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交渉と恫喝

 信繁は、ゴホンと咳払いをすると、静かな、そして断固とした口調で言った。


「――申し訳ござらぬ。お屋形様は、先日お倒れになった後の御気色(みけしき)芳しくなく、とある地にてご療養中にござる。今は、御嫡男である若殿と某が、陣代として(まつりごと)を執っておる状況でしてな。……遠路はるばるお越し頂いたのに、大変申し訳ござらぬが、お屋形様との御目見得は叶いませぬ」

「……!」

「……ほほう」


 信繁の、慇懃ながらも取りつく島のない物言いに、秀貞は狼狽えたような表情を浮かべたが、副使の藤吉郎は、片眉をピクリと上げた。

 彼は、まるで猿のような仕草でポリポリと頬を掻きながら、いかにも困ったという顔をした。


「それは困りましたなぁ。我が殿からは、必ず信玄公に直接お言葉をお伝えするよう、きつく言われておりまして……このままでは帰れませぬ」


 そう独り言のように呟くと、上目遣いに信繁を見る。


「――武田様、何とか信玄公にお目にかかる事は叶いませぬかのう? ここだけの話、我が殿はかなり気性の激しい御方でして……このまま手ぶらで帰っては、確実に殿の逆鱗に触れてしまいまする。そうなれば、我ら二人の首が、清州城下で仲良く晒される事になりかねませぬ」

「……誠に申し訳ないが、お屋形様がこの館にいらっしゃらぬ以上、会わせる事は能いませぬ。――織田殿へは、某より礼状を(したた)めますゆえ、それを以て――」

「いや何。別にこの館でなくとも構わぬのです」


 信繁の言葉を中途で遮り、藤吉郎はブンブンと首を振った。


「無論、信玄公に御足労いただくつもりはございませぬ。我らの方より信玄公の元まで出向きますゆえ、その往来の許可のみを頂きとう存じまするが……そう、()()()()()の」

「――!」


 信繁は、不敵な笑いを浮かべた藤吉郎の顔を見て、僅かに目を見開いた。


(……織田家(こやつら)は、兄上がどこに居るのかも、既に掴んでおるのか――)


 どうやら、思った以上に深い所にまで、織田家の手の者が紛れ込んでいるようだ。――いや、


(――やはり。家中の者に、織田家と誼を通じている者が居ると考えた方が自然か……)


 一体、誰が――。信繁の頭に一瞬疑念が浮かんだが、今はそれを考えるべき時ではない事を思い出し、気を取り直した。今は、目の前の織田家の使者をあしらう事に専念すべきだ。

 信繁は、いかにも申し訳ないという表情を顔に貼り付け、小さく頭を下げる。


「……重ねて申し訳ござらぬが、それも出来かねますな。何分、此度のお屋形様の変調は、日頃の激務が祟ったが故の結果であろうというのが、薬師の看立てでして……。暫くの間、(まつりごと)からは完全に離れて、のんびりとお過ごし頂くように努めねばならぬのです。――もちろん、その旨も礼状には(したた)めさせて頂きます故、何とぞご寛恕下され」

「……しかし――」

「――それとも」


 丁重な断りの弁にも納得できかねる様子で口ごもる秀貞に、信繁は鋭い視線を浴びせて言った。


「何か……某や若殿ではなく、是が非でもお屋形様ご本人に直接お目にかかって申し上げねばならぬ事でもあるのですか? ()()()()()()()()()()()――?」

「う――」


 信繁の厳しい一言に、秀貞は言葉に詰まった。その額から、一筋の脂汗が垂れる。


「そ……それは……」

「……」

「あはははは! 武田様、それは邪推が過ぎますぞ!」


 言葉に窮する秀貞に代わり、信繁の言葉を一笑に付したのは藤吉郎だった。

 信繁は、ジロリと藤吉郎のとぼけた顔を一瞥すると、彼に向かって訊く。


「邪推……? そうですかな?」

「そうですとも!」


 藤吉郎は、信繁の疑念に満ちた物言いに、大袈裟に頷きながら応えた。


「我らは、我が殿の『信玄公に直接御目見得し、お言葉を賜ってこい』という御命に従いたい一心なだけで御座ります。何せ、命に関わりますからな! それ以外の他意は御座いませぬ」

「……」

「ですから、その様な怖い顔で睨まないで頂きとうございます! 拙者は卑賤の出ゆえ、武田様の様な威厳に満ちたお方に睨まれてしまったら、陰嚢(ふぐり)が縮み上がって戻らなくなってしまいまする! あっはっは!」

