不孝と不忠
居丈高な信虎の態度に、武田家の家臣達の間で、声にならぬどよめきが漣のように広がった。
その最前で、信繁は蒼白になった顔を上げて、眼前で仁王立ちする信虎の姿を見る。
(……変わらぬ――)
目の前の信虎は、昔と全く変わっていなかった。――と言っても、姿形ではない。
確か、信虎は今年で丁度六十の筈だ。信繁が最後に父と顔を合わせたのは、天文十年 (1541)に、甲駿国境で彼を駿河へと逐った時だから、実に二十三年ぶりの再会である。
久しぶりに見た父は、青々と頭を剃り上げ、僧体となっていた。その顔には、これまでの辛酸を示すように深い皺が刻み込まれ、顎に生やした髭には白いものが混じっている。
――だが、その餓虎の如き鋭い目は、溢れ出んばかりの覇気を湛えて爛々と輝き、その口元には酷薄な嘲笑が浮かぶ。そして、全身から溢れる、剥き出しの太刀を思わせる剣呑な雰囲気――その佇まいは、二十余年を経ても、全く変わっていなかった。
信繁は、背中一面に冷や汗が噴き出すのを感じながら、唾を飲み込んで、カラカラに乾いた喉を湿らす。
そして、縺れる舌を懸命に動かして、言葉を紡いだ。
「――お久しぶりで御座います。父上……」
「おう」
信虎が唸るように答えた、ただの一言――それだけで、信繁の額から、汗が噴く。
「そ――息災であられましたか……?」
「……息災ィ? ふ……フハハハハッ!」
信虎は、信繁の言葉に、顔を歪めながら、実に愉快そうに嘲笑う。
そして、ギロリと信繁の顔を睨み据えると、歯を剥き出しながら吼えた。
「お主が……お主がそれを言うか! 一杯食わされて国を追い出され、駿河に押し込められておったワシに、そう仕向けた張本人であるお主が!」
「……ッ!」
信虎に一喝され、信繁は思わず目を剥いた。咄嗟に言い返そうと口を開きかけるが――グッと唇を噛んで堪える。
そんな息子の様子を、毒蛇の様な目でじっと見据えていた信虎だったが、フンと鼻で嗤うと、信繁の肩を気安く叩いた。
「ククク……冗談じゃ。お主には、然程の恨みも抱いてはおらぬわ。……お主には、な」
「……!」
「……さて……」
と、信虎は、もう信繁に興味を無くしたかのように捨て置くと、彼と並んで平伏している義信を見た。
「お前が……太郎の倅――義信と言ったか?」
「は……はっ」
名を呼ばれて、慌てて信虎に向け、頭を下げる義信。
――と、信虎は、手にした扇子で義信の顎を持ち上げた。
それを見た家臣達の間から、狼狽したどよめきが上がる。
信虎は、そんな臣達のざわめきも意に介さず、孫の顔をしげしげと眺め、飽きると扇子を払って、義信の顔を軽く打った。
「――っ!」
「似ておらんな、お前の父とは」
そう言うと、信虎はニヤリと皮肉気な哄笑を浮かべる。
「寧ろ、面構えが若い時のワシに似ておる。……さぞや、アイツとは気が合わぬだろう?」
「そ……そんな――事は……ッ!」
「ああ、もう良い。黙ってろ」
血相を変え、声を荒げかける義信を軽くいなし、信虎は、玉砂利の上で平伏する家臣達を睥睨する。
「それにしても……、知らぬ顔ばかりじゃわい。板垣も、甘利も死んだのだったな?」
「……はっ。左様に御座る……」
「(原)美濃も、山城 (小幡山城守虎盛)も、か……」
そう呟くと、信虎は声を立てて笑い出した。
「はは、ハーッハハハハハッ! 恩を忘れ、ワシに弓を引きおった不忠者どもが、悉くワシよりも先に逝くとはのう! これは愉快! クハハハハハッ!」
「――ど、道有公!」
かつての臣の死を嗤い飛ばす信虎に、鋭い抗議の声を上げたのは、怒りで顔を朱に染めた飯富虎昌だった。
名を呼ばれた信虎は、ジロリと横目で虎昌を睨みつけると、その唇を歪めた。
「ほう……貴様はまだ生きておったか、兵部」
「……還暦を過ぎてなお、死に場所を見出せず、生き恥を晒しております」
「何……?」
信虎の太い眉がピクリと跳ね上がった。
「……貴様、それは、同い年であるワシの事をも揶揄しておるのか?」
「……滅相も御座らぬ」
虎昌は小さく頭を振ったが、目は敵愾心に溢れ、真っ直ぐに信虎を見据えている。
そして、毅然とした口調で、信虎に言った。
「――道有様、駿河殿や甘利殿を、その様に悪し様に罵るのはお止め下され! 皆、武田家の為に戦い、武田家の為に死んでいったのです! それを、言うに事欠いて、『不忠者』と――!」
「不忠者を不忠者と呼んで、何が悪い!」
信虎は、顔面を真っ赤に染めて、虎昌を大喝した。
「駿河も甘利も美濃も山城も――そして、貴様も! 全て、主君たるワシに逆らい放逐せしめ、不孝者の太郎にすり寄った――反逆者ではないか! たわけた事を申すなッ!」
激昂した信虎は、腰に差した太刀の柄に手をかけ、絶叫する。
「兵部! そこに直れぇい! 死に場所を探しておるのなら、今この場でワシが作ってやろうぞ!」
「――止めよッ、道有殿!」
興奮する信虎を諫めたのは、それまでずっと黙って事の成り行きを傍観していた、正使・細川藤孝であった。
「現在の己が立場を弁えられよ! 拙者と貴殿は、公方様より遣わされた見舞の使者であるぞ! かつての領国といえど、貴殿の振る舞いは目に余る。足利将軍家の威光に泥を塗るものに他ならぬぞ!」
「……ふん!」
若年とはいえ、自分より上の立場の藤孝に一喝され、信虎は不満顔をしつつ、不承不承、柄にかけた右手を離した。
そして、藤孝の事を、射殺しそうな鋭い目で睨むと、深々と頭を下げる。
「……これはこれは、大変失礼仕った。何せ、久しぶりの我が館ゆえ、些かはしゃぎすぎてしもうた。先短い老人の癇癪だと、何とぞご寛恕を賜りたい」
「う、ウム……」
信虎の態度に、顔を引き攣らせつつ、藤孝は小さく頷いた。
「わ……分かれば宜しい……」
「有り難き倖せに存じまする」
すっかり気を呑まれた様子の藤孝と、涼しい顔の信虎。
――どうやら、将軍家から遣わされた使者ふたりの間にも、深刻な軋轢が生じているようだった。




