願いと覚悟
「先程は助かった。礼を言うぞ、兵部」
使者歓迎の宴が終わり、げっそりと疲れた顔をした家臣達が退去してシンと静まり返った躑躅ヶ崎館の薄暗い廊下を歩きながら、大徳利を左手に提げた信繁は傍らを歩く飯富虎昌に言った。
感謝の言葉を受け、虎昌は強張った表情を僅かに緩める。
「……何の。礼を言われるには及びませぬ」
だが、その顔はすぐに陰鬱に曇った。
「……拙者はただ、太郎様と同胞を守ろうとしたまで。……あのまま放っておいては、あの場で道有公が何をなさるか、分かったものではありませんでしたからな」
「……そうだな」
信繁も、小さな溜息を吐く。
「神楽を舞っている最中、父上の目に剣呑な光が宿ったのを見た。――恐らく、あのままにしておけば、人死にまでには到らぬだろうが、多かれ少なかれ、血が流れるところだっただろう」
「一条 (信龍)様などは、逆に危なかったですな。信虎様が狼藉を働こうとするより早くに、暴れ出しそうな形相でした」
「……もしかすると、それも父上の狙いの一つだったのやも知れぬな」
信繁は、そう呟くと、下唇を噛んだ。
「宴席の場で、将軍家の副使に対して狼藉を果たしたとなれば、厳しいお咎めは免れぬ。武田家の家格に大きな傷がつくし、手を出した者は、良くて謹慎。悪ければ切腹まで有り得る……」
「まさか……、信龍は、最後に顔を合わせたのが幼子の頃だったとはいえ、父上の実の息子ですぞ。さすがに父上といえど――」
信繁の言葉に絶句したのは、少し後ろについて歩いていた信廉だった。
だが、信繁と虎昌は、信廉の言葉に対し、同時に首を横に振った。
「いや……」
「……あの信虎公に、そのような情などは……」
「……」
ふたりの答えを前にして、信廉も反論できずに黙りこくった。
と、飯富がおずおずとした様子で、信繁に尋ねる。
「……如何なさいますか、典厩様? あの様子では、明日、お屋形様と道有公を会わせる事は、些か危険かと……」
「解っておる」
信繁は、渋面を浮かべながら、顎髭を撫でる。
「……だから、これから直接伺って、予め釘を刺し、明日の見舞を無事に終わらせようとしておるのだ。……できれば、例の駿河攻めの件についても、ご翻意を促して――」
「……それは、可能な事なのでしょうか?」
「……」
信繁の言葉に、懐疑的な問いかけで返す虎昌。それに対して、信繁は二の句を継ぐ事が出来なかった。
信廉は、兄の表情に並々ならぬものを感じ、激しい不安に駆られつつ、更に問いを重ねる。
「――で、では! もし、父上のお気持ちを変える事が出来なかったら、その時は……」
「……万が一、そのような事態に陥った際の手立ては――考えておる」
「――!」
信繁の放った言葉に、覚悟を決めた気配を感じ、信廉は絶句した。
――と、信繁はおもむろに廊下の途中で立ち止まり、弟の顔をジッと見て言った。
「逍遙……お主はもう良い。自邸へ戻れ」
「は……はぁ――?」
信廉は、兄の口から出た言葉を聞いて固まったが、すぐにその意味を理解して、顔色を失った。
「な――なりませぬ! こ、この逍遙軒信廉……いえ、孫六も、次郎兄とご一緒に父上の元に参ります! 次郎兄の身だけに、徒に罪を被せる様な事は――!」
「いかん!」
信繁は、縋り付かんばかりに食い下がる信廉を、鋭い声で一喝した。
「し――しかし……!」
「……孫六よ。お主には、儂の身に万が一が起こった際に、兄上の右腕としてこれからの武田家を支えていってほしいのだ」
信繁は、ふと表情を緩めると、弟の肩に右手を乗せて言った。
