書状と瓜売り
翌日。
「父上が……兄上と秘かに便りを交わしていただと……」
居室として宛がわれた、躑躅ヶ崎館の控えの間で昌幸からの報告を聞いた信繁は、驚愕のあまり、大きく目を見開いた。
「は……」
彼の下座に控えた昌幸は、昏い表情で小さく頷いた。
「平八郎が言うには、信虎公の書状は、三年ほど前から京よりの使者が携えて来るようになったとの事に御座います。……それも、お屋形様以外の目には触れぬよう、秘かに……」
「……何故、父上の書状が、公方様の使者の手によって運ばれるのだ?」
信繁は、腑に落ちぬ顔をして、小さく首を傾げた。
「――父上は、今川家が、その身を預かっているのでは無かったか?」
「実は……信虎公は、四年ほど前に、駿河に逐われた後にお生まれになった、御嫡男の武田六郎信友――様に家督を譲り、今川様に隠居を願い出た由にございます。その後、京に上り、今は公方様 (十三代将軍・足利義輝)の御相伴衆を務めておられると聞いております」
「家督を譲った? ……それは面妖な事を」
と、昌幸の報告を聞いた信繁は、皮肉気な笑みを浮かべる。
「甲斐国守護武田家の家督は、天文十年に兄上が継いでおられる。父上には、譲るべき家督など無いはずだ」
「……信虎公御本人は、お屋形様に家督を譲った気はさらさら無い――そういう事なのでしょう」
「……」
昌幸の答えに、信繁は渋い顔をして黙り込んだ。
沈黙する信繁を前に、昌幸は昌幸で、腕組みをして唸る。
「それにしても……四年前とは、つまり――」
「……そういう事であろうな」
昌幸の呟きに、信繁も小さく頷く。
「――桶狭間で義元殿が織田に討ち取られた事が、大きなきっかけなのだろう」
永禄三年 (1560年)5月、日の出の勢いで東海地方で勢力を伸ばし、『東海一の弓取り』との異名を取っていた信玄の義兄――即ち、信虎の娘婿である駿河国守護・今川治部大輔義元が、尾張国桶狭間の地にて、織田信長に討ち取られた。
その一件は、今川家のみならず、周辺の諸国にも大きな影響を及ぼす。
――その中でも、特に大きな動きを見せたのが、三河 (現在の愛知県東部)の勢力であった。
義元死後、今川家の一部将に過ぎなかった松平元康が、岡崎城 (愛知県岡崎市)に拠って独立した。元康は、義元から賜った『元』の諱を捨て、名を家康に改め、更に尾張の織田信長と同盟を結ぶと、旧主である今川家の領地を脅かし始める。
対する今川家だが、義元の跡を継いだ嫡男氏真は、いつまで経っても仇討ちの軍を挙げる様子は無く、松平・織田の蹂躙を許すのみだった。
その為、近年の今川家は急速にその勢いと臣下の求心力を失い、迷走しつつあったのだ。
「……恐らく、父上も不甲斐ない今川に見切りをつけ、駿河を離れたのであろう。……いや、もしかすると、外戚だからと家中で大きな顔をする父上を疎んじた勢力があり、その者達によって体よく追い出されたのやもしれぬな……」
「甲斐を逐われ、更に駿河でもですか……。それはなかなか、辛いところです」
「……父上の性格なら、あり得る事だと思う」
信繁は、顔に憂いの色を浮かべながら呟くように言った。
彼の脳裏には、かつて甲斐国守護であった頃の父の姿が浮かんでいた。
苦い表情を浮かべる信繁に、昌幸が静かな声で言った。
「……拙者は信虎公に直接お目にかかった事は御座いませぬが、なかなかに苛烈な御方であった――とは聞き及んでおります」
「そうだな……」
信繁は嘆息しながら頷いた。
「儂には、そうでもなかったが、兄上に対しての当たりは、大層厳しかった。……兄上は兄上で、あれでなかなか我を張りがちな上に、ご自身の考えを表に出さぬ御方だからな……。父上とは、絶望的に相性が悪かった」
「衝突は必然……というわけですか」
「うむ……」
「でしたら――」
昌幸は、怪訝な表情を浮かべる。
「そこまで仲の宜しくなかった信虎様とお屋形様が、今になって親しく文を交わしているというのが、何とも腑に落ちませぬ」
「……長い年月で、おふたりの間で凍りついていたものが溶け落ちた――という事は?」
信繁は、本心では考えてもいない推測を、敢えて口にした。彼の胸の中で固まりつつある疑念が当を得ている事を、何とか否定したかったからだ。
