており、まるで目があったかのような奇妙な感覚に陥る。
「次は●●●、●●●。」
駅名が聞き取れなかったが、アナウンスの声に慌てて立ち上がる。一斉に視線を浴びた気がして顔を上げたが、誰もこちらを見ていない。気のせいか、とドアの前に立ち、ドアが開くのを待った。
いつもの車内と何かが違う。違和感はありつつも、それが何かわからない。車体がホームに滑り込み、到着すると同時に違和感の正体が判明して、思わず声が出た。
「あ。」
声が、反響する。
車内から1歩を踏み出しながら、あまりに静かな車内を怪訝に思い振り返った。刹那、車内の乗客達と目が合う。乗客全ての目がホームに降り立った桃に注がれていた。
この不気味な乗客達に鳥肌が立ち、思わずひゅっ、と短く息を吸い込んだ。ホームはすっかり夕闇に沈んで、電車からの目線だけが嫌にはっきり浮かんでいた。
「何ですか!?」
嫌な感覚を消すように車内に向かって声を張り上げるも、途中でドアが閉まり電車が出発した。
逆光で顔が見えないはずなのに、何故か電車が通りすぎるまでまとわりつくような視線を感じた。
「何なの。もう。痴漢?気持ち悪くて最悪。」
桃はぶつぶつと文句を言いながら、乗り換えアプリを検索しようと駅名を探す。ホームに立った駅名の看板には、桃が読めない字が羅列していた。
「落書き?かすれちゃってるのかな?読めない……。」
ホームを見回しても人の気配がしない。暗いホームには白色灯だけが弱々しく光っている。これだけ人の気配がないと、改札まで行っても人がいない可能性もある。念のため看板の写真を撮っておいた。人がいなかったときに母親に写真を送って聞くためだ。
携帯はかろうじて電波が1本だけ表示されていたので、ダメ元で母親にメッセージを送っておいた。
改札に向かって歩く途中で、待合室を見つける。日頃田舎の待合室を見かける機会が無いからか、好奇心をそそられて室内を覗くと、大学ノートがポツンと置いてあった。この駅を訪れた人が何かを書くためのもののようで、パラ、とめくると1ページだけ書き込みがあった。
「改札を出る時は煙草を1本、必ず持って行ってください。絶対です。」
絶対と言われても、未成年、ましてや中学生で優等生の桃が煙草を持っているはずもなく、そもそも改札を出る気はないので、全く必要の無いものであるが、その書き込みの横に6本の煙草がセロテープで貼り付けられているのを見て、逡巡の後に1本と横においてあったマッチも鞄の中に入れた。吸い方もつけ方ももちろんわからないため、全く不要な気はしたが、絶対と言われると不思議なもので、持っていた方が良い気がしてくる。ありがたく頂戴して、改札の方に向かった。
改札は階段を下った先にあるようで、ホームの向こう側へは改札を出ないと渡れそうになかった。ICカードを使えるか不安に思いながら改札に行くと、やはり駅長室の奥には誰もいなかった。都会育ちの桃には見慣れない、切符を入れて出ていくだけの改札に、悩んだ末、元の駅で精算してもらおうと改札を通り抜けた。
✳︎
「おかしいなぁ。」
改札を出てから向こうのホームに渡るための階段を上がるが、上がれども上がれどもホームにつかない。真っ直ぐ進む階段を上り続けていると、目の錯覚で足を踏み外しそうになり、慌てて手すりを掴んだ。どこまで続くかわからない不安から、やはり元のホームに戻ってみようかと下をみるも思った以上に高くて足がすくむ。悩んだが、またこの階段を上ることと、どこまで続くかわからない不安感を天秤にかけ、上を目指して上り始めた。
