小火と懸念
翌日の朝。
府中で急報を受けた信繁が、与力の武藤昌幸を連れて、押っ取り刀で恵林寺に駆けつけた。
「大事御座いませぬか、兄上?」
そう、布団の横に腰を下ろした信繁は、部屋の片隅に目を向けながら、心配げな顔をして尋ねる。
彼が見つめる板張りの床には、黒い跡が残っていた。
「……大した事は無い。勝手に燈台が倒れて、床を焦がしただけだ」
どこか憮然として答える信玄。
「ただそれだけなのに……わざわざお主らが足を運ぶ事でもない」
「いやいや、ひとつ間違えれば、大変な事になるところでしたぞ」
信玄の言葉に、焦げた床の傍らに膝をつき、仔細に調べていた昌幸が頭を振る。
「万が一、書庫の書類に火が回れば、たちまちにして燃え広がった事でしょう。この程度で済んで幸いでした」
「……お部屋を変えた方が宜しいのではないですか?」
信繁は、鼻の頭に皺を寄せながら信玄に勧めた。
「小火で済んだとはいえ、部屋中に焦げ臭い匂いが残っておりますし……。それに、昨夜の件が、ただの偶然では無い可能性も否めませぬ」
「……賊か刺客の仕業だとでも言うのか?」
信繁の言葉に、信玄は眉を上げた。
そして、血の気の薄い唇を歪めて、薄笑みを浮かべる。
「それは、奇妙な事では無いか? あの後調べたが、特に何を盗られた訳でも無い。それに、儂の命を狙う者がおったとして、何故、寝首をかかずに、小火騒ぎを起こすだけで退散したのだ? ……言っては何だが、付け火をするくらいなら、儂の命を奪う暇など、いくらでもあったはずだぞ」
「確かに、仰る通りではございますが……」
信玄の反論に、渋い顔をする信繁。
と、昌幸が口を挟む。
「――それより、お加減はいかがですか、お屋形様」
「……珍しいの、源五郎。お主が、儂の身体を気遣うとは」
そう、皮肉気な薄笑みを浮かべた信玄に、昌幸は大げさな身振りで手を振る。
「これはしたり! 拙者は何時でも、お屋形様のお身体を案じ、心痛めておるのですが! この武藤喜兵衛昌幸、お屋形様に、その様な非情者と思われていたとは……」
「ハッハッハ……戯言じゃ。赦せ、源五郎」
昌幸のわざとらしい悲嘆を前に、思わず相好を崩す信玄。
「……まあ、夜になると、時折咳が止まらなくなる事はあるがな。典厩や太郎に政を任せて、恵林寺でのんびりと過ごさせてもらったお陰で、ここ最近は頗る調子が良い。そろそろ、湯治や座禅に飽き始めてきたところよ」
「最近調子が良いといっても、油断してはなりませぬぞ、兄上」
うずうずした様子の信玄に、信繁はすかさず釘を刺す。
「以前にも申しましたように、京から戻られる法印殿の看立てを受けるまでは、府中に戻る事は罷り成りませぬ。まあ、そのご様子でしたら心配は無さそうですが……。それまでは、どうぞご安静に」
「……厳しい弟だな。まるで、昔の板垣 (信方)のようだ」
信玄は、取り付く島もない信繁の様子に、辟易としながら苦笑する。
そして、開け放たれた襖の向こうから覗く庭に目を遣りながら、呟くように訊いた。
「……府中の方はどうだ?」
「は。問題はございませぬ」
信玄の問いかけに、信繁は穏やかな笑顔を見せた。
「お屋形様ご不在の間も、政務を停滞させる事の無いよう、臣下も力を尽くして励んでおりまする。――特に、若殿のご奮励は著しく、日に日に頼もしくなって参りました」
「……そうか。太郎が――」
信繁の答えに、信玄は何とも言えない表情を浮かべた。
「彼奴は、良くやっているか……」
「はい」
信玄の呟きに、信繁は大きく頷く。
「はじめの頃は、某に泣き言を漏らす事もありましたが……。最近は、某がおらぬでも、ご立派に務めを果たしておられます。本日、某がここに駆けつけられたのも、若殿に後事を託すのに懸念が無いが故に御座います」
「……」
「ご立派になられましたぞ。……是非とも、ご帰府の際には、若殿に労いのお言葉を賜りますよう――」
「……そうだな。考えておこう」
複雑な表情ながら、小さく頷いた信玄に、信繁はニッコリと笑って、再度大きく頷いた。
「……それはそれとして、だ」
と、信玄は、腕組みをしながら首をコキリと鳴らしながら言った。
「法印は……いつ頃、京から戻るのだろうな。些か遅くはないか?」
「は。――それでございますが……」
信繁は、信玄の問いかけに、僅かに眉を顰めながら答える。
「先日、京より早馬が参りましたが、その使者が携えてきた書状によると、折悪しく公方様が夏風邪を召されてしまったとの事です。法印殿はその治療にあたるとの事で、こちらに参るのが予定よりも遅れてしまうようで……」
「何と。……ツいておらぬな」
信繁の報告に、信玄は思わず苦笑いを浮かべた。
「それでは……まだ当分は、読経と座禅に精を出さねばならぬという事か……」
「……申し訳御座いませぬ」
バツが悪い顔をして頭を下げる信繁に、鷹揚に手を振る信玄。
「……別に、お前が気に病む事でも無い。致し方ない事だ。……だが」
と、信玄はおずおずと上目遣いで、信繁の顔を窺う。
「さすがに、何時までも伏せったままでは身体が鈍る。……たまには、気晴らしに鷹狩りにでも行きたいのだが……いかんか?」
「……鷹狩り、で御座るか……?」
信玄の申し出に、信繁は戸惑い顔で、顎に手を当てた。
――確かに、信玄が言う通り、いつまでも寺の一室と石和の湯治場を行き来するだけの毎日では、身体も――そして、心も鈍ってしまうだろう。
……とは言っても、鷹狩りはかなり激しい運動である。万が一、鷹狩りの最中に信玄の容態が急変してしまったら――。
暫しの間、瞑目して考え込んでいた信繁だったが、その目を開くと、静かに頭を振った。
「……申し訳御座いませぬが、さすがに鷹狩りは――」
信繁が、そこまで口を開いた時である。
――ひゅんッ
三人の耳に、甲高い風切り音が聴こえた。次いで、乾いた衝突音。
「ッ!」
三人は、音が鳴った方に目を遣り――身体を強張らせた。
信玄の布団のすぐ側の板床に、黒く塗られたクナイが突き立っていたからだ。
「な――何事ッ!」
昌幸が声を上げると同時に、天井から何かが降ってきた。
ドスンという重い音が響く。
それは――柿渋色の忍び装束を纏い、顔を頭巾で隠した人間だった。
「――曲者ッ!」
「……」
乱破の姿をした闖入者は、無言のまま背中の刀を抜くと、呆気に取られて布団の上で固まっている信玄に向けて、その刃を振り上げた――!