「……ぷ」


 藤吉郎のとぼけた言葉と表情を目の当たりにして、思わず信繁は吹き出しかけた。――が、これも藤吉郎の計算の内だと思い当たって、必死で笑いを噛み殺す。

 そんな信繁の様子を、おどけながらも油断の欠片もない目でじっと観察していた藤吉郎は、小さく舌を打つと、一際大きな声を上げた。


「……相分かり申した! 誠に残念では御座いますが、信玄公が御療養中とあらば致し方ございませぬなぁ。ここは大人しく尾張へ帰る事としましょう、林様」

「な――! 藤吉郎、貴様、勝手に――!」


 正使の自分を差し置いて、勝手に話を決めた藤吉郎に怒りの声を上げる秀貞だったが、藤吉郎は彼を完全に無視して、話を進める。


「――ですが、武田様。先程仰っておられた礼状の件は、何とぞお願い申し上げますぞ。でなくば、冗談抜きで我らの首と胴が泣き別れになってしまいますからのぉ」

「う……うむ、相分かり申した。必ずや」


 冗談なのか本気なのか分からない事を口走る藤吉郎に、信繁は些か呑まれながらも頷いた。

 その返事を聞き、藤吉郎は実にわざとらしい溜息を吐いてみせる。


「はあ……それにしても残念ですなぁ」

「……」

「信玄公のお目にかかるという御役目も果たせず……実に残念至極。――とはいえ」

「……ん?」


 不自然な拍子で言葉を切った藤吉郎に、信繁は片眉を上げる。

 その怪訝な表情をチラリと見た藤吉郎は、皮肉気に唇を歪めると言葉を継ぐ。


「――我らと顔を合わす事が出来ずに、最も残念な想いを抱くのは、実は我らでは無いやもしれませぬな。……会いたがっておられるのは、我らよりも……寧ろ、信玄公の方だったのではないかと――」

「これ! 藤吉郎ッ! それはあまりにも……!」


 藤吉郎の言葉に、秀貞は顔色(がんしょく)を変えた。慌てて副使を窘めようとするが、それよりも信繁が立ち上がる方が早かった。

 秀貞の顔が、今度は真っ青になる。


「た……武田様――」

「話は以上である。これより急いで礼状を書き上げる故、控えの間にて暫しお待ちあれ。そして――」


 立ち上がった信繁は、隻眼に明白な敵意を込めて、ふたりの使者を見下ろしながら告げる。


「礼状を受け取り次第、早々にこの地を立ち去られよ。宜しいな。……でなくば、身の保障は致しかねる」

「た……武田様! その仰りようはさすがに――!」


 信繁の敵意に満ちた物言いに、思わず抗議の声を上げる秀貞だったが、信繁の冷たい眼力の前に、思わず息を呑んだ。


「ッ――!」

「――あと、ひとつ。ご承知置き頂きたい」


 気圧された秀貞に対し、信繁は静かに、そして冷徹に告げる。


「当家にとって御家は、友好を温める者では御座らぬ。()()、敵でもないが……」


 そう言うと、信繁は僅かに目を細め、決定的な一言を吐いた。


「――織田家は、当家にとっての同盟相手である今川殿の仇。言うなれば、“味方の仇”で御座る。……織田殿が、当家にいくら胡麻を摺ろうが、これ以上親密になる事はあり得ぬと心得られよ」

「な――!」


 あまりに直接的な信繁の言葉に、秀貞は絶句する。

 ――と、


「……武田典厩様」


 その脇に控えていた藤吉郎が、先程までとは打って変わった、低く沈んだ声を上げた。

 彼は、ゆっくりと顔を上げて、じっと信繁の顔を見上げる。

 ――その目には、先程までの、剽軽者のおどけた光は綺麗さっぱりと消え失せ、冷酷な武将のそれとなっていた。

 信繁は、その目を見た瞬間、先程過ぎった感覚が間違っていなかった事を確信する。


(……成程。こちらの方が、この男の()か)


 信繁が心中で頷くと同時に、藤吉郎が口を開く。


「――宜しいのですかな? 今の貴殿のお言葉……()()()の言葉として、我が殿へお伝えする事となりますぞ? ……当主である信玄公を差し置いて、軽々しい言葉を吐くのは、武田家――いや、()殿()()()()()()()()、良い結果にはならぬのではないですかな」

「……ご忠告は、有り難く拝受しよう。――だが」


 信繁は、挑みかかるような藤吉郎の目を、隻眼ではっしと睨み返し、ハッキリと言い放った。


「我が武田家は、織田家とは違う。この国は、当主・武田信玄公ひとりの国ではない。お屋形様の意志ひとつのみでこの国が動くなどとは、努々思われぬ事だ。御帰国なさったら、織田殿にもそうお伝え頂きたい」


 そして、最後に二人を鋭い目で睨みつけると、有無を言わさぬ声色で、念を押すように付け加える。


「――宜しいな」

 木下藤吉郎とは、皆さんご存知の通り、後の豊臣秀吉です。

 秀吉は、天文六年 (1537)年、尾張国 (現在の愛知県西部)中村で誕生しました。彼の父・木下弥右衛門は、足軽だったとも農民だったとも、はたまた行商人だったとも言われています。当作では、農民説を採りました。

 幼名は日吉丸でしたが、長じて木下藤吉郎秀吉を名乗り、はじめに今川家の家臣・松下嘉兵衛に仕えます。

 ですが、後に嘉兵衛の元を去り、尾張の守護代・織田信長に仕えます。

 有名な、信長の草履を懐で温めたエピソードも、この頃の事とされています。

 彼は次第に頭角を現し、永禄四年には、浅野長勝の養女・ねねと結婚します。ねねは、後の北政所です。

 永禄七年時点では、彼は対斎藤家の武将として、有力武将の誘降工作を担当していたようです。


 なお、『墨俣一夜城』で、彼の名が内外に轟く事となるのは、永禄九年 (1566)の事で、この物語のもう少し先の話となります。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 更新お疲れ様です。 [一言] 流石は関白まで登り詰めただけの事はありますね。凄え胆力。 当時の大名はほとんどが寄り合い所帯というか○○連合会みたいな感じだったとか。 同業者組合みたいな感…
[良い点] 『当主・武田信玄公ひとりの国ではない』戦国大名の実質を示す言葉だと思います。大名は独裁者などではなく、地域の利害関係を調整する代表者でしかない。例外が織田信長であり、だからこそ天下統一まで…
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