階段を5階分ぐらいは上っただろうか。先日まで陸上部だったとはいえ、さすがに息が上がってくる。
「はぁ、はぁ、……あっ。」
上の方で明るい光が見える。
「良かった。」
安堵の息をついた後、ラストスパートと言わんばかりに駆け上った。
「ついた!!」
元気よく地上に出てみれば、想定していた反対側のホームとは、全く異なる景色が広がっていた。
先程まで暗かったホームが嘘のように、真っ赤な夕陽に染まった境内、そこは赤い鳥居の神社だった。
「なんで?ここどこ?ホームは?」
もしかして、反対側のホームに出るつもりが出口の階段を登ってしまったのだろうか。矢印の通りに進んだつもりだが自分が勘違いしていたのだろうか。慌ててまた改札に戻ろうとするも、上っている時は気にならなかった階段の暗さや、地の底から上ってくる風の音が不気味で一歩が出ない。
「もう一個の入り口無いかなぁ。」
ここが駅の出口なら反対側のホームに直結している入り口があるはず。せめてそちらから戻りたい、とキョロキョロ辺りを見回していると、鳥居の外側に階段が見えた。
「私が上ってきた階段と同じぐらい高いな。ここおりたら帰りの出口あるかな。」
しかし降りて迷子になっては元も子も無い。駅の出口が境内にあるぐらいだ、日中は人の出入りの多い、大きい神社なのだろう。人を探して聞いた方が早そうだ、と神社の奥へと進んだ。
✳︎
想定していたよりも大きな本殿に、思わず「わぁ。」と感嘆の声をあげ近寄った。赤い柱に白い塗り壁、所々に金の細工が彫られている。境内を赤く染める夕焼けと相まって、神秘的な神々しさが感じられた。
せっかく来たのだから、と近寄って、5円玉を投げ、鈴を鳴らし、二礼二拍手、
「お邪魔します。無事に帰れるようにお見守り下さい。」
一礼。さて、と顔を上げてキョロキョロと周りを見回すと、少し遠くの方に人影が見えた。電車の中で見えた少女と同じ年ぐらいだろうか、背格好がよく似ていた。
良かった、人がいた、とその少女に向かって歩き出したが、少女は反対にドンドン本殿の奥へと進んでいく。追いかけていいものか悩みながらも後をついていくが、中々追いつけない。
「あのっ。」
と、声を張り上げたところで、少女は本殿の裏側に回ってしまい姿を完全に見失った。やっと人に会えたと思ったのに、と落胆しながらも、どこにいなくなったのだろう、と辺りをぐるりと見回した。
「わっ。」
真後ろに狩衣を着た大柄な男の人が立っている。
お面を被った男は首を傾げなら自分のお面を指差した。
「そんなに怖がらないで。このお面が怖いかい。」
「驚いてごめんなさい。後ろに人が立っていることに気がつかなくて、怖かったわけじゃ無いんです。」
何かの病気でお面を被っているのかもしれない。気づかないとはいえ失礼な反応をしてしまった、と頭を下げた。狩衣を着ているということはこの神社の人だろうか。
「あの、間違えて駅を降りてしまったんですが、帰り方が分からなくて。この境内の階段と反対側のホームへの行き方を教えてもらえませんか。」
真っ白な能面をつけた男は首を横に振った。
「今日の電車は全て行ってしまったんだ。この神社の奥に私の家がある。よかったら泊まって行きなさい。」
桃は困ったように眉尻を下げた、
「あ、でも、初対面の方の家に泊めてもらうのは、母に怒られると思うので。宿泊先を紹介頂けませんか。」
「そう、じゃあ電話を貸してあげるから、ご飯だけでも食べて行きなさい。」
先ほどから圏外になっているスマホを指差して男は言う。確かに、何故かここはまだ明るいがファストフード店を出たのが6時だからかなり時間は経っているはずだ。心配しているだろう。一刻も早く家に電話をしたかった。