だが、昌幸は淡々と頭を振った。
「そうであれば、わざわざ家中――典厩様にすら隠して、コソコソとやり取りをする必要は御座いませぬ」
「……確かにな」
信繁は、昌幸の意見に、苦い表情を浮かべつつ頷いた。
「やはり……これは、何か……あるか」
「ひょっとすると……」
昌幸は、眉根を寄せると身を屈め、声をひそませながら言った。
「拙者はてっきり、尾張の織田信長が、お屋形様に駿河攻めを唆しておる黒幕かと思うておりましたが――」
「……本当の黒幕は、父上――そう言いたいのか?」
「はい」
信繁の言葉に、即座に首を振る昌幸。
「……」
信繁は、唇を噛むと、板敷きの床に目を落とした。
「――確かに、時期的には合うのです。典厩様はずっとお眠りでしたから、ご存知ではないと思いますが……。お屋形様が太郎様の事を目に見えて遠ざける様になったのと、平八郎が京からの書状の存在に気付いたという時期が……」
「そう、なのか……」
「……」
――控えの間に、重苦しい空気が垂れ込める。
信繁は、顎髭を指の腹で撫でながら、呟くように言った。
「――何とかして、その書状とやらの中身を検めたいものだな……」
「でしたら――」
信繁の呟きに、昌幸は弾んだ声を上げる。そして、その目をキラキラと輝かせながら、信繁に言った。
「うってつけの者が居るではありませんか! 彼奴に働いてもらいましょう」
◆ ◆ ◆ ◆
「瓜ー。瓜はいらんかえ~!」
塩山にある恵林寺の道の脇では、夕暮れ時にも関わらず、瓜売りのあげる間延びした声が辺りに響く。
「採れたての瓜だよ~。井戸で冷やせば、暑気払いにもってこいだよ~」
日焼けした顔に薄汚れた頬被りを巻いた瓜売りは、道端で必死で声を上げる。だが、暑い昼の盛りならばともかく、すっかり暑さの引いた黄昏時に、わざわざ瓜を求めるような者は居ない。
――いや、
「……これ、瓜売り。ちょいと良いか?」
地侍風の男が瓜売りの前で足を止め、声をかけてきた。
「へい! いらっしゃい!」
客が現れた事に喜色を浮かべつつ、瓜売りは地侍に顔を向ける。
「美味しい瓜ですぜ、旦那。今朝切り取ったばかりの自慢の品さぁ。……まあ、少し萎れちゃあいますが、井戸にでも浸け込んでおけば、すぐに瑞々しさを取り戻して――」
「あー、瓜ではなくて、梨は無いのか? 梨なら、言い値で買おう」
「――あ?」
地侍の言葉に、瓜売りは気色ばんだ。
「……旦那ぁ、馬鹿言っちゃいけませんぜ? あっしは瓜売りでさぁ。生憎と梨なんざ持ち合わせちゃいねえんだ! 瓜なら、いくらでも売って差し上げるがねェ。“梨など無し”ってヤツよ!」
「分かった分かった……。致し方ない。瓜で我慢してやろう。――ほれ、これで足りるか?」
地侍は、瓜売りの啖呵に辟易しながら、懐から銭の入った紙包みを出す。
「……毎度!」
瓜売りは、地侍から紙包みを引ったくるように受け取ると、網に入った瓜を地侍に突き出した。
「ちいとばかし少ねえが、まけてやらあ! 持ってけ!」
そう言い捨てると、クルリと地侍に背を向けて、片付けに入る。
地侍はムッとした顔をしていたが、大きな溜息を吐くと、網を担いで去っていく。
――すると、
「……」
地侍の姿が消えた頃合いを見計らい、瓜売りは、先程受け取った紙包みをそっと開いた。
紙包みの中には何枚かの銭が入っていたが、瓜売りはその枚数には興味を持たない様子で、無造作に懐に放り込む。
――大切なのは、紙包み。
そして、その中に書かれている内容である。
瓜売りは、先程までとは一変した鋭い目でその文面を読み取り、小さく頷いた。
そして、小さく舌を打つ。
「……源五郎め」
と、猿飛の佐助は、瓜売りに扮する為に泥で汚した顔を顰めて、独り言つ。
「まったく……たったこれだけの情報で、信玄が隠している書状の在処を突き止めろというのか……」
呆れたとばかりに、溜息を吐く佐助だったが――すぐに、その顔に不敵な笑みを浮かべ、低い声で呟くのだった。
「……面白い」
――と。
今回、昌幸からの密命を受けた佐助が瓜売りに扮しているのは、大河ドラマ『真田丸』で、草刈正雄さん扮する真田昌幸が、秀吉主催のやつしくらべで瓜売りに扮しようとした事をモチーフに……嘘です。
完全な偶然です(笑)。




