怨恨と嚇怒
信虎が吐いた、呪詛のような言葉に、信繁と虎昌の顔から色が消える。
「そ……それは……」
「反論できるか? ――出来ぬよのう! 今、ワシが申したのは、厳然とした事実じゃからな!」
口ごもる信繁に、勝ち誇ったように冷笑を浴びせる信虎。
「ふん! 今更、義がどうのだ縁がどうのなどという綺麗事をほざくのは止める事じゃ! 太郎の手は、とうの昔に不義という名の泥に塗れておる。二十余年前、私怨に駆られて、ワシを国から逐った時点でな!」
「そ……それは違いまする、父上!」
信虎の妄言に、堪らず信繁は声を荒げた。
「あれは……決して、私怨からなどではございませぬ!」
「……何?」
信繁の抗弁に、信虎の酔眼が吊り上がる。
だが、信繁は、それにも怯まず、毅然とした態度で言葉を紡いだ。
「あの頃、凶作が続き、それに伴って物価も高騰しており、百姓や民は困窮しておりました。――ですが、父上は民の疲弊など鑑みる事も無く、毎年のように小県(現在の長野県上田市・小諸市周辺)や佐久 (現在の長野県佐久市と周辺)に兵を出し、その軍資金を得る為に、更に重税を課しておられました」
信繁は真っ直ぐに信虎を見据え、更に言葉を継ぐ。
「……その為、民の武田家に対する怨嗟の声は高まる一方で、それに加えて、重い軍役を課される家臣衆・国人衆の不満も募っておりました。いつ、その憤懣が爆発してもおかしくなかったのです」
「……」
「一度、その憤懣に火が点いてしまえば、忽ちの内に、手のつけられぬ程に燃えさかる事は必定……。そうなれば、せっかくひとつに纏まった甲斐が、昔の様に千々に割れてしまいます。ですから――」
「……再び国を分けぬように、民草どもの不満の根源たる国主――ワシを排除した。……そう言いたいのか?」
信繁の声を、信虎の低く押し殺した呟きが遮った。
彼は、食い殺さんばかりの眼光を以て、信繁を睨みつけた。
「くだらぬ! 民草の怨嗟? 家臣共の憤懣? そんなものにいくら火が点こうが、燃え広がる前に踏み消してしまえば良いだけの話だろうが! ワシならそうするし、そうしてきた! 何故、それしきの事で、国主を逐うなどと――」
「それしきなどではございませぬ!」
信虎の怒号に鋭い声を放ったのは、虎昌だった。彼は眦を上げて叫ぶ。
「古くは、唐国の殷より、民の不満の高まりで滅んだ国や家は枚挙に暇がありませぬ。加賀や畿内でも、土民どもによって領主が討ち取られる事が、実際に起こっておるではないですか! あの時のお屋形様や典厩様も、それを憂慮し、止むなく行動を起こしたのです!」
「ッ……! 黙れ、兵部ッ!」
信虎が、虎昌の言葉に怒気を露わにして叫び、手にした盃を投げつける。
「ぐッ――!」
信虎が投げた陶器の盃は、虎昌の眉間に当たり、甲高い音を立てて弾けた。
思わず額を押さえた虎昌の指の間から鮮血が溢れ、ポツポツと音を立てて、床板に朱い花を咲かせる。
信繁は、思わず声を荒げた。
「――父上ッ!」
「五月蠅いッ! 此奴め……、たかが臣の分際で、主たるワシに偉そうな口を叩きおって!」
「……拙者は、臣などではございませぬぞ……道有公」
「――何じゃと?」
訝しげに訊き返す信虎に向かって、虎昌は敵愾心に満ちた目で睨み返しながら言った。
「……拙者の今の主はただひとり。信玄公だけにござる。どう罷り間違っても、道有公……貴殿の臣などではござらぬ!」
「――ッ! 兵部、貴様ッ――!」
飯富の辛辣な言葉に、信虎が怒号を上げた。
怒りで我を忘れた信虎は、傍らに置いた太刀を掴み、一気に鞘から抜き放った。
「言わせておけば、たわけた事を! そこに直れぃ!」
目を剥いてそう叫ぶや、太刀を大きく振り上げ、虎昌の脳天に叩きつけようとするが――、
「お止め下さい、父上ッ!」