「じゃあ、お言葉に甘えて。でもご飯は申し訳ないのでお電話だけお借りします。」
「……ついておいで。」
能面の男はくるりと背を向けて歩き出した。歩き出した男の後ろ姿に感じた少しの違和感は、やっと人に出会えた安堵感からすぐに掻き消えてしまった。
✳︎
男は生い茂った獣道の奥へと進んでいく。先程まで山々まで赤く染める程だった夕焼けも暗く沈んできた。あたりはすっかり真っ暗で、いつの間にか男が持っていたランタンを頼りに後をついて行く。普通であれば通らないような道に、誘拐や、連れ込みの言葉が浮かび途端に不安が膨らむ。やっぱり神社に戻ります、と言うかどうか悩んでいるうちに純和風の建物が見えてきた。本当に建物があったことに、とりあえずほっとした。
男の家だというその平家は、塀に囲まれており、門を潜ると広い敷地の中にある大きな池に、赤い橋がかかっていた。橋の前で黒いセーラー服を着た女の子がこちらを見つめている。電車で目があった、そして先ほど見かけた女の子だった。
「さっきの。」
「もう会ったのかな?灯。同じ年ぐらいだろう。案内してあげなさい。」
男は少女にそう指示した後、桃を見てニコリと笑った。
「灯は口が聞けないんだ。こちらの声は聞こえているから心配しなくて良いよ。普段年頃の子と接する機会がないから、良ければ少しの間だけでも話し相手になってくれないかな。」
「あ、はい。」
知らない男の人の家なので警戒していたが、似たような年頃の女の子がいることで警戒心が緩まった。
「ありがとう。晩御飯もぜひ食べていくと良い。」
「こちらこそありがとうございます。お言葉に甘えます。あと、すいません。お手洗いお借りしていいですか。」
「かまわないよ。灯。」
黒髪おかっぱの少女は、男に了承の意味でお辞儀をした後、桃に目でついてこいと訴えた。
「じゃあ、また後でね。」
✳︎
「灯ちゃん、って呼んでいい?案内してくれてありがとう。」
桃は前を歩く灯に声をかけるが、灯は反応を示さない。声が聞こえてない、というわけではないらしいので、反応する意思がないのだろうか。
「電車乗り過ごしちゃってね。気付いたらこの駅にいたんだ。すごい長い階段だよね、びっくりしちゃった。」
ここに来るまでの経緯を取り留めなく話すも少女はこちらを見ない。トイレにつくと目でここだと指示された。
(人見知りなのかな。)
トイレから出てハンカチを取り出そうと鞄を漁っていると、うっかり鞄の中身をぶちまけてしまった。
灯も呆れたような目で、それでも鞄の中身を一緒に拾ってくれる。
「あなた、たばこをもっているの。」
コロコロと転がったタバコを手に取って、灯は囁くように、そう言った。灯が口を開いたことに驚きながらも「駅で、持っていくように書いてあったから。」と、経緯を説明する。
「そう、そうなの。……時間がないから端的に言う。」
灯はタバコを手渡しながら、桃の目をしっかり見つめた。
「ここで出されるものには口をつけないで。本名は伝えてはいけない。その時が来たら私と一緒に逃げて。あの男の前では私は喋れなくなるから。あいつらは、」
桃は目を瞬かせる。逃げる?どういうこと?頭が混乱し、どういうことかと重ねて聞くその前に、遠くに男の大きな影が見えた。心なしか神社で見たときより大きく感じる。灯は影に気がつくと隠すようにタバコを桃の鞄に押し込み、影に向かって頭を下げた。
「随分長いから迷ったのかと、迎えにきたよ。」
「すいません、私が鞄の中身を落としちゃって。」
