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着到と帰着

 その日――。

 躑躅ヶ崎館には、いつになく張り詰めた空気で満ち満ちていた。まるで、全軍出陣を控えたかのようだ。

 ……いや、ある意味、それよりも重大だとも言えるのかもしれない。

 館の正門前には、府中に在する譜代の臣達が、大紋 (武家の正装)に身を包んでずらりと並び、緊張の面持ちで待ち人の到来を待っている。


「……そろそろですかな、ご到来は……?」


 家臣達の前でじっと佇む信繁に、背後から声をかけてきたのは、茜色の大紋を纏った飯富兵部少輔虎昌であった。

 彼は、先日の論功行賞後に隠居の身となっていたが、今回の使者を迎える為、わざわざ隠居所から出てきたのだ。

 虎昌の問いに、信繁は小さく頷いた。


「うむ……。先程、先触れが参った。もう、市中には入られている頃合だ」

「……若い者らが、必要以上に気を張っておるようですな。――まるで、鬼神か夜叉でも迎え撃たんとしておるようじゃ」


 虎昌はそう言うと、カラカラと乾いた笑いを立てる。……が、彼自身の顔色も、紙のように白い。


「まあ……正に、その通りなのやもしれませぬがな……」

「……」


 信繁は、虎昌の言葉に答えず、僅かに顔を顰めるのみだった。

 と、その時、


「……やはり、そこまで恐ろしき御方だったのですか? ……信虎公――我が父は?」


 ふたりの間に口を挟んできたのは、目が醒めるような藍色の大紋に身を包む、秀麗な顔つきをした若い男だった。

 信繁は、若者に目を向けると、困ったような表情を浮かべて言った。


「それは……答えに詰まる問いだな。――信龍よ」

「典厩様が、そこまで答えに窮するとは……お噂通りの御方なのですね」


 そう言うと、一条右衛門大夫信龍いちじょううえもんのたいふのぶたつは、豪快な笑顔を見せた。

 ――一条信龍は、武田信虎の八男。つまり、信玄や信繁の弟にあたる。

 信玄の弟とはいっても、生まれたのは天文八年 (1539)であり、年はまだ二十六。信玄の長子である義信とは、ひとつしか年が違わない。

 年若いながらも、親族衆として騎馬百騎を預かる侍大将であり、武田軍の中でも重鎮と呼べる地位にある男であった。

 ――ただ、その性格は竹を割ったようにハッキリとしたもので、良くいえば豪快、悪く言えば大雑把だといえる。


「……信虎公が駿河に追放――お移りになされた時、俺はまだ二つか三つでしたからな。今回、公方様の使者として父上が参る、と言われてもピンときませぬ。……ただ、兵部や馬場……それに、もう死んでしまいましたが、原美濃 (原虎胤)や駿河 (板垣信方)から、さんざん()()を聞かされて育ちましたからな。――とにかく苛烈な方であったという事は存じております」

「わ……ワシは、そこまでの事は申しておりませぬぞ! それは……原美濃殿あたりが――」


 信龍の言葉に、覿面に慌てた顔で、必死に弁解する虎昌。

 その様子を見た信繁は、思わず顔を綻ばせた。


「おいおい、兵部よ。言うに事欠いて、原美濃に罪をなすりつけるとは。正に『死人に口なし』だな」

「て……典厩様まで……」


 ダラダラと冷や汗をかきながら、虎昌は恨めしげな目で信繁を見る。その顔を見て、信繁は思わず吹き出しかけるが、つと顔を引き締めた。


「――確かに、苛烈で、厳しい御方だったが……お強かった。色々な意味でな」

「……強い……ですか」

「うむ」


 聞き返す信龍に、信繁は小さく頷く。


「……だが、その強さは、兄上――お屋形様とは真逆の意味での強さだった」

「……?」

「兄上は……ご自身の弱さをよく知っておられる。いわば、()()()()()()()()()なのだ」


 そう言うと、信繁は青く澄んだ晩夏の空を見上げた。


「……だからこそ、兄上は、儂や臣下の者の助けを借りる事に躊躇が無い。国を富まし、発展させる為には、数多の者の力が必要――それが分かっているから、兄上は、何よりも“人の縁”というものを大切に考えているのだ」

「……あれですな。お屋形様が詠まれたという、『人は城 人は石垣 人は堀』――」


 信龍が(そら)んじた句に、信繁は微笑を浮かべて賛意を示した。

 と、信龍が首を傾げる。


「成程……。で、あれば、信虎公の“強さ”とは――」

「……父上の強さは、御自身の強さ……それだけだった」

「……御自身の強さ――のみ……」

「ああ……」


 信繁は、小さな溜息を漏らし、言葉を継いだ。


「父上は強かった。……強すぎたのだ。だから、周りの者の力を恃む事は無く、家臣なぞはいくらでも替えが効く、将棋の駒のように軽く考えておられた」

「……左様」


 信繁の言葉に頷いたのは虎昌だった。


「……故に、信虎様は、自分に対し、耳痛い諫言をした者や気に食わぬ者を容赦なく処断なされた。内藤虎資殿、馬場虎貞様、山県虎清殿……他にも数多の者が――」

「結局は、その厳しさと苛烈さが家臣団の反発と危機感を募らせ、お屋形様に賛同し、信虎公の追放に力を貸す元となった……いう訳ですな」

「……そうだ」


 信龍の言葉に、信繁は頷いた。


「……仕方が無かったのだ。ひとりの強き者が君臨し、臣下を足蹴にするようでは、早晩、国が割れてしまう。それを防ぐ為には、強引であろうが不孝であろうが、その元凶を除くしかない。……あの時の兄上と、我らの決断は間違っていない――」