「……何せ、儂が居らなんだら、兄上にとって、母を同じくする兄弟はお主一人になってしまうのだからな。本当の意味で腹を割って話せる弟が、な」
「……!」
「……今回の駿河攻めの事といい、兄上は、何でもひとりで抱えこもうとし過ぎる。血を分けた兄弟であるお主が、側にいて目を光らせておらぬと、また何をしでかすか分からぬのだ。……だから、お主には、儂と一緒に来てほしくはないのだ」
「……い、いけませぬ!」
信廉は、その目に涙を滲ませながら、大きく頭を振った。
「こ……これからの武田家と太郎兄に必要なのは、私なぞより次郎兄の方に御座ります! ……なれば、次郎兄ではなく、私が父上に――!」
「それは、無理だ」
今度は、信繁が頭を振る番だった。
「――言っては何だが、兄上と同様に父上から疎まれていたお主では、決して父上は心を緩めぬ。これは……嘗て、父上に愛されていた儂にしか出来ぬ事なのだ」
「く……」
「……何、心配致すな、孫六」
信繁は、涙を堪えて下を向く信廉にニコリと笑いかける。
「何も、そう決まった訳でもない。儂が心と言葉を尽くして父上を説得すれば、必ずやそのお気持ちを変えることが出来る。だから、お主は安心しておれ。――良いな」
◆ ◆ ◆ ◆
「……典厩様。逍遙様にお伝えなさった事は、真の本心ですか?」
説き伏せた信廉が肩を落として廊下の角を見送るのを見送る信繁の背中に、低い声で言葉を投げかけたのは、兄弟のやり取りを黙って見ていた虎昌だった。
「言葉と心を尽くせば、道有公を説得できる――。典厩様は、そうお考えなのですか? ……本当に」
「……」
虎昌の問いに対して、信繁は何も言わず――それが何より雄弁な答えだった。
信繁の真意を察した虎昌は、その皺深い顔に苦笑を浮かべると、信廉とは反対の方向へ歩き出した。
「……では、拙者は同行させて頂きますぞ」
「待て、兵部。お主も、儂についてくる必要は無いぞ」
「何をおっしゃる」
戸惑った信繁の言葉に、振り返った虎昌は鋭い目で彼を見た。
「拙者は、元より覚悟を決めており申す。隠居の身ながら、わざわざこの場に参じたのは、道有公から若殿を……否、武田家を守る為に御座る」
「しかし……」
「論ずるに及ばず、じゃ。――これ以上、無粋を申されぬな、典厩様」
「……分かった」
信繁の言葉をキッパリと撥ね付けた虎昌の態度に、決して曲げぬという強い意志を感じ、信繁は折れた。
ふたりは、それからは無言のまま、廊下をゆっくりと歩き、ある一室の前で足を止めた。
そして、襖の前に跪き、互いの顔を見合わせる。
「……行くぞ」
「はっ……」
そう、短く言葉を交わし、互いに頷き合うと、信繁は襖の向こうへ声をかけた。
「――畏れ入ります、父上。まだお休みでは無いでしょうか?」
――と、襖の奥から、呂律の回らぬ声が聞こえてくる。
「おう、その声は次郎か! 何の用じゃ?」
「……はい。珍しい酒をお持ちしましたので、寝酒の一献でも如何かと思いまして」
信虎の嗄れた声を聞いて、身体が微かに震えたが、信繁は凜とした声で襖の向こうの父に言った。
すると、襖の向こうで、膳に盃を置く小さな音が聞こえ、
「ほう……さすが次郎。気が利くのう」
襖越しの信虎の声が弾んだ。
「丁度、甲斐の不味い酒に嫌気がさしていたところじゃ。遠慮無く入って参れ!」
「――はっ! それでは、失礼仕ります」
信繁は、信虎の言葉に返事をすると、襖に手をかけ、ゆっくりと開く。
その時、
……ちゃぷん……
信繁の懐の中で、何かの液体が容器の中で微かに揺れる音がした――。