灯は目線を合わせないように黙って横に立っている。
「じゃあこれも君のかな。」
男は星柄のチープなクラッカーを拾い上げた。
「初めてみた。これは何かな。」
クラッカーを知らないとは珍しい。ただこの浮世離れした純和風の家ではクラッカーだけが合成したようにも見えた。
「紐をひっぱると音が鳴るんですよ。良かったら試してください。」
男は興味深げに眺めた後、「食後に試してみよう。家の者たちにも見せてあげたい。」と、袂にしまった。
「行こう。食事の用意ができている。」
✳︎
男の後ろを黙って歩きながらも、先程の灯の言葉がずっと気にかかっている、
「あいつらは」の後、灯は何を伝えようとしたのだろうか。
「あの、灯ちゃんとは家族なんですか。」
「そうだね、大事な仲間だ。」
「兄弟とか。」
「家の前で迷子になっていてね、喋れないしかわいそうだからうちで面倒を見ているんだ。」
「……そうなんですね。」
喋れないはずがない。いや、この男の前では喋れない、と確かに灯は言っていた。男にとって灯は喋れない子供なのだろう。しかし、どう見ても灯は自分と同じか少し上の年齢だ。迷子になっても警察なりに頼れば家に帰れるだろう。犬や猫じゃあるまいし、かわいそうだから面倒を見る、という言葉がおかしいということは中3の桃でもわかる。男に感じていた漠然とした不安が、違和感として急速に形を帯びてくる。
やはり、人攫いなのだろうか。制服を着てる彼女が、同じ年頃の子と関わることが少ないというのはおかしいではないか。
(一緒に逃げ出さなきゃ。)
なんらかの事情で無理矢理ここに留められているのだろう。灯の姿を改めてみても、白ソックスにセーラーカラーから三角スカーフの裾を出して指定の長さのスカートを履いている。一切着崩した様子の無い服装は、彼女の美しさを際立たせ、純和風の屋敷にもマッチしているが、桃が普段見慣れた学生服の着こなしではなく浮世離れしている。普段から隔離されているのかもしれない。隙を見て、灯と警察に駆け込もう。
赤い橋を渡って、ようやく家屋につく。入り口の戸をガラと開けると、男とはまた違う、狐とおかめの面をつけた着物の女性2人が頭を下げて出迎えていた。
「おかえりなさいませ。そちらは。」
「灯に案内をさせるから気にしなくて良い。食事と湯の用意を。」
「かしこまりました。」
音を立てずに女達は立ち上がり去っていく。蝋燭の火が玄関を明るく照らしている。奥まで続く畳に、屋敷の広さが気になった。
「とても素敵なお宅ですね。」
「ありがとう。そういえば、まだ名前を聞いてなかったね。」
「そうですね、……お世話になります。猫田梅です。」
桃は、先程の灯の言葉を思い出して咄嗟に偽名を名乗った。
「そう……猫……、犬じゃなくて良かったよ。私は犬が大嫌いだからね。」
優しげな声から一変して、冷たい声が広いロビーに響く。本名の犬塚桃を名乗らなくて良かったと、心から思える声音だった。
「さぁ、上がって。灯に案内してもらって荷物を置いておいで。」
「あの、先に電話をお借りしても良いですか。母も心配していると思うので。」
「……構わないよ。靴を脱いだらついておいで。」
曖昧に流されたら、灯の手を引いてすぐに逃げ出すつもりだったが、電話は借りられるようだ。
これで良かったのか、と靴を脱ぎながら灯を見るも、無表情で目が合わない。明るいところでみてもまるで人形のようだ。何気なく灯の動きを目でおっていると、透けるように白い手で桃のスニーカーを布の袋に入れた。
「え?」