「ええ……俺も、そう思います」


 半ば、己に言い聞かせるように紡がれる信繁の言葉に、信龍は何度も頷く。


「……ですが」


 と、信龍は表情を曇らせた。


「それを……現在(いま)の信虎公は、果たしてご理解なさっておいでなのでしょうか……?」

「……」


 ――信龍の問いかけに、信繁と飯富は言葉を返す事が出来なかった。


 ◆ ◆ ◆ ◆


 「公方様の御使者が、御着到に御座る――!」


 正門に駆け込んできた先駆けの者が、大音声で触れ回り、到着を待っていた武田家の臣達の顔が緊張で強張った。

 家臣達は、列を整えると、玉砂利の敷かれた正門前の地面に跪いた。

 臣達の先頭に立つ、信繁と嫡子義信も例外ではない。


 ――やがて、


 複数の馬の蹄が鳴らす足音が、平伏した一同の耳に届き、どんどんと近付いてきた。

 そして、微かな馬の嘶きと共に、蹄の音が止まる。

 次いで、馬の鞍から下りた人の足が玉砂利を踏む音が、蝉の鳴き声に混じって、平伏する武田家の臣たちの耳へと届いた。

 ――と、


「……苦しゅうない、面を上げよ」


 顔を伏せた信繁達の頭上に、張りのある男の声がかけられた。


「はっ!」


 その声に応じ、義信と信繁は顔を上げる。

 ふたりの前に、二つの影が太陽を背にして立っていた。

 やにわに、信繁の心臓が鼓動を激しくし始める。


「――甲斐国守護・武田信濃守大膳大夫晴信が嫡男、武田太郎義信に御座ります!」


 武田家家中を代表して口上を述べるのは、武田家の嫡男にして、当主信玄に代わって家中を預かる陣代である義信である。


「公方様の御使者様におかれましては、ご機嫌麗しゅう。――京より遙々(はるばる)、父の見舞に御足労いただき、恐悦至極に存じまする!」

「うむ。出迎え大儀である。武田殿」


 ふたりの内、小柄な者が、穏やかな声で答えた。

 その声に違わぬ、柔和で、どことなく雅な顔つきをした男だった。


「……拙者は、足利将軍家が正使・細川兵部大輔藤孝に御座る。そして、こちらが――」


 そう名乗ると、正使――細川藤孝は、後ろに控える男を手で示した。

 ――信繁の心臓が、いよいよ激しく跳ね回る。


「副使として参った……武田無人斎道有ど――」

「いや!」


 藤孝の紹介を中途で遮り、その男は声を張り上げた。

 彼は、ズイッと一歩前に出ると、跪く信繁を往事と変わらぬ冷たく鋭い目で見下ろし、言葉を継いだ。


「――ワシこそは、()()()()()・武田左京大夫(さきょうのたいふ)信虎である」

「……ッ!」


 思わず顔色を変える信繁を、薄笑みを浮かべて見(くだ)しながら、武田無人斎道有――武田信虎は、その唇を皮肉気に歪めた。


「久しいのう、次郎。――今、()()()()!」

 一条信龍は、武田信虎の八男として、天文八年 (1539)に生まれました。長男である晴信とは、年の差が16ほど離れており、晴信の長男である義信とは一つしか離れていません。

 信龍は、武田家の始祖・武田信義の二男・一条忠頼の家で、鎌倉時代に断絶していた一条家を継ぎ、一条信龍を名乗ります。

 武田軍では騎馬百騎 (一説に拠れば二百騎)を預けられ、その戦闘力を高く評価されており、『甲陽軍艦』では、馬場信春・山県昌景らと並んで、家臣団の中でも重鎮の七人のひとりに選ばれています。


 長篠合戦では、織田の馬防柵を二重まで破る奮戦を見せ、味方が潰走する中、馬場隊と共に戦場に留まり、味方が逃げる時間を稼ぎました。その後、馬場信春は討死しますが、信龍は生きて甲斐へと帰還しています。


 天正十年、織田徳川の甲斐征伐に於いて、徳川軍一万に居城上野城を包囲された信龍は、手勢三百を率いて討って出、奮戦の後に、壮烈な戦死を遂げたと伝えられています。



 信龍は、「伊達者にして花麗を好む性質なり」と称され、派手な軍装で戦場を駈けていたようです。更に、親族衆の中で、信玄が信繁と同じくらいに信頼していたという話もあり、最期の壮烈さと相俟って、忠義の心に溢れる『花も実もある』武士だったと伝えられています。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 更新お疲れ様です。 [一言] 今更でしょうけど。 追放ではなく殺しておけばややこしい話にならずに済んだと思わされます。
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