大きく両手を広げた信繁が、ふたりの間に割って入った。
刃を上段に振り上げた信虎が怒鳴る。
「ええい! 退け、次郎! 退かねば、貴様ごと叩き斬るぞ!」
「退きませぬ! 貴方に……将軍家御相伴衆の貴方に、我が武田の臣を斬られる謂れはござらぬ!」
「次郎……貴様!」
信繁の言葉に、信虎の表情が変わった。ギリギリと歯を噛み、こめかみに浮かんだ青筋は、今にも破裂せんばかりに、ビクビクと脈打つ。
血走らせた目でふたりを睨みつける信虎は、暫しの間、刀を振り上げたまま微動だにしなかった。
一方の信繁と虎昌も、鋭い目で信虎を睨み返したまま動かない。
そして――、
「…………フン! 疲れた、止めじゃ!」
信虎は、そう吐き捨てるように言うと、太刀を逆手に持ち替えて、板敷きの床に突き立てた。
そのまま、大股で襖の方に向かい、大きな音を立てて開け放つ。
そして、「酔いが醒めたわ! 厠じゃ!」と言い捨てて、廊下を歩き去っていった。
「……」
先程までが嘘のように、不気味な静寂が部屋に満ちる。
信繁は、ずっと止めていた息を吐くと振り返り、額を押さえて蹲る虎昌に声をかけた。
「……大丈夫か、兵部?」
「――は。……この程度、蚊に刺されたようなもの。ご心配頂くには及びませぬ」
虎昌は、血に塗れた顔を緩ませ、気丈な様子で笑みを浮かべる。
その様子を見て、信繁は安堵の息を漏らすが、つと、その表情を険しくさせた。
「……典厩様?」
その厳しい表情に、何かを感じた虎昌が訝しげに尋ねる。が、信繁はその問いかけには応えずに、胸元をまさぐり、小さな壺を取り出した。
――その手は、微かに震えている。
「典厩様……、それは一体……?」
信繁の思い詰めた表情に不穏なものを感じ、虎昌も表情を曇らせた。
と、手にした小壺をじっと見つめた信繁は、ボソリと呟く。
「……もう、これしかない……」
「……典厩様。それは――まさか!」
漸く、虎昌は信繁が持っている小壺の中身が何なのかを察した。そして、慌てて信繁ににじり寄る。
「典厩様、なりませぬ! それは、さすがに……」
「……兵部よ。もう、これしか無いのだ。父上を止め、兄上に駿河攻めを思いとどまって頂くには……!」
「し……しかし……」
「……今ここで、父上と言葉を交わして、はっきりと解った」
信繁は、掌中の小壺を微かに揺らしながら、独り言のように言う。
「たとえ百万言を尽くそうとも、父上の御心を変える事は叶わぬという事がな。変えるも何も、あの方の心は、とうに壊れておるのだ」
「……」
「父上の心中は、怨恨と憤激と嚇怒で満たされてしまっておる。今川家と……我らに対する、な。あの様な、得体が知れぬ物の怪の如きものに成り果てた父上を、兄上に会わせる訳には……いかぬのだ」
「で……ですが……!」
虎昌は、紙のように白くなった顔を苦衷で歪ませて、必死で信繁に訴える。
「そうは言っても……、それでは、典厩様が汚名を……“父殺し”という汚名を被ってしまいます! それは――」
「構わぬ」
虎昌の訴えを短い言葉で絶った信繁は、覚悟を決めた表情で言った。
「儂の名など、いくら汚れようと構わぬ。武田家と……兄上や太郎らを守れるのなら、儂は幾らでも汚名を被ろうぞ」
「典厩様……」
「……いかん、早くせねば……」
信繁は、そう呟くと、大徳利を手元に引き寄せ、その口に、栓を抜いた小壺の口を傾ける。
「……」
だが、そこで信繁の手は止まった。大徳利の口に小壺の口が当たって、カチカチと音を鳴らす。
彼は、グッと目を瞑り、歯を食いしばる。
そして――、
「……お赦し下され、父上――!」
そう、掠れる声で呟いた。
そして、小壺をゆっくりと傾ける。
――コポコポと音を立てて、小壺の中身が、大徳利の中に流れ込んだ。