灯は男と合流して以降初めて、桃と目を合わせた。人差し指を口に当てる。目がガラス玉のようにキラキラと光に揺れて反射していた。
✳︎
「私から電話をかけて、猫田さんにかわろう。電話番号を教えてくれるかな。」
朝ドラでしか見たことのない黒電話の前で、男は受話器をもっている。使い方がわからないので男の言うままに電話番号を伝えた。男はぐるぐると、番号を回していく。見ているだけで酔ってしまいそうだが珍しさに目が離せない。
(しまった。私偽名を伝えているんだ、どうしよう。)
ここで偽名だとバレてしまったらどうしたら良いか。しかも男が嫌っている犬の名のつく名字なのだ。変えるのは名前だけにしておけば良かったと後悔しながら、男の反応を伺った。妙に心臓がバクバクしている。
「猫田さんのお宅ですか。初めまして。私、木津と申しますが。梅さんが道に迷われたようで今うちにいらっしゃいまして。ええ。今代わりますね。」
「え?」
猫田で通じたのか。電話番号を伝え間違えたのだろうか。戸惑いながらも、受話器を差し出す男からおそるおそる受け取った。
「お母さん。」
「梅?もう、心配かけて、今どこにいるの。」
なんだ、これは。
母が、母の声で、私の名前では無い名前を読んでいる。
「お母さんなの?」
「……あなたが電話をかけてきたんでしょう?」
ひゅっ、と思わず息を飲む。聞いたこともないほど冷たい母の声。
「そう、だね。今、木津さんのお家にいるの。明日になったら電車が出るから、明日帰るね。」
「そうなの。木津さんに迷惑をかけないように、気をつけて帰ってらっしゃい。」
コロっと、いつもの母に戻る。
が、これは、母ではない。
心配性の母が見ず知らずの男の家に泊まることをこんな簡単に許可するはずが無い。母なら絶対に住所を聞いて車で迎えにくる。私がわからなければ、男に電話を代わるように言うはずだ。これは、誰だ。
「もう、終わったかな。」
受話器をもったまま震えていると、頭上から男に声をかけられた。表情が無いはずの能面は、何故か笑って見えた。
✳︎
おかしい、本当はずっとおかしいと思っていた。
読めない駅名も、永遠のような長い階段も、ホームと違って明るい境内も。……お面をつけた大男も。
「ここは、どこですか。」
「私の家だよ。」
気づかないふりをしていた。そんなことあるわけない、と。人間の不審者だと思おうとしていた。
「あなたは、何?」
「私は木津。自己紹介がまだだったね。」
まただ。
噛み合わない会話。思えばずっと、男は桃の疑問に応えていない。
怖い。得体が知れない恐怖に、胃の奥がギュッとしまる。本能が大声を出して逃げたがっているが理性がそれを止める。最初にあった時よりも明らかに大きくなっている男から、逃げ出せる気がしない。
一歩、一歩、後退りする桃に合わせて、男は変わらない距離を詰めてくる。目をそらせずに後ろに下がっているとドン、と硬い感触にぶつかった。
「灯、食事が出来たんだね。呼びに来てくれてありがとう。」
無表情のまま頷き、灯は左手で男に先を促した。桃の肩におかれた右手は冷たい。屋敷についた途端、カラクリ人形のようにしか動かない彼女のことをどこまで信じたらいいのだろうか。自分一人ですら逃げられる気がしないのに、もう一人を連れて本当に逃げられるのか。
立ち竦んだままの桃を男は振り返る。男に手招きをされると、自分の意思とは裏腹に、足が勝手に進みだした。ギョッとして足元を見る。右足、左足、右足。
いやだ、行きたくない。怖い。声が出ない。
最初はゆっくりと、途中から滑るように。桃の足が男の後をついて行く。
(なんで止まらないの!!)
