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茶碗と小壺

 「……お疲れ様に御座る」


 息が詰まる、将軍家の使者との御目見得を終え、己の仮居室に戻ってきた信繁を、心配顔の昌幸が迎えた。


「……ああ」


 心労で疲弊し、まともに返事をする事も億劫だった信繁は、それだけ言うと佩刀を投げ出すように脇に置き、円座(まろうど)にどっかと腰を下ろした。

 と――、


「典厩様……どうぞ」


 昌幸が、盆に載せた茶碗を、彼の前にそっと置いた。

 信繁は「ああ……」と、呻くように答えると、差し出された茶碗を手に取り、喉を鳴らして一気に呷った。


「ふう……美味い……」


 信繁は、空になった茶碗を盆に戻すと、大きな息を吐き、昌幸の顔を見た。


「昌幸……、心なしか、いつもより(ぬる)いように感じたが……それは、わざとか?」

「……ええ」


 信繁の問いに、小さく頷く昌幸。


「――公方様の使者殿……特に、信虎公との応対でさぞやお疲れの事と思い、一気に飲み干せるように、充分に冷ました茶をお出ししました。……お気に召しませんでしたか?」

「……いや、丁度良い塩梅だった。すまぬな、気を遣わせてしまって」

「いえ……何よりに御座います」


 信繁の答えに、昌幸は思わず顔を綻ばせた。


「もう一杯、如何ですか? 今度は普通の熱さの茶を――」

「あ……いや、それには及ばぬ」


 昌幸の申し出に、微笑を浮かべて掌を立てる信繁。

 そして、昌幸の心遣いに、心中で秘かに舌を巻く。


(……相変わらず、若いのに、良く気が回る男だ。……与力のままにしておくには惜しいな)


 一方の昌幸は、信繁の心中に気が付くべくもなく、残念そうな表情を浮かべながら頷いた。


「左様で御座いますか……」


 そして、盆を脇へ除けると、その表情を引き締める。


「……ところで……如何なご様子でございましたか、信虎公は?」

「……うむ……」


 昌幸の問いかけに、信繁は渋面を作った。

 その顔を見た昌幸の表情も曇る。


「……久しぶりにお目にかかったが……、父上は相変わらず……いや、以前よりも一層気短になられたようだ……」

「左様ですか……」

「うむ……。まあ、当然と言えば当然だが、自身を国外へ追いやった我らに、並々ならぬ恨み辛みをお持ちのようだ。その鬱屈した思いは、年を経て消えるどころか、歪に増しておる様でな」


 信繁は苦い顔で言うと、大きな溜息を吐いた。

 昌幸も、眉間に皺を寄せ、顎に指を当てて考え込む。


「もし――そんな信虎公と、お屋形様を会わせたならば……」

「……父上が、兄上に対して何をしでかそうとするか分からぬな……」


 信繁は、ふるふると首を振った。


「正直なところ……今の父上を、兄上に会わせとうはない」

「……でしょうな。病床にあるお屋形様には、悪い影響を与える事になるだけかと……」


 昌幸も、腕組みをして、じっと目を瞑る。


「顔を合わせるなり、お屋形様に『この親不孝者が!』と面罵するか……」

「……或いは、逆に、兄上に駿河攻めを唆すかもしれぬな」


 信繁の言葉に、昌幸も頷く。


「あり得ますね……。信虎公が此度の見舞の副使に選ばれたのも、御自身が自薦なさったのやもしれませぬ」

「……直接、この府中に乗り込み、兄上をけしかける為――か」

「さすがに、将軍家の副使とあれば、我々が入国を拒む事は出来ませぬからな」


 昌幸は、そう呟くと、じっと信繁の顔を見た。


「……恵林寺のお屋形様に、使者様――信虎公が相見(あいまみ)えるのは、いつですか?」

「予定では――明日だ」


 信繁は苦い顔で、喉から絞り出すような声で答える。

 ――そして、昌幸の顔をジッと見つめ、声を顰めて尋ねた。


「……佐助から、受け取ったか――?」

「……!」


 信繁の問いかけに、昌幸は顔色を変えた。

 暫くの間、黙りこくり、心の中で葛藤していたが――覚悟を決めたかのように目を瞑ると、懐に手を入れ、陶磁の小壺を取り出すと、無言で信繁の前に置く。

 信繁は、白磁の壺と同じくらいに顔を白くさせ、じっと小壺を凝視していたが、


「……御苦労」


 と、小さく呟くと、小壺に向かって手を伸ばした。

 その時、


「――典厩様!」


 昌幸が短く叫び、壺に向かって出した信繁の手首を掴む。

 そして、真剣味を帯びた目で、真っ直ぐに信繁の隻眼を見据え、微かに震える声で言った。


「……拙者には、何も言う資格など無いのかもしれませぬが……、焦るあまりに判断を見誤る事は無いようになさいませ……不要な枷を背負う事の無いように……」

「……解っておる」


 信繁は、昌幸の顔を真っ直ぐに見据えると、静かに頷き、声を微かに震わせながら答える。


「安心せよ。――これは、あくまで最後の手段だ。そもそも、これまでの儂らの考えが、全てただの杞憂だという事も有り得るからな……」


 そう言って、信繁は無理矢理に笑顔を拵えてみせた。


「――先ずは今宵、父上とじっくりと話をし、父上の真意が何処にあるのかを見極める。その結果……万が一、我らの推察の通りならば、言葉を尽くして翻意を促すつもりだ。――なに。これを使う事は無かろうよ」


 そう答えながら、自分の懐に小壺をしまい、昌幸にも聞こえぬ小声で呟く。


「……そう、願いたいものだ――」

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― 新着の感想 ―
[良い点] 更新お疲れ様です。 [一言] 展開であり得るもののうち最悪から 信虎が 1 ) 信玄に今川侵攻を唆す 2 ) 信玄を罵倒したのちに殺害する 信繁が 3 ) 面会できないように信玄を毒殺する…
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