表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

77/107

政務と使い

 「……済まぬな、典厩……それに太郎。暫しの間、後を頼むぞ」


 躑躅ヶ崎館の門前で、難儀そうな様子で駕籠に乗り込んだ信玄は、青白い顔を信繁と義信に向けて言った。


「――すぐに身体を治して戻ってくるゆえ……」

「いけませぬ。お屋形様は、今までずっと休みなくお働きだったのです。此度の事は、そのツケが回ってきたからにございます」


 信玄の言葉に、信繁は厳しい顔で首を横に振る。


「……こう言ってはなんですが、丁度良い機会です。石和の湯に浸かって、存分に骨休めして下さいませ。後の事は、某と若殿にお任せ下さい」

「しかし……」

「しかしも案山子(かかし)もございませぬ」


 抗弁しようとする信玄を制して、信繁はズイッと顔を近づけた。


「早くても、法印殿がお屋形様のお身体を看て太鼓判を押すまでは、この館へ戻る事は相成りませぬぞ。――良いですな、兄上」

「…………分かった」


 信繁に厳しく釘を刺され、不承不承といった様子で頷く信玄。その答えを聞いた信繁は、満足げに頷くと、その顔に微笑みを浮かべた。


「なに、ご安心下さい。若殿も、もう二十七。立派な男でござる。……それに、嫡男として、ゆくゆくは当主を継ぐ身。今の内に当主の御役目に慣れてゆく必要もござりまするし。……そういった意味でも、此度の件は良い機会かと」

「は――はい! お任せ下さい、父上! 叔父上たちや、飯富や馬場たちもおりますし……非才ながら、存分に御役目を果たして参ります!」


 信繁の言葉に続いて、義信も顔を紅潮させながら頷く。

 信玄は、じっとふたりの顔を見据えていたが、フーッと息を吐くと、小さく頷いた。


「……そうだな。分かった……。太郎、(まつりごと)はお主に預ける」

「は――ハッ! 畏まり申した!」


 信玄は、顔を輝かせて、勢いよく頭を下げる義信に頷くと、顔を上げて、信繁の目をジッと見て言った。


「典厩……頼むぞ。太郎の事を(たす)けてやってくれよ」

「はっ、勿論でござります。どうぞご安心を――兄上」


 信繁は微笑みながら、兄に向かって深々と頭を下げた。


 ◆ ◆ ◆ ◆


 信玄が、塩山(えんざん)(現在の甲州市小屋敷)にある恵林寺へ療養に向かった後、義信はその陣代として、精力的に政務をこなしていた。

 国主の政務は多岐にわたる。

 領民の訴えに耳を傾けて裁定を下したり、安堵状の発給といった内政的な事柄。

 信濃・西上野の各城主からの報告を受け、他勢力の動向を把握した上で、それに対する指示を下す、外交的・軍事的な事柄。

 そして、日々訪ねてくる他国の使者への対応――。

 義信と、彼を補佐する信繁には、休む間も無かった。



「……父上の凄さが、今更ながらに思い知らされますな」


 ある日の昼下がり、右筆が書き上げた発給文書に延々と花押を捺し続けながら、義信は疲れた声を漏らした。


「どうした? もう、音を上げたのか? まだ、兄上がここを発ってから、十日も経っておらぬぞ」


 彼の傍らで、とある村同士の水争いに関する訴状に目を通しながら、信繁は苦笑を浮かべる。

 義信は、むっとした表情を浮かべて硯の上に筆を置くと、首をぐるぐると回しながら答えた。


「……別に、音を上げたわけではございませぬ。ただ、感服していただけです。――父上は、私の年齢(とし)の頃には、もうこんな事を毎日繰り返しておったのだな――と」

「……確かにな」


 信繁も、訴状から目を上げると、大きく頷いた。


「だが、昔の兄上の時には、板垣や甘利たちが脇で支えておったからのう。――微力ながら、儂もな。……しかし、そうだな。確かに最近の兄上は、少々ひとりで抱えすぎだな」

「抱えすぎ……ですか?」


 義信の戸惑いを浮かべた表情に、再び苦笑いを向ける信繁。


「うむ……。特に、上田原の戦い(1548年)で板垣や甘利が討死してしまってから、(とみ)にそのきらいが目立ってきたような気がする。……儂が、ふたりの分も兄上の事を支えようとしてはいたのだが……」

「確かに……三年前に、叔父上があのような事になってからは、更に独断が目立ってきたかように思えまする。……私が、叔父上の分まで、父上を輔佐できれば良かったのですが……」

「まあ、そう気を病むな。兄上は、ああいったご気性の御仁だ。責任感が些か強すぎる。――決して、お主が頼りにならぬからという訳ではない」

「……そうでしょうか……?」


 信繁の慰めの言葉にも、義信の顔は晴れない。


「……太郎」

「――御免」


 重ねて声をかけようとした信繁の声は、廊下からの小姓の声に遮られた。仕方なく、信繁は声の方へと振り向いた。


「……何だ。今は執務中だが」

「も……申し訳ございませぬ。ですが、国境の――若神子 (現在の北杜市須玉町)から火急の使いが参っておりまして……」

「……若神子から?」


 小姓の言葉に、信繁と義信は互いの顔を見合わせた。そして、顔を引き締めると、小さく頷き合う。

 若神子とは、甲斐府中から見て北西に位置し、信濃へと出る際の中継点としての役割を果たしていた地である。逆に、信濃で何か事が起こった際には、府中の最終防衛地点のひとつとして機能する砦でもある。

 そこからの火急の使いとは、穏やかな話ではない。

 内心の動揺を落ち着かせるように、軽く咳払いをして、義信が小姓に問う。


「で――若神子からは何と……?」

「は……」


 小姓は、片膝をついたまま、その端正な顔を上げると、はっきりとした口調で二人に告げた。


「今朝――、若神子に、尾張 (現在の愛知県西部)の織田弾正忠信長殿より、此度の事に対する御見舞の使者がおいでになった由に御座います。……是非とも、お屋形様に御目通りしたいと申しておられるようなのですが……いかが取り計らいましょうか?」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ツギクルバナー
― 新着の感想 ―
[良い点] 更新お疲れ様です。 [一言] 黒幕(仮)が来襲! 建前の遣り取りになるのは間違いないでしょうけど。 「して、お加減は如何で?」 「少々働き過ぎたようで。社長が倒れるまで働くとはどんだけブラ…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