男の姿はとっくに見えないのに、桃の足は行き先を知っているかのように動き続けている。
(誰か、助けて。怖いよ。お母さん。お父さん。)
何度か角を曲がった末に、大きな広間へと辿り着く。
襖の前には灯が、桃のスニーカーを持って立っていた。
✳︎
「これをはいたら元どおりになる。大丈夫。息をすって。」
今にも進み出しそうになる体を、灯に強く押さえられながら右足にスニーカーを履かされる。灯の言う通り、大きく息を吸うと右足が自由になった。続いて左足にもスニーカーを履く。
「話せる?」
「……っ。」
声を出そうとして勢いよく咳き込んだ。背中を灯の冷たい手が撫でる。
「ありがと……っ。」
咳が落ち着くと、もう一度大きく息を吸い込んだ。体が自由に動く。安心したのも束の間、落ち着くと再び恐怖で体が震えた。
「怖い。怖いよ。灯ちゃん、どうしたらいいの。逃げよう、このまま。」
「無駄よ。逃げても追いつかれる。」
「じゃあ!」
ヒステリックに大きな声が出そうになる桃の口を、灯はすかさず手で押さえた。
「ごめん。でも、また体が動かなくなったらどうしたらいいの。」
他人に体を支配される恐怖。意図せず、不本意に体が動く恐怖。あの男に抗える気がしない。
「大丈夫。名前を教えていないなら次はかからない。」
「でもさっきは、」
名前も教えていない、何もしていないのに体を乗っ取られた。
「電話。手元をじっと見たでしょう。」
「え?」
言われて思い返せば、黒電話を男が回している間、ずっと見ていた気がする。
「あれは暗示。普通は意識まで乗っ取られる暗示。気安く会話をして、怪しんで、少女が出てきて安心して、自ら靴をぬいで、知らない土地で彷徨った後に清潔な家の中は落ち着くわよね。……電話からはあなたが聞きたい人の声が聞こえたでしょう。」
「うん。でもあれは、」
「本人じゃない。そもそもあの電話はどこにも通じてないもの。それでも聞きたい声が電話の向こうから聞こえたら、気が緩むでしょう。それがあいつらのやり方。あなたがそれに気づいていたから完全にはかからなかったし、今暗示が解けてるの。」
意識がなければ私も諦めていた。
と、灯が続け、その紙一重に鳥肌が立つ。あの時母に「桃」と呼ばれていたら気づけただろうか。自信がない。
「ここまで来たら私があなたを助けるから、私を信じて。一緒に逃げて。」
キラキラとビー玉のように輝く目の奥が赤い。彼女もまた、人間じゃないのかも知れない。それでも桃は、すがりつくように彼女の手を固く握った。
✳︎
スパン、と襖が開くとズラリと並んだ面達が一斉に桃の方を向く。
「ひっ。」
様々なお面を被った大小の人型が首をぐるりと回してこちらを見ている。あまりの光景に思わず声が漏れ、そのまま後退りしそうになる体を、気力で留めた。
「梅、おいで。」
部屋の奥の奥、床の間の前の上座から男の声が低く響く。隣の席を叩きながらまた手招きをする。今度は勝手に足が動かされることはない。
するり、と動かない桃を不審に男は首を傾げた。
「梅。」
先程よりも強い言葉。桃は怪しまれないように男の元へと一歩を踏み出した。男の元へ歩くたびに、無数の視線が体に纏わり付く気配がする。値踏み、品定め。どこかしこで声が聞こえる。
「ちいまぃの、あれでは喰えるところが限られる。」
「痩せっぽちの体、身が少なそうだ。」
「いやいや、身は少なくとも筋肉質な若い女。美味いに違いない。」
「しかし、もう少し肥えさせにゃいけん。」
暗示が解けて気付いてみれば、明らかに人じゃない、むせるような獣の臭い。恐ろしくなり、引き返したくなる。しかし、ここで立ち止まったり振り返る素振りを見せれば桃を取り囲む無数の面にたちまち喰われてしまうだろう。
桃は、暗示にかかったフリをして男の元へと進む。もう隠す気もないのか、明らかに人ではないサイズの大男は、嬉しそうに桃を自分の横へと座らせた。
「梅はもう少し太った方がいい、ほら、食べなさい」
赤い大きな碗の中には肉の塊が入っている。指し示されるまで気づかなかったそれをまじまじと見てみれば、肉片の中に人の指が入っていた。
「―――っ。」
瞬間的に大声を出しそうになり、口を押さえながら灯の言葉を思い出し、なんとか正気を保つ。この指が誰のものなのか、後の自分の姿とは考えないように息を整える。
「食事の前に、お渡ししたクラッカーを見せてあげてはいかがでしょうか。」
暗示下にあるはずの桃が口を開いたことに首を傾げながらも、男は袂からクラッカーを取り出した。
「皆、静かにしなさい。これは梅がくれた人間の玩具だ。試しに使ってみよう。」
ザワザワと囁いていた面達が一様に静かになる。
「紐を勢いよく引くんですよ。」
桃は使い方をレクチャーする。男が興味深げに紐に手をかけたのを確認して片膝を立てた。
パン、と発砲音が響く。続いて火薬の臭い。
「銃だ!!!」
一瞬の静寂の後、広間はたちまち阿鼻叫喚の様相を呈した。
その隙を逃さず桃は広間の外へと走り出した。先程まで桃を品定めしていた面達は、一様に狐の姿となり身を隠す場所を求めて部屋の端に向かって押し合っている。
「おのれ、騙したな。」
地の底から這うような低い声に思わず後ろを振り向くと、さらに大きくなった男は面をとり化狐の様相で、鋭く太い爪を畳に突き立てた。
見たこともない大きな獣に、生存本能がもっと早く走れと急き立てる。
✳︎
「あの男は化狐。ここに迷い込んだ人間を食べるの。」
灯は桃の鞄を探って、もう一つあったクラッカーを手に握らせた。
「化狐?本当に?」
そんなものが本当にいるのかと思うものの、先程まで自分の足が意志とは裏腹に動いていた事実が、その非現実を裏付ける。
「狐は、犬と銃が苦手なの。」
弱点を言われたところで、火も銃も持っていない。当然犬もいない。
「あなたがさっき渡したクラッカー、あれを男に鳴らさせて。そうしたら、私が銃だ、と叫ぶから。」
「男の前では話せないんじゃないの?」
「話したら人の姿でいられなくなるだけ。そういう契約なの。あなたが私を連れて行ってくれるなら問題ない。」
人形だから。
ガラス玉の瞳でじっと、見つめられた灯の言葉に、桃は強くうなずく。
「わかった。私が絶対一緒につれて帰る。」
「私にとっても、これが最後の賭けだから。私は人形に戻ったら何も言えなくなるから、帰り方も伝えておく。」
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背後に、狐の生臭い息を感じる。もう少し、もう少しで広間を出られる、思った瞬間に、髪の毛が一瞬爪に引っかかる。そのまま引き摺られる前に、髪の毛を手で毟る。一瞬浮いた体が、また地に足をつけ、その反動で少し体勢を崩しながらも、走り出した。
大した距離を走っていないはずなのに、恐怖でいつもより早く息が上がる。
ようやく長い広間を抜けると、入り口にセーラー服の有名アニメのキャラクターのキーホルダーが落ちていた。
「灯!」
直感的に灯だと判断して拾い上げる。そのまま、鞄の中に押し込んだ。
「梅ぇ。梅ぇ。許さん。許さんぞ。」
縁側を飛び降り、そのまま走り出した桃の後ろから狐の雄叫びが聞こえる。
外を走り出してみれば立派に見えた屋敷もボロボロで、獣道が続いているように見えた森は、高い草の生い茂る平原だった。
ハードル走をやっておけば良かった、と後悔しながらも足元の悪い道を走り続ける。図体の大きい狐は、今にも桃に追いつきそうなスピードで、すぐ後ろまで迫ってきた。
灯の言葉を思い出し、ギリギリまで追いつかれたところで狐に向き直り、クラッカーを狐の方に向けた。
怯ませるために向けるだけ。紐を引っ張ってしまえば、今度こそ銃じゃないことがバレるため、桃は真剣な顔で狐にクラッカーを向けた。
「来ないで!!」
反射的に手で顔を覆う狐を見て、すぐにまた駆け出す。図体は大きいのに咄嗟の動きが狐そのものであることに、余計な不気味さを感じて、鳥肌がたつ。
行きと同じぐらいの距離を走った頃に、神社が見えてきた。桃が登ってきた階段は無く、あるのは井戸のみだ。
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「来た景色とは違うと思う。でも方角は同じだから、とにかく来た方へ戻って。神社についたら井戸があるはず。煙草に火をつけて吸って、吐いて、井戸に飛び込んだら元の場所に戻れるはず。」
随分、詳しく知っているものだと、桃は怪訝に思う。怪しく思ったものに見ないフリをしたから、こんな状態になってしまったのだ、助けてくれるとはいえ、疑問は解消しておいたほうが良い。
「あの、なんで帰り方がわかっているのに、帰らなかったの?」
「私は、息が無いから。煙草を使って帰ることはできない。そして、煙草をもってここに来た人間は今までにいない。」
広間の奥から焦れた気配を感じる。そろそろ誰か出てくるかもしれない。
「少なくとも、前の私のご主人はこの方法で帰っていた。私は落とされてしまったけど、絶対ご主人の元へ帰ると決めてる。これ。」
ライターを桃の手に握らせる。
「以前に来た人間の持ち物。これが無いと火がつかないでしょ。」
その、以前に来た人間はどうなったのか、と聞く前に、広間の襖はスパン、と開いた。
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本当にここに飛び込むのか、と井戸の中を覗く。暗くて底が見えそうに無い。灯の言うご主人はここから本当に帰れたのだろうか。それは本当に元の世界なのだろうか。
浮かんだ恐ろしい考えに首を振り、鞄の中から、ライターと煙草を取り出す。
「娘!!!もう許さぬ、もう許さぬぞ!!!」
狐も程なく桃の前に降り立ち、その生臭い口を桃に近づける。
「お前は生きたまま、頭から喰らってやる。」
毛を逆立てて、四つん這いになっている様に手が震えてうまく火がつかない。狐が大きく鋭い爪を桃に向かって伸ばしたところで、慌ててクラッカーを引っ張った。弾みで手にしていたライターを井戸の中に落としてしまった。
「ああっ!!」
パン、と乾いた音が境内に響く。狐は突然の音に驚き、一回り小さくなり、手で頭を抱えた。
桃は狐どころでは無く、井戸に落ちたライターを目で追っている。
ここまで来たのに、後は火をつけるだけなのに。
(まだ諦めたらだめ、何か火をつける方法は。)
パニックになりそうな気持ちを抑えて、必死で火をつける方法を考える。
大して物の入っていない鞄を探り、マッチが入っていることを思い出した。煙草と一緒においてあったマッチ箱。すっかり忘れていたが、これがあれば火がつく。
桃が慌ててマッチに火をつけようと手にしたのと、狐に髪をぐいと引っ張られたのは同じタイミングだった。
「やっと捕まえた。」
ベロリ、と気持ち悪い下を頬に擦らせて、恐怖に歪む桃の顔を笑う。酷い臭いに顔を顰めるも、恐怖に体が動かない。いよいよ、喰われる。狐が大きく口を開け、喉まで見えたその瞬間に、「リン」と一度神社の本坪鈴が鳴り、狐の動きが止まった。
金縛りから解けたように動けるようになった桃は、再度マッチを手にして火をつける、今度こそ煙草に火をつけて、大きく吸い込んだ。
「ゴホッゴホッ。」
大きく吸い込みすぎて勢いよくむせる。もう一度軽く吸い、吐き出しながら井戸の中へと飛び込んだ。
飛び込む瞬間見えたのは、化狐の憎々しげな表情と神々しいまでの稲荷神社の社屋だった。
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ガクッ、
と首が落ちたことで目が覚めたことを知る。
慌てて辺りを見回すと、そろそろ最寄駅に着く、というところだった。
帰宅ラッシュの波に乗り、改札でICカードをタッチするも、乗車記録が無いと弾かれてしまった。
仕方なく、乗ってきた駅名を伝えて駅員さんに処理をしてもらう。いつもより少し愛想の悪い駅員さんにお礼を伝えて、改札を抜けた。
すごく長い夢を見ていた気がする。もう朧げになる記憶の中で、不意に気になって鞄の中をまさぐった。
有名なアニメキャラクターのキーホルダーが入っており、首を傾げながらもカバンにつける。
いつ、誰にもらったものなのか思い出せないが、大事なものだったような気がした。
「ただいま。」
「おかえりなさい、梅、遅かったね。」